ディア・マイ・シスター
やらずの
ディア・マイ・シスター(1)
「おう、姉ちゃん。久しぶり」
一月ぶりに実家へ帰り、四十九日の法要を終えた次の日の朝、まだ起き切らない頭を引き摺りながらリビングに降りた私に向かって、成仏していったはずの妹はこう言った。そして私は自覚させられる。もう私の知っている妹はいない。本当に、正真正銘にゆるぎなく、妹は死んでしまったのだと。
†
包括型生活支援SNS〈エルログ〉の登録義務化によって、私たちの生活は一変した。
そこでは写真の投稿、ネットでのつぶやきのみならず、昨年の収入から換算される税金の額はこれこれですねとか、いつどこでどんなものを買って、どんな人とどんな風に過ごしたとか、どんな映画や小説に感動したか(つまりどれくらい心拍数が上昇したか)とか、そういう生活における文字通りの全てが蓄積されている。私たちはそれを友人や恋人、家族と共有したり、あるいはデータが示すいろいろな傾向を頼りにして新しい友人や恋人を探したり、またあるいは学校や勤め先やかかりつけの病院なんかにデータの一部を提出したりする。
生活の全部がSNSに記録されるというと、どことなく昔流行った小説の、監視型ディストピアっぽさが出るけれど、〈エルログ〉において公開する情報は事細かにグループ分けやランク分けができるし、そのへんはもともとそういうソーシャルネットに親しんでいたこともあって、みんな上手く使いこなしている。
それに、いちいちプライバシーを気にするより、大手を振って〈エルログ〉を利用したほうが、就活や結婚、煩雑な税金類の一括管理など遥かにメリットが大きい。
そんなわけで、私たちの人生の大部分は〈エルログ〉に頼り切っている。だけど別に、私はそのことについてどうも思わない。道具は道具でしかないし、要は使い方だ。私の友だちには登録したっきりほとんど写真やつぶやきの投稿しないで公共料金や税金の支払いくらいでしか〈エルログ〉を使ってない子もいるし、その日のコーデとかカフェのランチとかおすすめのコスメとか、そういう写真を毎日の投稿し続けて何万人というフォロワーに支持されている子もいるけれど、そのどちらの使い方もきっと正しいのだと思う。
だから〈エルログ〉のサービス自体に、これといって思うことはない。だけど今ばっかりは少し、いやだいぶ面を食らった。というか明確にくっきりと、不快感を抱いていた。
「どうしたの、姉ちゃん。そんな顔して」
画面のなかで妹が笑っている。私は膨れ上がった不快さとか、困惑とか、そういう感情をぜんぶ皮膚の内側に押し込めようと全身に力を込めるけれど、果たしてそれが本当にうまくできているのかは分からなかった。
妹が蘇ったのは、〈エルログ〉の疑似人格構成サービスによるものだ。これは亡くなった人のアカウントに残るライブラリデータを完全スタンドアロンの人工知能に学習させ、四十九日法要を終えたタイミングで生前の故人とまるでそっくりな人格を画面越しに提供する。
このサービスを利用するのは主に亡くなる本人やその家族で、提供が四十九日法要のあとというのは膨大な
だから私が困惑しているのは、妹が画面のなかで蘇ったからでも、正体は〈エルログ〉の記録を学習しただけのAIに過ぎないからでもない。
私の困惑の理由はもっと別のところにあって、それはまず画面のなかで微笑んでいる妹の姿かたちが問題だった。
いわゆるソフトマッシュと言われる、襟足が短めで前髪が重めの黒髪に、このサービスで特に服装を希望しなければあてがわれるデフォルトの白シャツ。身内の色眼鏡を抜いてもそこそこ整った綺麗な顔に化粧っ気はなくて、好きだったはずのアクセサリーは一つも身に着けていない。
そう、それこそが問題だった。生前の妹の髪は愛らしいミルクティベージュで、美容やファッションには人一倍気を遣い、私なんかより遥かにメイクだって上手だった。もちろん今目の前にいるそれも、顔立ちは紛れもない妹で、声だって間違えようがない。だけどたとえそうだとしても、これは妹なんかじゃない妹なはずがない、と私は断言できる。
