5 横暴な従弟とひどい濡れ衣

 平穏な時間は、ほんの束の間のことだった。


 アイシャが目覚めたと知った近所の子供たちが、代わる代わる天幕を訪れては、セルマに追い出されていく。アイシャとしては、体調はもう問題ないので友達と遊んでも良いような気分だったのだが、セルマはそれを許さなかった。皆が垂れ幕の側で追い払われてしまう。唯一、天幕に入ることが許されたのは、水汲みの任を完遂したファイサルだけだった。


「ほら、どいたどいた」


 傲慢というよりは、ふざけたような調子で同世代の子供らを蹴散らし、ファイサルが得意げに帰って来た。


「セルマ、どんくさアイシャの調子は?」

「何て口を利くんだいあんたは」


 眉を上げてセルマが咎めるが、ファイサルがアイシャに突っかかるのはいつものことだった。


 ファイサルの、頭に響く大声を聞くくらいであれば、友人の女の子たちの可愛らしい声に耳を傾ける方がよっぽど良かったのだが、なぜかいつも、セルマもナージファもファイサルのことだけは特別扱いするのである。


 とうとうアイシャは、ファイサルに気取られぬよう、セルマに耳打ちをした。


「どうしてファイサルは入っていいの」


 するとセルマはさも当然のように、「そりゃ、あんたの従弟いとこだからさ」と言ったのだった。従弟というものはどうやら、無礼が許される肩書きのようだ。


 しばらくアイシャの世話をしていたセルマであったが、さすがに付きっ切りとはいかぬようだ。駱駝らくだの乳搾りに行って来ると言い残し、老女はいつも通り、すり足気味の歩みで陽光の中に去っていく。室内には不本意にもファイサルと二人っきりである。


 ファイサルは氏族内でも悪名高いやんちゃ者で、ナージファの次の族長候補でもある。砂竜さりゅう使いの氏族は勇敢を好むため、少しくらい粗暴な気質の方が女の子受けしそうなものだが、ファイサルの場合、そう単純にはいかぬようだった。別に見てくれが悪い訳ではないし、頭脳が弱い訳でもない。それならばどうしてと思うところだが、当のアイシャがファイサルの騒がしさを苦手としていたため、「騒々しい」以上の理由は思いつかなかった。


「なあアイシャ」


 セルマの気配が遠くなったのを用心深く待ってから、ファイサルが口を開く。相変らず頭に響く声である。


「そんなに間歇泉かんけつせんに行きたかったのか」


 揶揄やゆする調子ではないものの、アイシャは短慮を責められたような心地になり、ファイサルの赤茶色をした瞳から逃げる。この時にはもう起き上がることができるほどに快復しており、座して脇息きょうそくにもたれていたため、水を求めるふりをして少年から少し離れた。


 ファイサルはそんなアイシャの気など露知らず、離れた分だけ歩み寄って来るので、きりがなくて困る。


竜生りゅうせいの儀は大人にならないと参加できないんだぜ」

「知ってるもん」

「おまえが出掛けたくて駄々こねるなんて、珍しいな。いつもは出来ることなら村から出たくないって、セルマの陰に隠れてんのに」


 悪気無く無遠慮に言い放つファイサルに気取られぬよう、横目で睨んでやる。


 それから、彼が汲んできた水を柄杓で椀に流し込み、喉を潤そうとしたのだが、従弟が物欲しそうにこちらを眺めているのに気付き、仕方なく椀を手渡した。ファイサルは嬉しそうに顔を輝かせ、これまた無遠慮に全て飲み干した。


 ファイサルは濡れた口元を袖口で拭い、アイシャに空のままの椀を返す。続いて慌ただしく懐を探り出すので、アイシャは首を傾けた。


「そうだ、アイシャに良いものを見せてやろう」


 思わせぶりに言ったファイサル。やがて彼は、隠し持っていた羊皮紙を衣服の内から引っ張り出し、眼前に掲げた。


「じゃーん」


 アイシャは椀を持ったまま、黄緑を帯びた羊皮紙を凝視する。地図である。


 広大な砂漠が主なので、ところどころに井戸やオアシス都市、各氏族の聖地の場所が記されるだけの、余白が多いものだった。砂丘の中には風で移動をするものもあるし、砂竜の民も遊牧の民も、一所ひとところには止まらない。それゆえ、砂漠においての地図はどうしても漠然とした表記になってしまうのだ。


「これが、どうしたの」

「おまえ、ほんと察しが悪いなあ。ほらここ。赤の聖地、間歇泉! 行きたいんだろ」


 よく日に焼けた指先が、紙面の左下方、ちょうど南に暮らす赤の氏族と西に暮らす白の氏族の中間に位置する辺りに突きつけられる。滲んだインクで網掛け印が記される脇に、「赤の聖地」の文字が躍る。


 アイシャは羊皮紙と従弟の顔を交互に見遣り、やや遅れて理解が追い付き、慌てて首を振る。


「む、無茶だよ! 子供だけでこんなに遠くまで。途中で干からびちゃう」

「なんだよ、大丈夫だって。ほら俺、この前駱駝の放牧独り立ちしたんだぜ。その時、間歇泉の側で父さんに置き去りにされて、一人で戻って来たんだ。なんとなくってやつが身に付いたと思う」

「でも」

「せっかく兄ちゃんが連れてってやろうとしてるのに」

「あたしの方が、ちょっとだけ生まれたの早いもん」

「三か月だけだろ。誤差だよ誤差」


 誤差だろうが何だろうが、決してファイサルは兄ではないと思うのだが。アイシャは溜息を吐きたいほどだったが、そんなことをすればファイサルが文句を言うだろうから辛うじて押し止める。


「とにかく、絶対にだめだよ。セルマをこれ以上……」


 不意に、アイシャの声を掻き消すように、人の悲鳴と山羊や羊の絶叫が響き渡った。


 目を丸くするアイシャ。対照的に、してやったりと口の端を歪めるファイサルの顔を見て、全てを察した。ファイサルの作戦は、とうに始動していたらしい。アイシャの抵抗虚しく、外堀は埋められていたのだ。


「ファイサル、この騒ぎは」


 少年は答えず、巻き上げられた垂れ幕から顔を出し、大声で叫んだ。


「わあ、大変だ! アイシャが羊の柵を閉め忘れたから、大脱走が起きてる!」

「ええええ」


 何てひどい濡れ衣! 涙が出そうなほどである。しかしファイサルは、無邪気ないたずらっ子の輝く瞳をこちらに向けて、アイシャの腕を強引に掴んで引いた。つんのめりつつもされるがまま、巻き上がっているのとは逆側の垂れ幕の隙間から外へと飛び出す格好になる。そのまま二人で砂地を駆けた。


「ファイサル……」

「このまま戻ったら、羊大脱走の件でセルマに怒られるだろ。でも家出して皆を心配させれば、柵を閉め忘れたくらいどうってことないさ」

「うう……ファイサルの馬鹿」


 断じて、柵を閉め忘れてなんかいないのに。心中では不満を爆発させるアイシャであるが、残念ながら彼女には、強引な従弟を制止することなど出来やしなかったのである。

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る