ディア・マイ・シスター(4)

 着替えた私は荷物をまとめ、車に乗って隣りの市へと向かう。

 調べて知ったことだったけれど、疑似人格構成サービスは国と〈エルログ〉を運営する大元の企業の二つから認められたいくつかの認定事業者によって行われている。が送られてきた箱から得た情報を頼りに私が向かったのもその認定事業者の一つ、〈東亜知性研究社〉という企業だった。

 見上げていると首が痛くなるようなオフィスビルに入り、紺色の制服を着た警備員に促されるまま、来訪者として名前や連絡先を書き記す。眩しいくらいに鮮やかな黄色いひものついた来訪証を首から下げて、一三階の事務所へとエレベーターで上がる。

 故人の疑似人格を取り扱うのだから、(仰々しい会社名も相まって)さぞ暗くて重たい雰囲気なんだろうと勝手に思っていた私はエントランスに入って面を食らう。

 淡い緑を基調とした滑らかな壁紙に、掃除の行き届いた濃いブラウンのカーペット。受付台ではボブカットの毛先を内側にくるんとカールさせた女性が、訪ねてきた人が身構えてしまわないようなちょうどいい塩梅の存在感で座り、思わず微笑み返したくなるような柔らかい表情を向けている。

 大丈夫。周りの景色を確認するくらいの余裕も、微笑み返すだけの冷静さも、しっかりと握り締めている。私は不自然に見えない程度に深く息を吸って、それからゆっくりと吐いた。


「こんにちは。ご予約のお客様ですか?」

「あ、いえ、予約とかはしてないんです」


 何度も繰り返したことで洗練されていったのであろう完璧な発声。私は首を横に振る。そして勇んで先手を打つように言葉を続けたけれど、なんとなく喋ろうと思って頭のなかで思い描いていた言葉たちは、いざ口から吐き出そうとすると脆くほどけていってしまった。


「三上祐司って、ここで疑似人格を作ってもらった人なんですけど。たぶん母か、父か、分かんないけどうちの親が来たと思うんです。それで、あの、妹が全然妹じゃなくて」


 ここにきて突然、いやたぶん今朝起きたことを初めて言葉にしたからこそ、怒りの影に隠れて胸の奥の奥のほうで引っかかっていた哀しみが、くっきりと輪郭を帯びて私の心に現れたのだ。

 涙が出そうになって、顔に力を込めてぐっと堪える。湧き出す感情はあっという間に私の全身へと広がっていき、訳も分からず波に攫われてしまったときのように、私は何がそんなに哀しくて辛いのか、もうよく分からなくなっていた。


「疑似人格の不具合ということでよろしかったでしょうか?」

「いや、不具合とかじゃなくて」


 彼女の淀みのない完璧な応答が、私の言葉をさらに詰まらせる。


「……妹を、返してください」


 絞り出した声は、言った張本人である私さえも悲痛そのものと思えて寒気がするほどで、それを向けらえた受付の彼女はさぞ同情するか、そうでなければ気味悪く思うかしたに違いない。だけど彼女の顔はそれらを決して表情に出さず、作り込まれた笑顔が相も変わらず、私にしっかりと向けられていた。


「大丈夫ですよ。こちらにお名前とご用件をご記入ください」


 用紙とペンを渡される。高そうなペンで書いた字は、手がうまく動かなかったせいかふわふわと上ずっていて、線が迷子のように揺れていた。


「順番に案内しますので、お掛けになってお待ちください」


 私はまばらに埋まっているエントランスを見渡し、一番入口に近いソファの端に腰を下ろす。ソファに身体が沈み込むと、疲労感がどっと押し寄せてくる。体重が何倍にも増えたように思えて、身体が急に疎ましくさえ思えてしまう。私は滅入る気分を誤魔化すように、周囲の人たちをぼんやりと眺めてみる。

 スーツを着込んでハンカチをうちわ替わりに扇ぐサラリーマン。二歳くらいの男の子を連れた金髪の若いママ。疲れた顔つきで背中を丸め、無精ひげを生やしたおじいさん。母親と同年代くらいの小太りのマダム。

 みんな、自分か家族の疑似人格を作るためにここにいるのだろうか。そしてそれはつまり、身内の誰かが不幸に遭ったり、あるいはこれから遭う可能性が高いことを意味している。もしかすると祐司のように自ら死ぬことを覚悟している人もいるのかもしれない。彼らが一体どんな気持ちで座っているのか、その全てを理解することは到底不可能だったけれど、気持ちの一端くらいは分かるからこそ、私はひとり唇を噛む。

 ここには優しさが満ちている。温もりで満たされている。死という冷たい未知の終わりを目前にしながら、あるいは大切な人を失う未来の恐怖が着実に忍び寄ってくる足跡を聞きながら、それでも誰かを思う気持ちが人をこの場所に赴かせるのだ。