「どういう、つもりなの」
私は妹を騙るそれに問いかける。意味がないことは分かっている。このAIはあてがわれた妹のライブラリデータを受け身で学んだだけだし、そもそもこんな曖昧な質問に答えるだけの会話の精度を持っていない。だからそれが、怒りとか絶望とかによく似た私の問いかけに答えられるはずがない。
画面のなかのそれは眉間にうんと皺を寄せて、しかも耳たぶを触ったり揉んだりする、考え事をするときの妹のくせまでそっくり真似るおまけ付きで、もちろんライブラリデータをもとに生まれた疑似人格であるそれは限りなく妹なのだけど、そんなところまで再現されてしまうのかと、私は少なからずショックというか箪笥の角に足の指をぶつけたときのようないやな痛みを胸の奥のさらに奥のほうで感じていた。
「どういう――」
私がもう一度、今度はもっと強く鋭く言いかけたとき、ちょうど洗濯物を干していた母親が二階から降りてきた。妹のAIが視線を私からずらして母に「おはよう」と言うと、母は驚きと喜びが膨らみすぎて弾けてしまうのを抑え込むように、わっと口を両手で覆った。母の目はすぐに涙でいっぱいになった。
「おはよう、おはよう」
見ないうちに随分としわの増えた手の隙間から、母は何度もそう言った。
「ねえ、お母さん。どういうことなの」
私は厳しく叱責するような声のトーンで言って、母と妹AIの間に割って入る。感激のあまりその場に崩れ落ちている母を睨みつける。
「どうもこうもないわよ。帰ってきたの、あの子が帰ってきたの」
母は涙を流していた。そして私は母が流す涙の残酷な意味を、うんざりするほどに理解していた。
「違う。そうじゃない。そうじゃなくて、どうして――」
呆れとか怒りとか、そういう感情ばかりが喉に詰まって、うまく言葉が続かない。なんだか私まで泣けてきて、でも泣いてしまうのはこの人に負けたみたいで悔しくて、私はぎゅっと奥歯を噛み締める。
母は顔を上げる。泣きながら、笑って、まるで憑き物がとれたみたいに安堵した表情で私を見上げる。
「何も違くない。帰ってきたの、
私はこのやるせなさを、迸る感情を、一体どこにぶつけたらいいのだろう。何に怒ればいいのだろう。
何もかもが分からなくって、同じ空気を吸うことさえ苦しくなって、私は縒れた寝間着のTシャツのまま、走って家を飛び出した。
†
腰かけたブランコが頼りなく前後に揺れる。か細く軋む金属の音は悲鳴みたいに、どんよりと分厚い雲がかかる空に消えていく。
天気が芳しくないせいか、それともまだ朝早いせいか、公園には散歩をしているおじいさんがいるだけで、茹だるような夏の暑さのなかでしんと静まり返っている。
そう言えばあのおじいさん、私が中学生くらいのときもいたなとか、そのときは柴犬と一緒だったなとか、私はそういうことを思い出していた。あのやたらと高い声で吠える柴犬はどこに行ってしまったのだろうか。犬の散歩という理由がなくなって、ただ散歩という習慣だけが残ったおじいさんはこの曇り空をどんな風に思うんだろうか。考えていたらなんだか目の奥がじくじくと痛くなってきて、私は少しだけへこんだ地面を靴底で蹴っ飛ばす。
「……なにしてんだろ、私」
溜息みたいな独り言をつぶやく。声は軋むブランコのそれよりもずっと弱々しくて、それがどうしようもなく情けなくて、私はとっくに赤らんでいる目元を乱暴に擦る。
きっと期待していた。二人が悔い改めてくれていると、とっくに見放したはずなのに願っていた。せめてそれくらいのことがなければ妹が――祐司が、彼女が自分の命でもって絞り出した叫びが報われないから。
私は奥歯を噛み締める。ぎゅっと閉じた瞼の裏に、綺麗で可愛い祐司のどこか悲しげな笑顔が思い浮かんで、消えなかった。
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