2 大人と羊の関係

 このように、羊とはすこぶる相性が悪いアイシャだったので、ましてや彼らよりも巨大で気性が荒い駱駝らくだには、十歩の距離にも近づくことができなかった。


 それなのに、駱駝よりも更に立派な体躯を持つ砂竜さりゅうには、一切恐怖を抱かないので不思議である。


 理由は分からない。だが、彼らの知的な瞳や、灼熱の陽光に煌めくなめらかな鱗を目にする度、アイシャは言い知れぬ安心感と愛着を覚えるのである。


「アイシャは竜が好きか。さすがはあたしの子だな」


 飛べぬ翼を持つ巨大な蜥蜴とかげのような姿だが、砂竜からはどこか神々しさを感じるアイシャである。竜の姿に目を輝かせるアイシャを、ナージファは手放しで誉めて、いつも頭を撫でてくれた。


 母が誇らしげにしてくれるから竜が好きなのかと問われれば、もちろんそういう面もあるのだろうけれど、断じてそんな可愛らしい甘えばかりではない。母のことがなくとも、アイシャは砂竜に魅せられていた。羊はあれほど恐ろしいというのに、我が事ながら心底奇妙なくらいであった。


 砂竜の世話は若者の仕事であったのだが、竜は気高く、人を選ぶ。若者ならば誰でもこの聖なる獣をぎょする訳ではなく、砂竜に認められし人物だけが、その背に跨ることを許された。


 ナージファは頻繁に、自身の相棒である砂竜マハの元へアイシャを伴った。アイシャもそれを楽しみにしていたし、マハの方も黒髪の小さな女の子が相棒ナージファの娘であることを理解しているようで、まるで姉が妹を見るような眼差しをこちらに送るのだった。


「アイシャも自分の砂竜が欲しいだろう」


 砂漠の枯れかけた灌木かんぼくの側に布を敷き、僅かな日陰に寝転ぶナージファ。愛娘と相棒の戯れを眺めていた目を細めて、彼女はのんびりと言う。アイシャはマハの鱗を撫でる手を休め、母に向けて輝いた瞳を向けた。


「砂竜! くれるの?」


 無邪気な問いかけに、ナージファは虚を突かれたような顔をした後、豪快な笑い声を上げて身体を起こす。なぜ笑われたのか分からないアイシャは頬を膨らませたが、その膨らみをつんと突かれたので、引っ込めた。


「ああ、大人になったらな」


 アイシャは顔を顰める。大人になるとはつまり、何年も待たなくてはいけないということか。不満気なアイシャの表情を束の間観察して、ナージファはいっそう笑みを深めた。隻眼を囲む目元に年相応の皺が深まる。


「無条件に大人になれる訳じゃないんだぞ。羊を怖がっているうちはずっと子供のままだ」

「羊なんかより、マハとの方が仲良しだよ」

「それでもだめ。思い出してみなよ。羊に触れない大人、集落にいるか?」


 いないのだから、反論の余地はない。だが、どうも腑に落ちなかった。


「でも、大人には勝手になれるんだって」

「誰がそんなことを」

「セルマ」


 何の配慮もなくセルマを売った形になるのだが、幼いアイシャに悪気はない。


 ナージファは額を抱え「あの婆」と小声で悪態を吐いてから、膝を屈めて幼子と視線を合わせた。蒼天そうてんのような青い瞳がアイシャを真っすぐに捉えた。


「そう。身体はね、生きて歳を重ねさえすれば大人になる。でもね、心は自分で育てるしかないんだよ。身体だけ大人で心が子供なんて、恥ずかしいだろ」

「どうして?」

「どうしてって……。変じゃないか」

「変。どうして?」


 アイシャは首を傾ける。ナージファは何やらしどろもどろになりつつある。


「ほら、ナツメヤシ。見た目が立派でも、いざ噛んで中身が詰まってなかった時は残念に思うだろう」

「うん」

「それと一緒だよ」

「でもあたし、ナツメヤシじゃないよ。どうしてナツメヤシなの?」

「いや、それはたとえ話で」


 きょとんとした表情の娘に、ナージファは閉口する。しばらく黙り込んだ後、いきなり頭を搔き乱してから、呻いた。


「ああ、あたしには真っ当なことを教えるのは無理だ! セルマ! セルマぁ!」


 ここは集落からやや離れた砂丘の側。セルマが近くにいるとは初耳である。ナージファが悲痛な叫びを上げて初めて、腰の曲がった老女は砂丘の裏から現れる。情けないナージファの様子にセルマは、心底呆れた、といった表情をしたのだが、渋々こちらにやって来て、アイシャの頭を撫でた。


「アイシャ。砂竜の相棒はねえ、羊を怖がるような大人の所にはやって来てくれないんだよ」


 なるほど、それは一大事である。放っておいても大人にはなるけれど、砂竜と相棒になるためには、どうしても羊を克服しなければいけないらしい。


 アイシャはマハの黒々した瞳を見上げ、赤みを帯びた銀色に煌めく身体を視線で撫でた。砂竜が好きだ。その気持ちは、何にも代えがたい。アイシャは視線を戻し、セルマに頷いた。


「わかった。羊と仲良くなる」


 セルマの皺だらけの手のひらが、スカーフ越しにアイシャの黒髪をくしゃりと撫でる。


「いい子だねえ」

「えへへ」


 セルマは口の端を持ち上げて笑み、思わせぶりな流し目をナージファに送る。


 仲睦まじく笑い合う二人を眺め、ナージファは苦虫を嚙み潰したかのような顔をしていたが、幼いアイシャにはその表情の意味はせなかった。


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