 それは純粋に素敵なことだ。だからこそ、祐司の死を利用してその気持ちがすり替えらえた事実がたまらなく哀しくて泣きそうになったのだ。

 堪えたはずの涙がぶり返して、あっという間に溢れて頬を濡らしていった。私は化粧を直そうと立ち上がり、鞄を抱えて逃げるように化粧室へと向かう。洗面台に手をついて、私は深呼吸を繰り返す。ようやく落ち着いてきて顔を上げると、後ろの入口のあたりに立っていた男と鏡越しに目が合って、ちょっとしたホラーな状況に私は喉の奥で小さく悲鳴を上げた。


「三上莉子さんで間違いない?」


 初対面はもちろん、女子トイレという場所を気にもしない不躾な声かけに恐怖さえ感じる。私は弾かれたように急いで振り返り、鞄を漁って身を守る武器になりそうなものを探す。引っ張り出したのはキーケースについた実家の鍵で、私はそれこそ一振りの剣のようにそれを握り締めて男に向けて構える。


「人を、呼びますよ」


 私が言うと、男は少し大げさに眉を寄せ、それから頭の上に両手を挙げた。


「それは困るな。俺、別に怪しい者じゃないし」

「十分怪しいです」


 この男は一体どの口で言っているのだろう。女子トイレに堂々と踏み込んできた事実だけでも十分だったけれど、茶髪のパーマに黒縁の眼鏡、黒いスラックスとベージュのチルデンニットという大学生みたいな風貌もどういうわけか胡散臭さが拭えていない。

 私が鍵を構えたまま警戒を解かないでいることに観念したのか、男は髪を掻いてからもう一度私を真っ直ぐに見据える。決して鋭い視線というわけではなかったけれど、一瞬時間が止められたんじゃないかと思うほどに、私はその場でぴたりと固まっていた。


「あなたの妹について、あなたに伝えておかなきゃならないことがあるんです。本人から伝言を預かってます」

「伝言……?」


 私はもう一度ちゃんと、今度はもっと注意深く、化粧室の入口に立っている男を観察する。

 茶髪に眼鏡。チルデンニットとスラックス。顔はまあ整っている方だろう。だけど微笑んだように緩んでいる口元は胡散臭く、左耳から垂れ下がる十字架のピアスはどことなく軽薄な印象を醸し出している。

 もちろん私は祐司の交友関係を把握しているわけではない。だけど自分のセクシャリティを理由に男性との交流を最低限に留めていた祐司に、この男のみたいに軟派な知り合いがいるとは到底思えなかった。

 私が向けていた不躾な視線からそんな内心を察したのだろう。男は尻ポケットの長財布から紙片を一枚抜き、それを指で弾いて飛ばす。狙ったように目の前に落とされたそれ、つまりは男の名刺を私は拾い上げる。


「株式会社ディーリー、チーフコンサルタント、大八木伊織……」

「ね、怪しい者じゃあないでしょう?」


 男――大八木は腕を組んで肩を竦め、私の返事を待つことなく言葉を続ける。


「三上莉子さん、祐司さんのライブラリデータに関する〈選別〉についてお話が。あなたもそれを確かめにここに来たんでしょ?」


 大八木は曖昧だった口元に、はっきりとした笑みを浮かべる。それはまるで目の前にぶら下げられた情報えさに私が抗えないだろうことをほくそ笑むような嫌味な笑みだったけれど、大八木の思惑通り、私には彼についていくこと以外、どんな選択肢も存在はしなかった。


   †


 さっきまでの清潔で穏やかで洗練された待合室とは打って変わって、雑然としたオフィスの角が破れて中身が飛び出したソファに腰を下ろす。

 書類と埃は積み上げられ、アフリカとかの奥地から引っ張り出してきたようなやや不気味な置物があちこちに転がっている。換気扇の回る音にニュートンのゆりかごが一定の乾いたリズムを重ねることだけがこの空間の秩序だった。


「散らかってて悪いね。ほい」


 大八木は私の前に運んできた緑茶を置き、それから向かいに腰を下ろす。私は小さく会釈をして緑茶を啜る。意外にもすっきりと雑味のないお茶は美味しかった。

 それで妹の話を――私がそう切り出そうと息を吸った瞬間、目の前で身体を前に折った大八木が両手をぱちんと合わせた。


「申し訳ございませんでした! ただ女子トイレに押し掛けたのには理由がありまして。その、この仕事ってあんまり〈東亜〉さんみたいな会社からはよく思われてないっていうか……。なのでお姉さんが一人になるタイミング狙うしかなくって」


 聞けば、大八木は四十九日後のこのタイミングを狙い、〈東亜知性研究社〉の周りで私を探して張り込んでいたらしい。だけど私はストーキングされていたことよりも気になる単語を大八木の話のなかに見つけていた。


「大八木さんの仕事って、もしかして」

「ええ。〈エルログ〉上のライブラリデータの編集・削除をやってます。一般には〈選別〉って呼ばれてるやつですね」


 私はハッとする。急に謝罪を始めたおかしさに気が緩みかけたけれど、繋がった。どうやら〈選別〉は疑似人格と人工知能を扱う認定事業者ではなく、そこに挟まる仲介者によって行われるものらしい。

