ディア・マイ・シスター(3)

 その日を境に、ありふれた幸せのなかにあった私たち家族は電池の切れかけた明かりみたいに不規則に明滅するようになって、どことなくぎこちなくなった。

 父に白い目で見られ、母が嘆くのを目の当たりにしながら、それでも自分自身を守り、大切なものを確かめ続けるように、祐司は伸ばした髪を毎日丁寧に巻き、ドレープの綺麗なスカートを身にまとい、誰に見せるわけでもないメイクにのめり込んでいった。

 きっと全てが戦いだったはずだ。ただ女でありたいだけなのに、それが両親に認めてもらえないという現実が、より一層女らしくあることに祐司を執着させた。

 そんな日々を、想像しただけで心が擦り切れてしまいそうな毎日を過ごしながら、祐司は中学を卒業し、高校を卒業し、家を出て小さな印刷会社で働き始めた。

 ようやく自由を――そう呼ぶにはささやかな、平穏な日々を、手に入れたはずだった。

 だけど祐司は「もう疲れた」と私にメッセージを寄越し、その次の日の明け方に自らの意志でこの世を去った。

 私はまた何もしてやれなかった。助けを求めていたのかもしれない祐司のメッセージに「私も。残業やばいよ」なんて的外れな返信をして、シャワーも浴びずに寝落ちたのだ。

 何も変わっていなかった。あの日、閉ざされた扉を叩き、震える祐司を抱きしめてやれなかった私は、けっきょく時間が経っても、無力で馬鹿なままだった。

 私は妹の顔をした、あの醜悪な複製品を思い浮かべる。女らしさに執着した、あの可憐な祐司はどこにもいなくて、代わりにすっかりの顔をした祐司があそこにはいた。

 悔しかった。あの祐司を見た瞬間、喜びの表情を浮かべた母に苛立ちながら、祐司に何もしてやれなかった自分が憎かった。もうとっくに遅いけれど、私は姉として、命をすり減らしてまで祐司が守ってきたものを取り返さなければならない。そうでなければあまりに祐司が報われない。

 たぶんこれはただのエゴ。このままじゃ祐司の心がまだ成仏できていないなんて、そんなのは体のいい後付けで、私はたとえ遅すぎるとしても祐司に誇れるお姉ちゃんで、妹が自慢できる姉でありたかった。

 三歩後ろに進んで私は跳んだ。ブランコは風を切って、私の髪を靡かせる。私は夢中になってブランコを漕いだ。途中立ち上がったりして、腕とか膝とか身体の全部を使ってそれはもうしゃかりきに漕いだ。加速するブランコは大きく前後に揺れて、風は私の心臓をぎゅっと握り締める。それを合図にするように、私は加速し続けるブランコの上から跳んだ。

 身体は楽々と柵を超える。私は着地に失敗して、勢いそのままつんのめった。地面に肩を擦って、そのまま一回転。私は空を仰ぐ格好で地面に投げ出される。

 息が上がっている。運動不足かな。胸の奥は激しく脈打って、全身の隅々にまで血が巡っていくのが感じられる。

 ふいに頬へと水滴が落ちた。黒ずんだ分厚い雲は絞られた使い古しの雑巾みたいにゆっくりと雨を降らせ始める。

 私は両手で頬を叩く。ブランコをずっと握り締めていた私の手からはほんのりと鉄の臭いがしていて、いくら雨に打たれてもそれは消えず残っていた。


   †


「死んで理想の自分になれるとしたら、俺は迷わずそれを選ぶね」


 そんなことを得意げに言っていたのは、大学のときに付き合っていた工学部の彼だった。

 そのときの私はといえば、大した興味もなくて「ふーん」と生返事を返しただけ。むしろせっかくずっと行きたかったイタリアンに来ているのにどうしてこんなどうでもいいことを話すんだろうと、不満に思ってさえいた気がする。

 なぜこんな話になったのかはうろ覚えだけれど、彼はたしかいつものように人工知能に対する人間の優位性とかについて語っていた気がする。ともかく何を学ばせ、何を学ばせないかのイニシアチブを握ることが道具としての人工知能を考えるうえで重要なのだとかなんとか。

 そんな一方的な会話のなかから飛び出してきた例の一つが〈エルログ〉の疑似人格構成サービスだった。

 というのも、実は人工知能に学ばせるライブラリデータを恣意的に選ぶことができるというのが、彼が出した例の骨子だった。このことを〈選別〉というそうで、その行い自体に違法性はないけれど、結果的に故人のパーソナリティを弄り回すことになるので倫理的には問題があるとされているらしい。

 彼は倫理なんて知らないねと、まるで斜に構えた中学生みたいな主張を始め、さっきの台詞を吐き出したというわけである。

 あのときは本当に興味がなかったのでてきとうに相槌を打っていたけれど、今ならば明瞭な答えを彼に突き付けることができる。

〈選別〉は仮に違法性がなくとも最低な行いだ。少なくとも私は許せないし許さない。

十中八九、まがい物の祐司が現れてしまった理由はこの〈選別〉だろう。疑似人格構成サービスは本人かその家族しか利用することができないサービスなので、誰がやったかはだいたい想像がつく。

 私は公園から家までの道のりを、自分の内側で沸々と湧き上がる感情に突き動かされるように前のめりになって歩いた。

 許せない。祐司が生きた証を、易々となかったものにされてたまるものか。


「ちょっと、莉子どこ行ってたのっ」


 家に戻るや玄関の物音を聞きつけた母が廊下に出てきて声を上げる。さっきから小一時間は経っているのに着替えも朝食の支度もしていないのを見る限り、と楽しく話でもしていたのだろう。そのことがさらに私を苛立たせた。

 無言で二階に戻ろうとする私の手を母が掴む。母の手のひらの温い熱が雨に濡れた身体にじんわりと伝わる。


「何をそんなに怒ってるの?」


 うんざりだった。自分はいつも正しい側に立っていて間違える余地などないと主張しているように、母の額はたまごみたいにつるっとしていた。


「離して」

「祐司のこと、辛いのは分かる。それは母さんだって同じ」

「は? 同じじゃないから」


 私は語気を強め、母の腕を乱暴に振り解く。母の辛さと私の苛立ちは全く違う。祐司が死んでしまったことはもちろん悲しいけれど、私はその死ですら踏み躙られていることがどうしようもなく辛いのだ。息子になって帰ってきた妹と楽しく話すような母となんか、同じにされたくなんてなかった。

 私がそのまま母を無視して二階へ駆け上がろうとすると、ちょうど目を覚ました父がポロシャツとジーンズに着替えた姿で降りてきていた。父は、私の荒げた声か表情かは分からないけれど、とにかく母との間にある険悪な空気を察したようで、険しい表情で私のことを見下ろしている。


「どうした? 朝から大きな声出して」

「どいて」


 私は父と壁の隙間をすり抜けて部屋へ向かい、勢いよく扉を閉めた。背中越しに響かせた大きな音は、軽蔑と決別の音色でもあり、またささやかな決意の表明でもあった。


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