第3話 愛人
朝食を食べにダイニングに向かうと、旦那様と見知らぬ女性が一緒に食事をしていた。
わたくしは、部屋から出て行こうした。
「おい、待て」
旦那様は、まだ一度も名前を呼んではくれない。
わたくしも呼んでいないけれど。
「おはようございます」
当たり障りない言葉を告げて、扉の所に立っていると、旦那様は「こちらに来なさい」と命令をした。
不快に思いながら、テーブルに近づくと、
「隣に座っているレディは、ネアンだ。仲良くしてくれ。ネアンは夫婦の部屋を使っている」
わたくしは、お辞儀をした。
カーテシーを取るほどの相手ではないだろう。
「病弱だから、世話をしている」
「どこか具合が悪いのですか?」
「無理をすると、寝込む」
「そうですか?これから食事の時間をずらしましますね、毎朝、この時間ですか?」
「日によるだろう?」
「分かりました」
病弱と紹介されたネアンは、とても血色のいい顔色をしている。
年齢は旦那様と同じくらいだろう。
体のラインが目立つドレスを着ている。
顔立ちは、普通だ。
特に美人と言うほどでもない。
化粧が厚くて、肌が荒れている。肌荒れを消すために、化粧が厚くなるのだろう。悪循環なのにと思っても、教えてあげる義理もない。
胸が大きいのが、特徴的だ。
わたくしは、お辞儀をしてダイニングを辞した。
家令が追いかけてくる。
「奥様、申し訳ございません。本当はネアン様のお部屋は、敷地内の離れに住んでいただく予定でしたが、どうしても夫婦の部屋がいいと申しまして。アンテレ様がお許ししてしまったのです」
「そうなのね、この家には、離れがあるのね。そうしたら、わたくしは離れに住まわせていただきますわ」
「そういうわけにはいきません。本来の奥様は、マリアーノ様でございます」
「いいのよ。別に。この結婚は白い結婚と旦那様に言われて誓約書も互いに書いております」
家令は今知ったかのように、なんとも言えないような顔をした。
同情とも言えるような表情だ。
「旦那様がお帰りになったら、怒られてしまいます」
「怒られるのは、あのお方よ。貴方じゃないわ」
「ですが、この邸を任されております」
「それなら、一つお願いします。わたくし、あのお方とお食事はしたくないので、ダイニングが空いたら、教えてくださいますか?」
「……畏まりました」
白髪の家令は、丁寧にお辞儀をした。
「それでは、引っ越しの準備をするわ。離れに案内をお願いします」
わたくしは、毅然とした態度を取った。
弱みは見せたくない。
わたくしは、幼い頃から両親の仕事を習い、勉強もしてきた。どこに出ても恥ずかしくない教育を受けてきた。
こんな事で、心を折るような娘ではないはずだ。
たったの13歳だけれど、今までの努力は無駄にしたくはない。
それに泣いていたら、亡くなった母が心配してしまう。
+
すぐに使えるようにされていた離れは、素敵な家だった。
小さな家だけれど、亡くなった奥様が刺繍のアトリエにしていたという部屋で、壁には立派な刺繍が施されたタペストリーが掛けられていて、明るいリビングには、ソファーもありソファーカバーにも、美しい刺繍のされたソファーカバーが掛けられている。
きっと優しい奥様だったのだろうと部屋の様子から、人柄が窺えた。
部屋は寝室が3つあり、キッチンやダイニングもある。広めのお風呂もあり、快適そうだ。
庭にはハーブが植えられていて、ハーブティーも淹れられそうで、沈んでいた心が、少し浮上した。
キッチンにはオーブンもあるので、お菓子作りもできそうだ。
侯爵家の使用人が、手伝ってくれたので、引っ越しは、すぐに済んだ。
家令は、ずっと頭を下げていた。
わたくしは邸に務める者を怒ったりしない。
悪いのは、旦那様になった侯爵様だ。
優しくもなく、誠実でもない。
実家から一緒に来てくれたエレナに部屋を一部屋渡して、わたくしは、庭に面した比較的に広い部屋を使うことにした。
「お嬢様、素敵なお部屋ですね」
「本当に、そうね。こんなに繊細な刺繍ができるなんて、お目にかかりたかったですわ。わたくし、刺繍は嗜み程度にしかしてこなかったの。こんなに美しく作れるのなら、教えていただきたかったわ」
「奥様は、王妃様にお針子の称号を戴いておりました。ハンカチやドレスに刺繍を施す仕事をしておいででしたが、肺を患い、肺炎で呆気なく亡くなってしまったのです。奥様が健在だった頃は、この侯爵家も裕福でしたが、奥様が儚くなってから、旦那様の仕事も傾き始めて、今では火の車です。クリュシタ伯爵様が、お金を貸してくださらなければ、爵位返上も考えなければと、ずいぶん悩んでおられました。それなのに、お坊ちゃまは、何をお考えになっておるのでしょう?大切になさらなければならない奥様に対して、あまりにも酷い仕打ちです」
家令は、深く深くお辞儀をする。
使用人達も同じく、申し訳なさそうに、頭を下げる。
「不自由のないように務めさせてもらいますので、なんなりとおっしゃってください」
「ネアンという女性は、どちらの貴族様でしょうか?」
「あの女性は、ネアン・マッシモ子爵令嬢でございます。お坊ちゃんと同い年で一緒に学校生活を送られておいででした。その頃から、お付き合いをしておいでになっております」
「あら、後から、来たのはわたくしなのね。婚約でもしていたのかしら?」
「正式には、婚約はしておりません。けれど、互いにしていた可能性は、すみません。わかりません。ただ、旦那様と奥様は、坊ちゃんとネアン様との交際は反対されておりました」
鬼の居ぬ間に……と言うことだろうか?
