ディア・マイ・シスター(2)

 妹は、男だった。

 おとこ、というのは生物としての外見的特徴がそうである、という意味で、彼女は短い生涯のほとんどを喉の奥に刺さって絶対に抜けない小骨みたいなその事実に苦しめられて生きていた。

 祐司がいつ自分の性を自覚したのかは分からない。けれど、姉である私が振り返ってみれば、随分と小さいときからそうだったのだろうと思い当たることもあった。

 小さいころからおままごととか着せ替え人形遊びとか、そういうのが好きだった。洋服も青とか赤より、ラベンダーとかピンクみたいな淡くて柔らかい色が好きだった。もちろんそれらは私のおさがりが主な洋服ということもあったのだろうけど、彼女が選ぶのはいつも、新しく買ってもらったトミカとかドラゴンがプリントされたTシャツとかじゃなくて、肌の黒ずんだ使い古しの人形と花柄のスモッグだった。

 小学生のときには、発育が遅くて小柄で華奢で色白だったことや髪を伸ばしていたこともあって、女みたいだとクラスメイトにからかわれていた。近所の笹倉さんたちが「女の子みたいで可愛らしいねぇ」と褒めてくれたときは、すごく嬉しそうにしていた。

 だけど心とか意志とか、そういうものとは関係なく、時間が経てば身体は成長する。葉からこぼれる朝露が落ちる方向を選べないのと同じように、私たちは誰も、その流れに抗うことはできない。

 中学生になって声変わりが始まったとき、はっきりとへ変わり、心とかけ離れていく自分の身体に耐えられなくなって、祐司は私たち家族にその秘密を打ち明けた。


 そのときのことは今でもよく覚えている。

 夕食どき。食卓にはポークピカタと付け合わせのマッシュポテトとブロッコリー。それからもち麦と白米を混ぜたごはんに、よく煮込まれた野菜スープが並ぶ。食事が始まると同時に消されたテレビはやけに画面が黒い気がして、そこにはっきりと写る私たち家族の団欒が妙に気味悪く思えた。

 湯気の立つスープに、猫舌の祐司はいつも以上に息を吹きかけていて、今思えばたぶんそれはこれから家族に告白すると決めた緊張感を紛らわすものだったのだろう。当時の私は氷でも入れたらとか言って祐司をいつものようにからかった。


「お姉ちゃんの意地悪」


 祐司は横目で私を睨み、スプーンでスープの上澄みをちまっと掬い、慎重に啜る。どうやらまだ熱かったらしく、眉間にぎゅっと皺が寄った。


「なんか猫舌って、舌の使い方次第らしいよ」


 私はスプーンにスープの具をこんもりと盛って、隣りの祐司に見せつけるようにして口に運ぶ。祐司は私を睨んでから背を向けるように座り直し、ピカタを頬張る。

 私と祐司はこれといって仲がいいわけでもないけど悪いわけでもない、どこにでもいる姉弟。父は中堅商社の営業部長で、母は近所のスーパーでレジ打ちのパートをしている。特別に裕福なわけでもないけれど貧しいわけでもない、平和で平凡な家族――それが私たちだった。

 食事を終えると、いつものように母が四人分のコーヒーを入れる。私は机の真ん中に置かれている金魚鉢みたいな可愛い入れ物から角砂糖を取り出して、ミルクと一緒にコーヒーのなかへと落とす。あっという間に濁っていくカップの中身をかき混ぜながら、隣りで祐司が深呼吸をするのを聞いた。


「あのさ」


 声は震えていた。祐司は机の下、ぴたりと閉じた膝の上に置いた両の手のひらを真っ白になるくらい強く握りしめていた。


「話があるの」


 普段はめったに自分の意見を言うことがない、よく言えば控えめで悪く言えば過ぎるほどに内気な祐司の態度に並々ならぬ何かを感じ取ったのだろう。父は読んでいた本を閉じ、母も洗い物の手を止め、席に座った。


「どうしたの、改まって」

「進路の相談か? 祐司ももう来年には高校受験だもんな」


 能天気な両親に、祐司は首を横に振る。その切羽詰まった様子に、意味もなくコーヒーをかき混ぜていた私もスプーンを置いて居住まいを正した。

 けれどしばらくの間、祐司は黙ったままだった。とはいえ誰も急かしたりすることはなく、全員が祐司の言葉を静かに待っていた。

 どれくらいの時間、沈黙があったのだろう。その間、祐司は口を開いたり、唇を噛んだりしながら言葉を探しているようだった。やがて祐司は立ち上がり、少し待っててと私たちに言って二階へと引き上げていった。

 私たちは祐司が戻ってくるまでの間、とくに何かを喋ったりはしなかった。母が「何か知らねえ」と呟いていたけれど、父も私も黙ったままテーブルの木目を眺めたり、コーヒーをかき混ぜたりしていた。

 しばらくして階段を下りてくる音がした。私たちは相変わらず黙ったままだったけれど、三人がそれぞれ緊張感をまとったのが分かった。そしてリビングに戻ってきた祐司の姿に、全員が少なからず驚いたことは間違いない。

 祐司はスカートを履いていた。裾が緩やかなフレアになったマーメイドスカート。トップスはシースルーのブラウスで、その下には黒のキャミソールが透けて見える。顔にはメイクもしてあって、滑らかなピンクのリップは肌の色にもよく馴染んでいる。

洋服はどれも私のものではなかったし、もちろん母のものでもなかった。それはつまり、その女性ものの洋服もメイクに使ったであろう道具も祐司自身の私物であることを意味している。


