4 天幕より


 水底に、淡い黄金色の光がある。その輪郭は陽炎のようにぼんやりとして、手を伸ばせども掴めない。


『――ケテ』


 過去、どこかで聞いたような声がする。中性的で、とても悲し気な声音。


『タスケテ』


 アイシャは水の深みに潜水をする。砂漠育ちの少女である。泳ぎの鍛錬など、したことはない。それなのに、どうすれば水の垂れ幕が道を開いてくれるのか、本能のような部分で知っていた。


『シャ。――アイシャ』


 その呼び声は、次第に明瞭になる。アイシャはもう一度、光を掴もうと水の塊を握る。物体の感触はなく、僅かな抵抗感があっただけ。


 さらに手を伸ばす。潜水する度に、視界を占領する光の面積が大きくなる。とうとう周囲が金色に包まれた時、指先が滑らかで硬質なものに触れた。


 竜だ。淡い金色の鱗の、細長く優美な体躯たいく砂竜さりゅう蜥蜴とかげのようだけれど、眼前で神々しく輝くのは、麗しき大蛇のごとく巨体。天竜てんりゅうである。


『アイシャ』

「どうしてあたしの名前を知っているの?」


 水中だというのに、呼吸に苦はない。言葉も発せられる。ちょうど六年前、宮殿の泉でそうだったように。天竜は微光の中、七色に煌めく眼でこちらを真っすぐに見つめた。


『アイシャ。アイシャ』

「うん、あたし、アイシャだけど……」

『アイシャ。タスケテ』


 思わず撫でた竜の額に、歪な裂傷がある。深い溝が痛々しい。指で触れられて痛みがあったのだろうか。天竜は不意に咆哮を上げ、長い身体を悶えるように暴れさせた。尾が水を揺らし、水圧でアイシャの小柄な身体が弾き飛ばされる。


 紺碧の中、アイシャはくるくると回転をしながら、たゆたう。どちらが天でどちらか地か、もはや判別は不可能。ともすれば、この身の存在すら曖昧にぼやけ、水の中に溶け去ってしまう心地すらした。アイシャをアイシャたらしめるのは、この名を繰り返す天竜の囁きだけである。


 天竜は、人の言葉を多くは知らぬのだろうか。ひたすらにアイシャを呼び、助けを求める神聖なる存在。アイシャは竜の苦悶の声を聞く。


『シャ……イシャ……』



「アイシャ!」



 不意に、意識が浮上した。この日、天竜の世界に捕らわれかけていたアイシャを引き上げたのは、いつかと同じナージファではなかった。


「おい、大丈夫か。すっげえうなされてたけど」


 アイシャの眼前に、気の強そうな赤茶色の瞳。濃い眉毛も固そうな頭髪も同じ色。その見慣れた姿に、アイシャは何度か瞬きをして、少し身を引いた。


「ファイサル」


 ファイサルは、アイシャと同い年の少年だ。竜をかえすために間歇泉かんけつせんに向かった従姉いとこギナの弟でもある。


「アイシャおまえ、ほんとどんくさいなあ。覚えてる? 羊の柵の西側の灌木で、危うく干からびかけてたんだぜ」


 ファイサルには少し無遠慮なところがあり、アイシャは密かに彼に苦手意識を持っていた。それゆえ、ファイサルがずいと顔を近づければ、自然とアイシャの首が後傾する。従姉いとこの気も知らぬファイサルが構わず距離を詰めるので、横たわったままのアイシャは逃げ場を失って、いよいよ視線を逸らせた。


「おい、聞いてる?」

「ううっ。……うん」


 アイシャは手元の薄布を弄り回しながら、天幕の端に並ぶ小物入れの箱に視線を逃がした。体調は本調子ではない。少年の遠慮ない大声が頭に響き、頭痛が誘発される。ファイサル、早くいなくなってはくれまいか。


 思わず頭を抱えかけたアイシャ。救世主は、熱砂の香りを纏い、垂れ幕をかき上げてやって来る。


「アイシャ! 気づいたかい」


 セルマだ。アイシャは詰めていた息を吐く。桶を抱えたセルマは枕元に膝を突き、アイシャの額に乗せていた湿った布を剥がした。


「ファイサル、水を汲んできてくれ」

「ほーい」


 従弟いとこは緊張感のない返事をして傍らの桶を掴む。彼が去れば、室内は途端に静かになるので不思議である。


 ファイサルの、子供ながらに豪快な足音が遠のけば、天幕内にはセルマが布に水を吸わせて固く絞る音と、二人の息遣いだけが響いた。


 セルマの皺だらけの手が、アイシャの前髪を優しく掻き分ける。ひんやりとした手拭いが額の熱を消し去っていく。元は冷たかったのだろう、脇に挟んでいた布を引き抜けば、それは半ばぬるま湯のような温度になっていた。


 口を開かずに黙々と水を絞るセルマの横顔を、ぼんやりと眺める。初めて出会った頃にはすでに、彼女の頬や額には皺が刻まれていた。微笑みが良く似合う目尻の小じわ、口角を上げれば深まるほうれい線。砂風を浴びたのだろうか、汗ばんだ首元が、今日はざらついているようだ。……砂。セルマはつい先ほどまで、砂漠に出ていたのかもしれない。


 セルマは高齢なので、どうしてもという場面以外、放牧について行くことはない。灼熱に晒されるのは体調にも好ましくないだろうから、日中はほとんど天幕で過ごしているはずだ。


 視線を遣れば、外気を取り込むために巻き上げられた垂れ幕の辺りから、まだ高い位置にあると見える陽光が垂直に地面を刺すのが見えた。昼時なのだろう。アイシャが駄々をこねて灌木に居座ったのは、早朝のことである。気を失った割りに、時間は経過していない。こんな日中に、セルマはなぜ砂漠に。


 アイシャの視線を感じたのだろう。セルマはこちらに目を向けて、柔らかく微笑んだ。額に浮かぶ汗が、ちらりと光り、アイシャは察した。セルマはきっと、アイシャが灌木の側で不貞腐れている間、その姿が目に入る距離でじっと見守っていたのだろう。だから大事に至る前にアイシャは救出され、数時間で快復をしたのである。


 アイシャは人知れず、脈打つ鼓動の辺りを押さえた。呼吸が圧迫されたかのように、胸が苦しかった。


「セルマ」


 呼び掛ければ、老女はやや首を傾ける。アイシャは気恥ずかしさを覚えながら、すっと視線を逸らす。それから小さく呟いた。


「……ごめんなさい」


 アイシャの謝罪など、予想の範囲内だったのだろうか。セルマは驚きもせず口角を上げて、ふっくらとした手のひらで、アイシャの髪を撫でた。

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