ぺろりとめくれる、美しさ


 梅雨場の倦怠が気になりだしたのはいつごろからだろうか。

 少なくともきらきらとしていた大学生の頃は、そんなものは気にならなかった。

 いたって普通の家庭に生まれて、公立の小学校と中学校を卒業して、公立の高校に進学した。

 水泳とバトミントンが好きな女子学生で、そうした部活動に入って青春時代を過ごした。

 好きな男子や仲のいい友達、嫌いな女に、不得意な先生……。

 誰しもが通るような道を通って、私立の大学に入った。

 両親と校門の前で入学の記念写真を撮って、部活動とサークルの違いもよくわからなくて、成り行きのまま初めて男性を知った。その男とは少しだけ付き合った。初めてキスした相手だったし、気持ちが急速に冷えていく感覚を初めて味わった相手でもある。

 お酒とか、ドライブとか、友達との旅行とか、SNSで性を求めて見たりとか、普通の女子大生をやった。

 大学を卒業して都心に近い中小企業で事務員をやった。

 配置転換で秘書になって、取締役の世話をした。退屈で、面倒で、昭和くさい人たちの価値観に嫌気がさしていた頃、タカユキと出会った。

 タカユキは友達の紹介だった。

 真面目そうで、格好よくて、それなりの会社に勤めていて、すぐに付き合うことになった。

 嬉しかった。

 キラキラしていた。

 とんとん拍子に交際が進んで、結婚して、わたし達の未来は明るいものだと信じて疑わなかった。

 ドラマや映画で描かれる恋愛劇と結婚の道筋は、わたし専用の舞台があったし、高速道路みたいにあっという間に駆け抜けてしまった。ドラマとか映画と違って、その先がある事をわたしはよく理解していなかった。


 団地に移り住んだのは、新居を買う住宅資金を溜めるためだった。

 最初の二年はそれで何事もうまくいっていた。

 三年目になってタカユキが浮気しているのではないかと言う節が出てきて、つまらないことで喧嘩したりした。

 子どもが出来なくて、イライラした。

 タカユキの両親が「孫はまだ?」と言うたびに、もっとイライラした。

 正月なんて来なけりゃいいし、お盆休みに、どうして知らない骨が置いてある墓に行かなくちゃいけないのかわからなかった。

 わたしの勤めていた会社が倒産した。

 従業員の受け入れ先に一時的に再就職したけれども、なんだか偉そうなことを言う割に業績の上がらない鬱屈した会社だったので、気持ちが入らなかった。

 古株の上司となにかでモメて、さっぱり辞めてしまった。

 それをタカユキは怒った。

 ひどく、しこたま怒られたわけではなかったけれども、わたしはそのひき「ひとりなんだ」と思った。

 キラキラしていた日常は夕立前みたいに薄暗くて、雨の匂いが混じりそうなもわっとした不愉快な空気が漂っている。

 わたしは年齢を重ねて、女としてのハリとツヤを失いかけていた。

 テレビで芸能人が「まだ若いですよね」と言われて厭らしく笑っている。

 そりゃ金があるんだから、自分を美しく保つことが出来る。

 わたしだって金があれば朝から表参道のヨガ教室に通って、神宮前のオーガニックサラダ専門店でヘルシーな食事を食べて、渋谷の美容室で髪を整える事ぐらいできる。

 金と時間があれば……。


 そんなある日、わたしは痛みから起き上がる事が出来ず呻いていた。

 タカユキはシゴトがあるから、とさっさと家を出て行ってしまって、わたしはひとり残された。

 ずるりという鈍い感触とともに布団から出たとき、わたしは「ひっ!」と思った。

 そこに残されていたのは、わたしの全身をかたどった皮だった。

 丸まった掛け布団のようにわたしの皮が残されていた。

 爬虫類が脱皮するみたいに、皮が残っていたのだ。

 最初は怖かった。

 悲鳴を噛み殺すのに必死だった。

 でも、ずるりと皮から身を剥ぐと……痛みも頭痛もなく、失われていた肌のハリやツヤが戻って来ているような気がした。

 脱皮をしたのだから、新鮮な、ぴちぴちの肌が手に入ったのだ、と思い当たるまでしばらくの時間を有した。

 わたしはそれから、タカユキに黙って幾度か脱皮した。

 そのたびにタカユキは不思議そうな顔で。


「なんか、綺麗になった?」


 食卓の向こう側で彼はそう言い、久しぶりにわたしを抱いてくれたりもした。

 子どもが作れそうな気がした。

 そんな生活が二か月、三か月と続く。


 押し入れの中には、わたしの脱皮した皮であふれている。

 これは燃えないゴミにも、燃えるゴミにも捨てられない。

 もうあふれてくるわたしの皮を、いつ、どのようにタカユキに伝えようか。

 そんな事を思いながらも、また一枚、脱皮した。


 美しさのために。

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