「お前、なんだ、それは……」


 唖然とした父が言葉を絞り出す。祐司は真っ直ぐに私たちを見ていた。


「僕……いや、私、女の子なんだ」


 穏やかで温くって、ぼーっとしていればいつの間にか茹で上がってしまいそうなリビングの空気が、音を立てて凍りついたのが分かった。父と母の顔にはこれ以上ない困惑が滲んでいる。予想もしていなかった祐司の告白に、脳みそがショートしたと言わんばかりの顔だった。


「それは、どういう意味、なんだ?」


 油をさし忘れた機械みたいにぎこちない父に、祐司は一つ深呼吸を挟んでから決定的な単語を告げる。


「見たまんまだよ。心と身体が違うんだ」


 真っ直ぐと両親を見つめる祐司の眼差しは、時折頼りなげに揺れている。

 両親は驚きに言葉も出ないという感じだけれど、私はといえば「なんだ、そんなこと」程度にしか思わなかった。そりゃ少しは驚いたけれど、まあそうなんだろうなと一番近くで見ている家族だからこそ感じる部分はあったし、LGBTQ なんて今時そんなに珍しくもない。私の通う大学にもそういう子はけっこう普通にいて、コスメなんかに異様に詳しいこともあって女子たちは新作を見つけるたびに彼にこれどうかななんて聞きにいく。


「し――」


 たぶん私は、知ってたよと、随分と深刻な表情をしている祐司に、そう慰めというか、理解の言葉みたいなものを掛けようとしていた。だけど父の急によそよそしくなった冷たい声が、私のそれを遮った。


「何を言ってるんだ、お前は」


 その瞬間、緊張と不安と少しの期待に張り詰めていた祐司の顔から一切の血の気が消え失せた。私は内心で頭を抱えたけれど、もうどうすることもできなかった。


「勘弁してくれ。お前は、長男なんだぞ? 大事な息子だ。娘じゃない」


 父も困惑していたのだろう。要領を得ない言葉の羅列はただ冷たく、強く、祐司を突き放す以上の意味を何一つとして持たなかった。

 それからようやく理解が追いついたらしい母がうわっと泣き出して、小さな両手で顔を覆った。声を無理矢理に押し殺して泣くもんだから、吐いたり吸ったりする息が不規則に波打って音を立てていて、それはなんだか昔見たホラー映画の一幕みたいなそういう気味悪さがあった。私はしばらく母の様子を盗み見ながら、どうしてそんなに困惑と嫌悪の涙を流すのか考えたけれど、結局分からないまま、またコーヒーをかき混ぜた。

 それ以降、父は青ざめた顔で時折苛立ちの溜息を吐いたりしながら黙り込んでいて、母はどうしてどうしようとうわ言のように繰り返しながら泣き続けた。二人とも、肩を小さく震わせながらじっと何かに耐えている祐司を見ようともしなかった。


「ごめんなさい」


 そんな膠着状態が続いて、とうとう祐司は屈した。背中を丸め、左手で右手を握り締めながら、自分の太もものあたりへ向けて謝罪した。私はどうして祐司が謝る必要があるのか分からなかった。だから「祐司が謝ることなんて何もないよ」と言いたかったけれど、やっぱり私より先に年々広くなっていく額を押さえた父が「部屋に戻ってくれ」とうんざりした声で言って、祐司は小さく頷くとそのまま無言でリビングを出ていった。

 父は深い溜息を吐く。母は立ち上がってティッシュを取り、涙を拭いて鼻をかむ。


「ねえ、ひどくない、二人とも」


 私は言った。遅かった。どうして祐司がいるときにそう言えなかったのかは分からない。だけどどれだけ遅くとも、私は父と母にそう言った。

 何も珍しいことじゃない。日本人の一〇人だか一一人に一人はLGBTQだと言われている。これはつまり、クラスに二人か三人くらいはいる計算で、私の趣味である読書のほうがたぶんよっぽど少数派だ。それに一昨年くらいにこれまでも一部の自治体で認められていた同性婚がきちんと法制化されたとき、父も母もニュースを眺めながら自由な世の中になったなんて笑っていたのだから、その溜息も涙も余計に意味が分からなかった。

 だけどたぶん、そういう問題ではないのだ。

 人が掲げる倫理や正義は、自分の愛する人がその渦中に立ったときにだけその正体を現す。

 もちろん動揺とか、孫の顔が見られるとか見られないとか、愛する我が子の未来を少なからず憂う親心とか、単純な倫理と正義だけで割り切れない部分もあるのだろう。だけどそうだとしても、つまるところこの人たちは自分は無関係だという前提で世の中の出来事を眺めているだけだったのだ。

 私は押し黙ったままの父と母に、それ以上の言葉を続けられなかった。優しくて聡明で暖かくて、少なからず尊敬する気持ちもあった両親が突然に得体の知れない何かに思えてしまって仕方がなかった。


「もういい」


 私は反抗期の子どもみたいに吐き捨てて席を立つ。大きくて乱暴な動作で歩き出したせいでスリッパが脱げたけれど、履き直す手間さえかけず私はそのまま裸足で二階へ向かう。階段はやけに冷たくて、腰の後ろのあたりにナメクジが這ったみたいな不快さを感じた。

 二階に上がって右側が私の部屋で、祐司の部屋はその向かいにある。私は閉ざされたその扉の前に立って、ノックをしかけたけれど寸前で手を止める。

 世界の全てに拒絶されたように閉まった扉の向こうから、祐司のすすり泣く声が微かに漏れてくる。

 私は扉の前に立ったまま、途方に暮れた迷子みたいに一歩も動くことができなかった。

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