第20話 だったら、化け物を人に戻せばいい
× × ×
目覚めると、お兄ちゃんは何も覚えていなかった。
私がチュッチュした記憶が無ければ、どうして私を抱きしめていたのかも分からないらしい。
「ふぅん」
まぁ、嘘っぽいけど本当だ。
お兄ちゃん、嘘つかないし。ジョークでも、言うと顔に出るくらい露骨に後悔するし。前に、後悔したくないって言ってたし。
それに、きっと死ぬほど勇気を出して口にした謝罪の言葉を、忘れたなんて冗談でも言えるハズがない。
「迷惑かけたな」
「いいよ、許してあげる」
というか、そんな嘘をついたら酔っ払う度に私にチュッチュされる事になるじゃん。
それを望むなら、『違う』とは言わないでしょ。
……しかし、あの一件で光明が見えたのは確かだ。
お兄ちゃんですら、人間に戻る時がある。当たり前だけど、私にとってその事実は衝撃だった。
ずっと、お兄ちゃんを人のまま手に入れるのは無理だと思っていた。
だって、お兄ちゃんは理性から知性まですべからく化け物じみているし、慢心しないから何をやらせたって失敗しない。
失敗しないから、弱みを見せない。見えない、といった方が正しいかもしれない。おまけに、人の失敗すら無かったことにして、怒るときだって優しく包んでしまう。
醜い感情は、他の人間味と一緒にどこか遠い場所に置いてきてしまっているのだろう。
例えば、牢獄とか。
……ジョークだよ。あんだけやって忘れられたんだから、皮肉くらい言ってもいいじゃん。
「どうした」
「なんでもない」
ともあれ、そんな相手の、何か綻びを探すことなんて不可能だと思っていた。だから、私もどこかのネジを飛ばさなければ、一緒に居られないと思ってた。
でも、そうじゃなかったのだ。
きっと、心は報われた時にこそ、最も脆くなる。例え、お兄ちゃんであっても。
考えてみれば、その予兆はあった。
生ハムだ。
普段、自分にまったくお金を使わないお兄ちゃんが、少額とはいえ自分にご褒美を与えている。これが綻びでなければ、他の一体何だというのか。
お兄ちゃんは、あの二人が成功して心から喜んだ。しかし、同時に二人を失った事で、心に穴がポッカリと開いてしまった。端的に言えば、それがお兄ちゃんの寂しさの理由だ。
言い換えれば、お兄ちゃんは何かを成し遂げる度に、罪を贖う機会を失っている。二人以外にもたくさん救っているのだろうから、当然の事だろう。
きっと、目的を失うことほど怖いことはない。
だって、それって私がお兄ちゃんを失う事と同義なのだから、毎回そうやって傷付けば耐えられないに決まってる。
だから、普通の人は無意識に力をセーブして、他の逃げ道をたくさん作ってる。人生を楽しむ為の理由を、分散させて生きるのだ。
でも、お兄ちゃんにはそれがない。他に生きる理由が、一つも存在していない。
存在していないから、心を埋める為の生ハムだ。どうして生ハムなのかはわからないけど、お兄ちゃんにとって喪失感を埋められる唯一のモノが生ハムなのは間違いない。
そして、あの時は生ハムが無かったから、私に肩を寄せたがって。おまけに、後悔を剥き出しにして謝罪を口にしてしまったということだ。
……そこに、私が入れないかな。
「お兄ちゃん、私を生ハムだと思ってよ。食べていいよ」
「急にどうした」
珍しい、お兄ちゃんの驚く顔が見れた。常にスマホを持つ癖があれば、写真に収めれたのに。
じゃなくて。
色々、過程をすっ飛ばしてしまった。
勉強して、ちゃんと考えるクセがついたのに、お兄ちゃんの事になるとIQが50くらいになってしまう自分の弱さが恨めしい。
でも、キスしたら凄く気持ちよかったんだもん。私はサイアクだったけど、お兄ちゃんはサイコウなんだもん。
仕方ないじゃん。
「あのね。私なりに色々と考えた結果、私が生ハムになるしかないなぁと思って」
瞬きを3回、首を1回傾げて、お兄ちゃんは何かに気が付いたようだった。
