4 天幕より
※
水底に、淡い黄金色の光がある。その輪郭は陽炎のようにぼんやりとして、手を伸ばせども掴めない。
『――ケテ』
過去、どこかで聞いたような声がする。中性的で、とても悲し気な声音。
『タスケテ』
アイシャは水の深みに潜水をする。砂漠育ちの少女である。泳ぎの鍛錬など、したことはない。それなのに、どうすれば水の垂れ幕が道を開いてくれるのか、本能のような部分で知っていた。
『シャ。――アイシャ』
その呼び声は、次第に明瞭になる。アイシャはもう一度、光を掴もうと水の塊を握る。物体の感触はなく、僅かな抵抗感があっただけ。
さらに手を伸ばす。潜水する度に、視界を占領する光の面積が大きくなる。とうとう周囲が金色に包まれた時、指先が滑らかで硬質なものに触れた。
竜だ。淡い金色の鱗の、細長く優美な
『アイシャ』
「どうしてあたしの名前を知っているの?」
水中だというのに、呼吸に苦はない。言葉も発せられる。ちょうど六年前、宮殿の泉でそうだったように。天竜は微光の中、七色に煌めく眼でこちらを真っすぐに見つめた。
『アイシャ。アイシャ』
「うん、あたし、アイシャだけど……」
『アイシャ。タスケテ』
思わず撫でた竜の額に、歪な裂傷がある。深い溝が痛々しい。指で触れられて痛みがあったのだろうか。天竜は不意に咆哮を上げ、長い身体を悶えるように暴れさせた。尾が水を揺らし、水圧でアイシャの小柄な身体が弾き飛ばされる。
紺碧の中、アイシャはくるくると回転をしながら、たゆたう。どちらが天でどちらか地か、もはや判別は不可能。ともすれば、この身の存在すら曖昧にぼやけ、水の中に溶け去ってしまう心地すらした。アイシャをアイシャたらしめるのは、この名を繰り返す天竜の囁きだけである。
天竜は、人の言葉を多くは知らぬのだろうか。ひたすらにアイシャを呼び、助けを求める神聖なる存在。アイシャは竜の苦悶の声を聞く。
『シャ……イシャ……』
「アイシャ!」
不意に、意識が浮上した。この日、天竜の世界に捕らわれかけていたアイシャを引き上げたのは、いつかと同じナージファではなかった。
「おい、大丈夫か。すっげえうなされてたけど」
アイシャの眼前に、気の強そうな赤茶色の瞳。濃い眉毛も固そうな頭髪も同じ色。その見慣れた姿に、アイシャは何度か瞬きをして、少し身を引いた。
「ファイサル」
ファイサルは、アイシャと同い年の少年だ。竜を
「アイシャおまえ、ほんとどんくさいなあ。覚えてる? 羊の柵の西側の灌木で、危うく干からびかけてたんだぜ」
ファイサルには少し無遠慮なところがあり、アイシャは密かに彼に苦手意識を持っていた。それゆえ、ファイサルがずいと顔を近づければ、自然とアイシャの首が後傾する。
「おい、聞いてる?」
「ううっ。……うん」
アイシャは手元の薄布を弄り回しながら、天幕の端に並ぶ小物入れの箱に視線を逃がした。体調は本調子ではない。少年の遠慮ない大声が頭に響き、頭痛が誘発される。ファイサル、早くいなくなってはくれまいか。
思わず頭を抱えかけたアイシャ。救世主は、熱砂の香りを纏い、垂れ幕をかき上げてやって来る。
「アイシャ! 気づいたかい」
セルマだ。アイシャは詰めていた息を吐く。桶を抱えたセルマは枕元に膝を突き、アイシャの額に乗せていた湿った布を剥がした。
「ファイサル、水を汲んできてくれ」
「ほーい」
ファイサルの、子供ながらに豪快な足音が遠のけば、天幕内にはセルマが布に水を吸わせて固く絞る音と、二人の息遣いだけが響いた。
セルマの皺だらけの手が、アイシャの前髪を優しく掻き分ける。ひんやりとした手拭いが額の熱を消し去っていく。元は冷たかったのだろう、脇に挟んでいた布を引き抜けば、それは半ばぬるま湯のような温度になっていた。
口を開かずに黙々と水を絞るセルマの横顔を、ぼんやりと眺める。初めて出会った頃にはすでに、彼女の頬や額には皺が刻まれていた。微笑みが良く似合う目尻の小じわ、口角を上げれば深まるほうれい線。砂風を浴びたのだろうか、汗ばんだ首元が、今日はざらついているようだ。……砂。セルマはつい先ほどまで、砂漠に出ていたのかもしれない。
セルマは高齢なので、どうしてもという場面以外、放牧について行くことはない。灼熱に晒されるのは体調にも好ましくないだろうから、日中はほとんど天幕で過ごしているはずだ。
視線を遣れば、外気を取り込むために巻き上げられた垂れ幕の辺りから、まだ高い位置にあると見える陽光が垂直に地面を刺すのが見えた。昼時なのだろう。アイシャが駄々をこねて灌木に居座ったのは、早朝のことである。気を失った割りに、時間は経過していない。こんな日中に、セルマはなぜ砂漠に。
アイシャの視線を感じたのだろう。セルマはこちらに目を向けて、柔らかく微笑んだ。額に浮かぶ汗が、ちらりと光り、アイシャは察した。セルマはきっと、アイシャが灌木の側で不貞腐れている間、その姿が目に入る距離でじっと見守っていたのだろう。だから大事に至る前にアイシャは救出され、数時間で快復をしたのである。
アイシャは人知れず、脈打つ鼓動の辺りを押さえた。呼吸が圧迫されたかのように、胸が苦しかった。
「セルマ」
呼び掛ければ、老女はやや首を傾ける。アイシャは気恥ずかしさを覚えながら、すっと視線を逸らす。それから小さく呟いた。
「……ごめんなさい」
アイシャの謝罪など、予想の範囲内だったのだろうか。セルマは驚きもせず口角を上げて、ふっくらとした手のひらで、アイシャの髪を撫でた。
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