その情熱はどこまでホント?


 その情熱的なピアニストは情熱のあまり重要な演奏会の前日も眠る事がほとんどなかった。

 超人的な才能の持ち主であるから、眠らない、という理由ではない。

 彼はピアノを愛し、クラシックを敬愛していた。

 それゆえに重要なコンテストの数か月前、数週間前などは緊張のあまりおかしくなってしまう事がある。その最たるものが、不眠であった。

 緊張のせいで寝床に入っても眠る事が出来ず、コンテストの事を考えれば考えるほど目が冴えてしまう。そうしていてもたってもいられなくなって、ピアノの前に座って奏でだす。

 眠気を待ち、夜から逃れ、緊張と苦悩を紛らわせるために、彼はコンテストの前日に最高の演奏を完成させてしまう。ひどく情熱的で、感情的で、豊かな彼の苦悩が表現されたクラシックである。


 そうして彼は国内の重要なコンテストで二度も落選し、特別枠で出場した国際的なコンテストもかんばしい成績を残せなかった。

 彼はさらに焦った。


「前日に……くそっ! ちゃんと眠る事が出来れば!」


 実力通りの、普段通りの演奏が出来れば、彼は入賞間違いなしだった。

 それを阻んでいるのは、緊張から来る前夜の不眠であり、不眠のために起こる散漫な注意力のためである。

 彼は必死に練習し、気持ちを落ち着けるために禅の修行まで実行した。

 そんな寺で、彼は彼女に出会った。


「珍しいお客さんなのですね」

「あなたも禅の修行を……?」

「まさか。わたしはただの通りすがりですよ」


 作務衣のような姿のピアニストに引き換え、声を掛けてきたのは制服を着た女の子だった。

 最初は寺の関係者かと思ったのだが、どうやらそうでもなさそうだった。

 怪訝そうに男が女子高生を見ていると、彼女はくすくすと笑ってから。


「ひどい顔ですね」

「寝不足なんだ。緊張で」

「眠れないんですか?」

「そうなんだ。眠れなくて。だから、こうして禅の修行をして精神をコントロールしようとしているんだ」


 ふうんと彼女は言ってから、ぬっと身を乗り出してきた。


「わたしが、あなたの悩みを取り払ってあげてもいいですよ?」


 鼻と鼻が触れあうほどに顔を接近させた彼女はそう言ってから「でも」と忠告を与えるように言った。


「眠りは時に人を深みに落とし込むことがあります。あなたは必要最低限の眠りにとどめるべきです。決して、睡魔に負けてはいけません」

「の、のぞむところだよ。僕は眠れなくて困っているんだから! 最低限の眠りが得られればそれでいい!」

「じゃあ、その願い……かなえてあげます」


 女子高生はそう言うなり、男の首に腕を廻し……慣れた所作でサッと唇を重ねた。


 うっ……という呻きが漏れたかと思ったら、ピアニストは意識を失っていた。

 気が付いたときには夕方で、寺の住職が「いかがなさいましたか?」と起こしてくれたために、目を覚ますことが出来た。

 男は「女子高生がいまして……」と住職に問いかけたが、うまく物事が伝わらなかった。

 住職は小首を傾げて。


「どうやら、夢でも見られていたようですね」


 そう言って笑った。


 不思議な事だった。

 あの女子高生にキスをされてから、よく眠れるようになった。

 寝床に入ればスッと眠れるし、眠れるから練習のキレもよくなって、演奏もうまくいった。

 小さなコンテストでは入賞が続き、初めて国内の大きなコンテストで金賞を取った。

 これから国際的な大会に出場し、やっと頂点の栄光を手に入れようと……日々奮闘していた。


 そんな矢先に、激しい睡魔に襲われた。

 演奏の練習をしている最中にフッと睡魔に襲われて、鍵盤の上に倒れ込むように眠ってしまった。

 あまりの出来事に居合わせた人たちは驚いたが、三十分もせずに目が覚めた。


「最近は寝不足だったのかな?」


 そうして国際的なコンテストの前日もスッとピアニストは寝付いた。

 翌日のコンテストはうまくいき、拍手喝采のなかで大きな賞を頂いた。

 それからは、もうあちこちに引っ張りだこで、休む間もなく、眠る魔もなく、演奏会に演奏会を重ねた。

 彼は世界的なピアニストになり、情熱的な演奏は高い評価を獲得した。


 歴史に名を刻むような偉大なピアニストとして彼はステージに立ち続け、鍵盤を弾き続けた。



 病院のベッドのうえで、彼は「にへへっ……」と呻いた。

 見舞客の一人がぽつりと言う。

「なんだか素敵な夢でもみているのかな」

「もう、ずっとずっと眠ったままで……」

「いいピアニストだったのにね……」

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