新天地

 一


 見頃を過ぎた桜の花びらがひらひらと舞う中、新しい環境に身を投じるというのは、何度経験しても緊張する。けれど、それ以上に心がおどるのは子供っぽいだろうか。年相応の感覚だと思いたい。

 二〇〇八年四月七日。今日は高校の入学式だ。正門をくぐり、湾曲した並木道を越えると、徐々に喧騒が大きくなってきた。朝日が眩しいけれど、風はまだ少し冷たい。

 公立三ツ谷高等学校。いわゆる地方の公立進学校だ。田園風景に囲まれているものの駅まで自転車で十分とアクセスは悪くない。生徒の多くは自転車で通学しているけれど、今日は入学式ということもあり車による送迎が多い。駐輪場の一角、一年生のスペースに停められた自転車の台数は全体の半分にも達していない。ぽつんとたたずむ俺の自転車が目立って見えるほどだ。

 昇降口前では真新しい詰襟つめえりとセーラー服が集団を成していた。誰もが入り口手前の特設掲示板を注視している。


「同じクラスだ!」

「やったー!」


 快哉かいさいを叫ぶ声が聞こえる。クラス分けの内容が掲示されているのだろう。

 右手側にそびえ立つ無骨な時計を見上げる。時刻は七時四十五分。教室への集合時刻は八時半。中学時代の癖が抜けきっていないのだろう。今思えば、八時登校は早過ぎる気がする。

 人混みが落ち着いてきたところで俺はクラス分けを確認する。掲示板には各クラスの氏名一覧と座席表がそれぞれ貼られている。A組からF組までの全六クラス。

 一年D組ですか。

 座席表には名字記載の正方形が整然と描かれている。七席✕六列で計四十二席。『越渡一彰こえどかずあき』は廊下側から三列目、教卓側から三番目の席だ。出席番号十七番。妥当なところだろう。

 俺はかばんを担ぎ直し、昇降口をくぐった。


 入学資料の校内見取り図によると、三ツ谷高校の校舎は一般棟と特別棟に分かれているという。学生の教室がある北側の一般棟、職員室や特別教室がある南側の特別棟だ。そして、二棟を繋ぐ形で東西に昇降口がある。今俺がいる場所が東昇降口に当たる。西昇降口は二年生用とのこと。西昇降口へ行くには中庭か駐車場を横断する他ない。裏門から入ればすぐに着くけれど、通学時に通りかかった際にはバリカーで封鎖されていた。自転車通学者にはまず通り抜けられないだろう。

 俺は先行する他生徒にならい、一般棟へと向かう。廊下にはあちらこちらに赤い矢印付きで注意書きが貼られている。


『一年生の教室は四階』

『一年生はこちらへ』


 過剰な親切にも見えるけれど、不安でいっぱいの新入生には丁度良いくらいなのだろう。ならば、昇降口にも『一般棟はこちらへ』と欲しかった気もするけれど、教師にとっては当然過ぎて思い至らなかったのかもしれない。

 東階段の踊り場には『階段は静かに』という貼り紙があった。階段を上る際、無意識に力を入れてしまうことは間々ある。授業に集中させるための対策だろう。さすがは進学校。気配りが行き届いている。

 四階に上がり、左手に曲がった先に一年D組の教室はあった。手前のC組と奥の西階段に挟まれた位置だ。

 後ろの入り口から入ると、教室には既に多くの生徒が集まっていた。大人しく着座する生徒が多い中、一部の女子生徒は仲睦なかむつまじい様子で歓談している。先ほどクラスの一覧表を眺めた限りでは、クラスメートの中に同じ中学の者は一人しかいない。そして、その一人はまだ到着していない。俺には彼女らと同じ土俵に立てそうもない。仮にその一人がいたとしても、積極的に声をかけようとは思わないけれど。

 人付き合いは、広く、浅く、ほどほどに。縁が深い相手ほど距離をとろう。それが俺の信条だ。人生を豊かにしてくれる。

 時刻は八時に差し掛かった。始業まで残り三十分。何をして過ごそうか。不思議なことに、俺の周囲の席はほぼ全てもぬけのからだった。右隣のクラスメートは着座しているけれど、通路を挟んでいるため話しかけにくい。しかも女子だ。俺は大人しく机上に置かれた『入学式の流れ』なるプリントに目を通すことにした。下部に印刷された校歌の歌詞は、しかしメロディーがわからず、わずか数分で俺は退屈へと逆戻りした。


 二


 八時二十分。廊下から聞こえてくる足音もまばらになり、クラスメートも各々の自席に着き始めた。自然と背筋が伸びる。何度経験しても慣れないものだ。

 不意にがらがらと音を立て、前方の入り口が開け放たれた。皆の視線が入り口へと向けられる。誰もが担任教師の登場だと思っていたけれど、現れた人物は俺たちと同じ詰襟に身を包んだ男子生徒だった。

 遠野讓とおのゆずる。俺と唯一同じ中学のクラスメートだ。面長で彫りが深く、大人びた顔立ちをしている。おまけに逆三角形の身体つきとくれば、女子の目を引かないわけがない。男子ですら見惚みほれている。

 遠野さんは後ろ手に扉を閉めると、迷いなくこちらへと向かってきた。思わず顔を逸らす俺を素通りし、遠野さんは俺の真後ろに座る生徒に対して、


「ここ、俺の席なんだが」


 と言った。後ろの男子生徒は目を白黒とさせる。


「え? 俺の席だけど」


 嫌な予感がする。俺は背を丸め、手元のプリントを凝視する。いっそ寝たふりでもしようかと思った矢先、遠野さんの視線が後頭部に突き刺さった。


越渡こえど君、どういうことだろう?」


 俺は愛想笑いを浮かべ、ゆっくりと振り返る。


「どちらかが間違えているということでしょう」

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