相変わらずの理解力、だから大好き。
……なんて。
お兄ちゃんへの好きを再確認した、とある月の明るい夜。
仕事するお兄ちゃんを、隣りに座って眺めながらの出来事だった。
「ミコは賢いのに、言葉足らずだな」
「お兄ちゃんじゃなければ、もっとちゃんと喋れるよ」
「なら、俺にも頼む」
「女の子は、好きな人には分かって欲しいの」
「男を試すなよ」
呟いて、書類のデータをまとめると、お兄ちゃんは腕を組んでため息をついた。
「しかし、生ハムになりたいってのは如何なモノですかね」
「何か成し遂げたら、私を食べるの」
要するに、報われた後の心の隙間を埋める為のモノを、私にして欲しいということだけど。
もう少し、表現を選ぶべきだったかしら。
「おかしな事言ってるよ」
「だって、するよりされたいんだもん」
前のお兄ちゃんなら、こういう事を言えば。
『ミコなら、どんな男でも引く手数多だろ』
なんて、バカげた文句を吐くシーンだけど。
「こら」
今のお兄ちゃんは、優しく微笑むだけだった。
多分、お兄ちゃんは大人っぽいんじゃなくて、いつの間にか本当に大人になっちゃったんだと思う。
先に行っちゃうなんて、酷いなぁ。
「えへへ、大学生なのに叱られちゃった」
でも、私はイチャついてるつもり。お兄ちゃんに叱られるの、凄く好きだから。
思わず、体が求めて椅子を寄せると、お兄ちゃんは私を遠ざけてから座り直した。
どうやら、まとな話をするらしい。
「なんで、気が付いた?」
「完璧過ぎると、ささくれが目立つんだよ」
「ミコから見て、俺は危ないか」
「うん。きっと、近い未来に壊れちゃう」
これは、本音だ。
「そうか。自分の事は、気付かないモノだな」
コーヒーを一口。
「強がったりしないの?」
「ミコには、全部分かるんだろ」
「まぁね」
そして、ため息。最近、よく聞くようになった気がする。でも、あの言葉が本当なら、こんなに辛そうに疲れるのは矛盾してると思った。
「お兄ちゃんがね」
「ん?」
「人を助けるのは、もう贖罪じゃないって言ってたよ」
「俺、そんなことまでバラしてたの?」
「うん、ガッツリ明かしてた」
照れたらしい。少し、頬が赤くなっている。
「参ったな、やっぱり慣れない酒はよくない」
「あれ、どういう意味なの?」
「あんまり、話したくないな」
初めてだ。お兄ちゃんが、口を噤んだのは。
「言いなさい」
「言えない、うまく説明出来ない」
「じゃあ、それを私が説明出来たらどうする?」
「……俺の常識が、壊れるんだと思う」
いつだったっけ。
私が、お兄ちゃんの常識を壊す女が出てくるかもって、不安になっていたのは。
あの時、どうして私がその女になるって思えなかったんだろ。
凄く、遠回りしちゃったな。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「好きよ」
言って、私はお兄ちゃんの頭を撫でた。
最近、告白するのが楽しい。
あの頃、素直になれなかった反動なんだろうな。
「私、夏休みになったら実家に帰るよ。友達とも、会いたいしさ」
「いいね、楽しんでおいで」
「うん、それでさ」
相変わらず力で勝てないお兄ちゃんに、何とかして抱き締めさせて、勇気を貰いたかったから。
「危な……っ」
こうやって、支えてくれるように、立ち上がった瞬間に倒れるフリをした。
「ふふ」
お兄ちゃんの手が、私の腕と腰を掴んで引き寄せている。
きっと、もう二度と通用しない、一回限りの作戦だ。
いざという時の為に取っておいて、本当によかったよ。
「私、見つけてくる。お兄ちゃんの常識と、それを壊す方法」
お兄ちゃんは、何も言わなかった。
笑いも、怒りもせず。ただ、静かに私の顔を見ていた。
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