旦那様と呼ぶのも混乱しそうなので、侯爵様とお呼びしよう。
侯爵令息と呼ぶのも、長すぎて鬱陶しい。
名前呼びなんて、絶対にしたくはない。
侯爵様、スッキリしているわね。
より他人に思えるでしょう?
わたくし、あの方のことが大嫌いなので、情など僅かもないの。
離れに住んだので、益々、会うことはないでしょう。
できれば、会いたくはないけれど、まだ契約書を渡していないので、嫌だけれど、侯爵様に会いに行かなければならない。
「奥様、遅くなりましたが、朝食を召し上がってください」
「そうさせていただくわ」
わたくしは、エレナを伴って、本宅のダイニングに向かった。
もう侯爵様のお姿もなく、閑かなものだ。
「エレナも一緒に食べておきなさいな」
「ですが、わたくしは使用人ですので」
「離れから、やってくるのは、面倒ですもの。一緒で構いません」
「そうですか?」
エレナは居心地悪そうに、辺りを見回す。
家令が「どうぞ」と勧めてくれたので、エレナはテーブルに着いた。
「離れで、エレナがいなくなったら、わたくし一人になってしまうわ」
「確かに、心配ですね」
「食事は一緒にしましょう」
「お嬢様がそうおっしゃるなら」
使用人の数は、クリュシタ伯爵家の方が多いような気がする。
人員整理がされた可能性が高いですね。
一度潰れかけた侯爵家なので、調度品も高価な物は置かれてはいない。
食事を終えて、わたくしは離れに行く前に、侯爵様に会いに行った。
今日は執務室で、事務仕事をしていると家令が言っていたので、さっさと面倒なことは終わらせたかった。
侯爵様の部屋をノックすると、返事が聞こえた。
一緒に家令とエレナも来てくれたので、家令が扉を開けた。
「奥様がお話があるそうです」
「俺はない」
「契約書のことでございます」
「入れ」
扉を開けたまま、部屋の中に入る。
侯爵様は、ネアン殿を膝の上に載せて向かい合っていた。
仕事はどうした?
家令の瞳は、冷たい。
机の上の書類は山のように積まれているが、一つも片付けてはいない様子だった。
「侯爵様、契約書は、簡略的な物でしたので、弁護士に間に入ってもらいました。少々訂正をさせていただきました。署名も致しましたので、正式な書類になっております。書類は、三通ございます。互いに一通ずつ所有して、弁護士が一通所有しております。一度、目を通してください」
ネアン殿を膝に載せたまま、侯爵様は、手を伸ばした。
まったくお行儀がなっていない。
「坊ちゃん。膝から女性を下ろしなさい」
家令が、声を上げると、女性は腰を振り出した。
行為の途中だったのだろう。
それを見た家令の顔は、益々、怖くなっている。
わたくしは近づきたくなかったので、家令に渡して、手渡してもらう。
旦那様は契約書に目を通して、わたくしを睨んだが、文句は言えないだろう。
「子供の癖に、知恵が回る」
「お褒めにあずかりありがとうございます。わたくし、子供ですけれど、侯爵様のように乱れた生活は一切しておりません。3年後、離縁いたします。宜しいですね」
「ああ、いいだろう」
「では、失礼いたします」
わたくしは、侯爵様の執務室から出て行った。
エリナがわたくしの後を着いてくる。
「まったく、はしたない」
「女を抱きながら、対応する等、侯爵家の面汚しですわ」
後方で、家令が侯爵様を叱っているけれど、あの顔だけ侯爵様は、言っても無駄だろう。
+
朝食後に、実家から馬車と騎士が手配されて送られてきた。
そして手紙が一通添えられていた。
『すぐに離縁して宜しい。一度、すぐに帰ってきなさい』
ビオニールお兄様は、お父様にお話をしてしまったようです。
正式な妻にもなれないわたくしは、この中途半端な婚姻関係を続けるのは、間違っていると思う。
お父様が正常な考えの方で良かった。
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