赤の章

1  大嫌いな羊

 この砂漠には数多あまたの遊牧民族が暮らすが、特に強勢ごうせいを誇る四つの大氏族がある。


 西には風纏う砂竜さりゅうと暮らす白の氏族。北には雷霆らいてい呼ぶ砂竜の紫の氏族。東には豊穣の大地を抱く砂竜の青の氏族。そして、南に炎宿す砂竜の赤の氏族である。


 これら四氏族は元は遊牧の一氏族に過ぎなかったのだが、約二百五十年前、当時のマルシブ王国が砂漠の諸部族を平定した戦いにおいて、ひと際優れた働きを成したことに対する褒賞に、東方海辺のオアシス都市、今ではマルシブ帝都となった都をかねてより統べていた天竜王より、天竜の卵を下賜された。それらを天竜の加護を受けし聖地でかえすことにより、四氏族はそれぞれの砂竜を得たのである。彼らを総称し、砂竜族と呼ぶ。


 砂竜は山羊や羊とは比にならぬほど知性が高く、駱駝らくだより倍以上も早く砂漠を進み屈強である。彼らは繁殖することはなく、食料としての乳を得ることはできなかったが、それでも日々の生活の利便性は大いに向上することとなる。


 さらに、今や広大な砂漠はマルシブ帝国の図版に組み込まれており、他遊牧部族に対して砂竜を誇示することは、四氏族をより強大なものとせしめた。かくして砂竜族は、帝領の一端、砂漠を守る重鎮としての誇りを胸に、繫栄を極めるのである。


 砂漠の民は皆、マルシブ帝国に膝を屈した。しかし時が過ぎれば新たな外敵が生じるものである。その筆頭が、遥か西の彼方より侵略してきた、異教の民族。彼らはマルシブ帝国内では、西方蛮族せいほうばんぞくと呼ばれ長らく敵対をしてきた。


 アイシャが生まれる五年以上前、砂竜族の健闘もあり、ついに西方蛮族を退けた折には、皇帝よりそれぞれの氏族に褒賞が贈られた。その際、赤の氏族以外には、当時のマルシブ皇女や皇帝妹がそれぞれ降嫁をしている。


 赤の氏族には、皇子の末席にある者が婿に入るとの話もあったのだが、女傑であるナージファのこと。役立たずの人間よりも、実利に沿った家畜の方がずっと良いと豪語して、結局皇族との姻族関係を結ぶことはなかったのだ。


 そしてあの日。第十六皇女を水中から救ったナージファが、当時の褒賞の話すら持ち出し褒美に求めたのは、アイシャを養女とすることだった。


 後に養母が語ったことによれば、それは「一目惚れ」だったという。ある程度の年齢となり、それを初めて聞いた時、アイシャは大きく首を傾けたのである。鏡に映るこの姿が、さして美しくないことは身に染みて知っている。


 これはどうやら、そう単純な話ではないようだ。悲しいかな、ナージファですらアイシャを一目見て、正直特徴の薄い容貌をした子供だなと思ったらしい。


 せっかく皇女を養子に迎えるならば、見目麗しい娘が良いはずだと思ったが、ナージファはアイシャを切望した。何やら運命的な物を感じたのだという。


 そもそも、皇帝としても赤の氏族の働きに報いたいとの思いは持ち続けていたらしく、奇特な族長が、いてもいなくても変わらぬ皇女を求めるのならば、要求を拒絶する道理もない。かくしてアイシャは、本人の意思が及ばぬ経緯で瑠璃色の後宮ハレムを出て、晴れて砂漠の民となったのである。