 つまりは大八木が実行犯ということになる。父か母かあるいは両方か、とにかく依頼を受けて、苦しみ抜いて生き抜いた祐司の人格をいたずらに弄り回した張本人だ。

 私は太ももの上で拳をぎゅっと握る。唇をきつく結び、大八木を真っ直ぐに見据える。おぼろな記憶にある祐司の笑顔が、それに寄り添えなかった後悔が、私の背中を強く押した。


「うちの父と母が依頼したんですね? それで大八木さんは、祐司のことをあんな風にした」


 抜き身の刃のように迸り、全てを切り裂こうとする怒りや嫌悪を抑え込む。努めて冷静に、私は大八木に鋭く尖った敵意を向ける。

 だけど大八木はといえば、私の敵意なんて微動だにせず、テーブルの上にあったリモコンを手に取って操作する。私の右手側にあっただだっ広い壁に、天井からスクリーンが降りてくる。そして書類に埋もれていたプロジェクターが映像を映し出した。

 そこには祐司が映っていた。それはミルクティベージュの髪を鎖骨のあたりまで垂らし、流行りのメイクをし、ガーリーなワンピースとジャケットを着た、私の知っている祐司だった。


『もう、カメラ回ってますか?』


 スクリーンのなかの祐司が言う。私は見開いた目を祐司から大八木に向ける。大八木は優しく頷いた。頷いただけ、私にスクリーンを見るよう視線で促す。


『えーっと、お姉ちゃん。改まって話すのもなんか変な感じだけど、……その、まず、いろいろごめんね』


 あれほど会いたいと思った祐司が目の前にいるのに、私の視界はぼやけてしまうし、真っ直ぐにスクリーンを見ることさえできなくて、私は顔を伏せたくなる。だけど見なければいけないと思った。だってこれは、祐司が私のために残した言葉だから。


『お姉ちゃんがこれを見てるってことは、つまり私はもう死んじゃってるってことだと思います。いつかは分からないけど、生きるのに耐えられなくなって、そう決めたときのために、今日はここの大八木さんに私のライブラリデータを〈選別〉してもらうようお願いをしました。それで、ちょっと無理を言って、メッセージを残させてもらってます』


 祐司は少し困ったように、照れくさそうに肩をほんの少し竦めて微笑む。私は目をごしごしと擦る。化粧が崩れるのなんてどうでもよかった。


『たぶん四十九日経って、送られてきた私にびっくりしたよね。でも安心して。あれは私が自分でお願いしたことなの。その、ちゃんと男の子に、パパとママが認めてくれるような息子になるってこと』


 どうしてそんなこと――。涙のせいで声にならない私の言葉が喉の奥に閊えて消える。いつだったか、工学部の彼が言っていた「死んで理想の自分になれるなら」という言葉がふと思い出される。そんなどうしようもない自己否定は哀しすぎる。理想なんかじゃなくていい。ただ生きてさえいてくれたらそれでいい。

だけど私は何一つとして言葉にできないまま。祐司は言葉を続けていく。


『私ね、自分のせいで家族をぎくしゃくさせちゃったことずっと後悔してた。どうして私は普通にできないんだろう。どうして私は期待通りの息子になれなかったんだろうって。受け入れてもらえるかもしれないって思って話してみたけど、だめだよね。でも自分に嘘を吐き続けていくのも無理だった。私のせいでこんなになっちゃって、ほんとごめん』

「そんなこと、ないよ」


 私は過呼吸気味になりながらなんとか声を絞り出す。祐司のせいなんかじゃない。受け入れるとかそういう話じゃない。祐司がただ祐司らしくいる、ただそれだけで十分なのに。叫びたいのに私の想いは言葉にならず、決壊した感情だけが涙とか鼻水とかになって私の顔をぐしゃぐしゃに濡らしていく。


『パパとママ、喜んでたかな? 私、ちゃんと正しい息子になってた? できたらお姉ちゃんも、もう一人の私のこと、ちゃんと受け入れてあげてね』


 祐司は笑う。無理矢理に口角を吊り上げて目を細めたみたいな笑顔が痛くて、私は背中を丸めて顔を伏せ、言葉にならない何かを泣き叫ぶ。

 祐司は馬鹿だ。大馬鹿だ。何にも分かってなんかいない。

 私からすれば、男でも女でも弟でも妹でも、そんなことどうでもよかったのだ。祐司はただ祐司でしかなくて、受け入れるとか受け入れないとか、そういうことじゃなかったのに。

 だってほら、祐司はこんなにも優しいんだから。しっかりと自分の芯を持っていて、それでいて誰かを真に思いやることだってちゃんとできる。そんな彼女を、一体誰が受け入れないというのだろう。

 私は泣いた。死を選んだ祐司を悼んで。

 私は泣き続けた。優しさが生んだ弟、あるいは愛しい妹を想って。


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ディア・マイ・シスター やらずの @amaneasohgi

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