そこは僕の縄張りだ!
都会の生活に憧れて上京した。
でも、都会の生活が嫌になって郷へ帰ろうと決意した。
必死に勉強して東京の大学に受かったのは遠い昔の事だ。
貧乏で狭くて、でも銭湯で肩を寄せ合いながらパソコンに四苦八苦していた学生時代が懐かしい。
新人歓迎会でしこたまに飲まされて、二回も三回もトイレでゲロって、店員に「お客さんさァ!」と怒られた。そのときに介抱してくれた東京育ちの美人な先輩に、僕は恋する間もなく「帰ろう、ね。もう帰ろう。今日は」となにがなんだかわからないまま店から連れ出されて、一方的に童貞を奪われた。
東京には地方から上京した童貞狩りの魔女みたいな女がたくさんいることを学んだ。
あの美しい先輩に童貞を奪われたせいで、僕の大学生活の半分は……あの先輩から目が離せなくなって、たくさんの出会いを逃して、たったいちどの『はじめて』の記憶を追い続けることになってしまった。
無事に就職して両親に電話で報告したとき「頑張んなよ」と「気を付けなよ」が混じった返答をもらった。両親はずっとずっと郷に住んでいて、山手線よりもスズメバチに気を付けるべきであると考える人種だった。
それがわかるから「うん、気を付けるよ。頑張るよ」程度の返事だけをして、盆にも正月にも帰らない生活を続けた。
東京の企業生活は少しおかしい。
月が壊れたら、なぜ月が壊れる前に対応が出来なかったのか。月が壊れる予兆はなかったのか。
それを言葉ではなく報告書の書式に従って、押印に押印と押印を重ねて部長へ提出しなさい。その補足資料としてA,B,Cの書類と参考資料をつけるために木星と土星までいって帰ってくるように。それらは月曜日の午後二時までに実施しなくてはいけない。
バカか。
そんな事できるか。
「でも、それをやるのが社会人だからね?」
東京の企業戦士たちはアタマがおかしい。
誰も月が壊れてしまった事を異常事態と捉えていなかったし、月はときどき壊れるものだ、という認識で、誰も報告書から視線をあげることはしなかった。
部長の命令は月を破壊して憲法を書き換える。
駅では「時差通勤にご協力ください」と意味のない放送をし続けている。僕は時差通勤や在宅勤務をやりたかったけれども、会社がそれを許さないのだから、通勤客じゃなく会社の経営者に言うべきだと思った。
金融市場は高騰してリッチな人たちが生まれていると聞くが、通勤電車に詰め込まれる青黒い顔をした人たちは、殺人的なマンション価格をローンと言う形で抱え込みながら、奴隷のように働いている。僕もそうした奴隷のひとりだ。
とある日に、課長から叱責を受けていた。
「サラリーマンとしてどうなのかな。そもそも社会人としてどうなのかな。なんで印鑑がまっすぐなの? 少し頭を下げるって気持ちないの? ここの数字のカンマも抜けてるし。こんな簡単で基本的で、初歩的なことが、どうして今も出来ないの?」
「課長がつまらなくて初歩的なことを気にし過ぎなんじゃないですかね?」
ぽつりと漏れた本音のせいで、課長はキョトンとしてから怒り出した。
彼らは会社が定めたルールに従う人間で、そこから足を踏み外した人間を徹底的に攻撃するよう洗脳されているのだ。
管理職になる連中は、外部講師と言われる狂信的な教祖にそうした洗脳を受け、洗脳官僚の証として役職を与えられるのだろう。
気が狂ってる。
気が狂っている。
気が狂っている……。
僕はその気狂いの都会から消えようと思った。
郷がある事は素晴らしかった。
少年時代の匂いが残る郷の匂いが、懐かしくなった。
仕事を辞めて両親に電話した。
年老いた両親は「帰っておいで」と優しく言ってくれた。
僕は郷に帰った。
農作業を手伝いながら、裏山の管理をして時間を過ごした。
そちらの方がよっぽど幸せで、僕の性に合っていた気がする。
印鑑もカンマもいらない、幸福な世界。
ただ……。
「あっ、また狸のやつが縄張りを主張してやがる!」
僕のうちの裏山に残された狸の痕跡……。
その強烈な狸の匂いがするフンの上に、僕は腰を降ろして脱糞する。
「ここは僕の土地だ。うちの山だ! 狸の奴め、何度教えてやれば気が済むんだ!」
僕は山で暮らす少年へと戻っていた。
幸福な記憶を全身にまとって、いまは暮らしている。
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