 冒険嫌いの臆病者であるアイシャは当初、砂漠の静寂も集落の喧噪もひどく恐ろしく感じていた。唯一安心できる砦は、ナージファの腕の中だけである。


 しかしいくら母子とはいえ、四六時中胸にへばりついている訳にはいかない。それにアイシャは当時四歳。幼いとはいえ重量もあり、常に抱いているには、いささか大き過ぎた。


 それゆえ、ナージファが集落を出て砂漠へ赴く際には、アイシャは必然的に居残りの老婆たちに預けられることとなった。いや、より正確に言うのなら、ナージファが天幕でくつろいでいる間にも、アイシャの世話をしたのは、ほとんどの場合近所の老人か奥さんであった。


 母子の愛情がなかったのではない。ただ単に、繊細さを一欠片も持ち合わせていないナージファには、後宮生まれの皇女を適切に世話することが出来なかったらしい。


 人見知り激しいアイシャであったが、さすがに毎日顔を見合わせていれば徐々に集落の民らに心を許し、一年も経つ頃には立派な赤の氏族の娘として馴染んでいた。相変らず臆病ではあったものの、それは生まれ持った性質ゆえ、生涯変えることは叶わぬのだろう。


 アイシャの世話をしてくれる老婆は何人かいたが、その中でも集落で最も高齢な女であるセルマは特別だった。彼女はナージファを、幼少の頃から実の娘のように可愛がっていた。アイシャにとっては第二の母か祖母のような存在である。


「アイシャは砂竜さりゅうのことはこれっぽっちも怖がらないのに、半分以上も小さい羊のことはこんなに怖がるんだねえ」


 セルマに連れられ、山羊やぎと羊が混合になった群れを、柵の外側から眺める。アイシャは、山羊が急に大声を出したり、羊が突然走り出したりするのを目にし、セルマの脚にしがみついていた。セルマはアイシャの髪を撫で、愉快そうに笑った。


駱駝らくだならともかく、あんなにか弱い羊のどこが怖いんだい」


 そう言われても、怖い物は怖いのだ。アイシャはセルマの陰から片目だけ覗かせて、山羊と羊の群れをおずおずと観察した。


 柵の狭苦しい中に密集する動物たち。白かったりまだらであったりするそれぞれの個体の背中が、砂地を覆い隠している。彼らが身じろぎをし、移動をする度、玉突き事故のように群れが揺れる。混沌たる様子である。


 じっと眺めるだけのアイシャに痺れを切らせたのか、セルマは苦笑いを崩さずに柵に歩み寄る。半ば引き摺られるように移動させられたアイシャの非力な抵抗の証に、幼い足先が砂上に蛇行気味の軌跡を残す。


「ほら、触ってみなさい」


 一頭の羊を無理やり引き寄せて、セルマは言う。抵抗するも虚しく、アイシャの眼前には羊の黒い顔があった。彼の方が体高がある。アイシャに負けず劣らずの眠たそうな眼がこちらを見下ろしていた。


「うう……」

「ほら、毛の中に指を入れてごらん。あったかいよ」

「い、嫌」

「何が嫌だね。あんたは誇り高い赤き砂竜使いの娘だろう。そんなんじゃあ一人前の大人になれないよ」

「大人になんて、なれなくても良いもん」

「なりたくなくてもね、時は勝手に過ぎるんだ。はあ、羊の世話もできない子を、誰が嫁にもらってくれるかね」

「お嫁さんにだって、ならなくていい」

「またそんな……。ナージファみたいなことを言わないでおくれよ。全く、変なところだけ似ちまうもんだね」


 ぶつくさと文句を言いつつも、羊を掴む手は緩まない。そろそろ自由になりたかったのか、羊は不機嫌そうに身体を揺らす。それがいっそう恐怖を煽る。


 アイシャは慌ててセルマの背後に逃げようとしたのだが、首根っこを掴まれて羊の前に引き出されてしまう。どうやら、今日はこの子をひと撫でするまでは、解放してもらえないようだ。


「さあさ、怖くないよ。こんなに大人しくて良い子だ」


 セルマの口車に乗せられやしない。だが、ここは従順になる他ないのである。


 ちょっとだけ。ほんの少しだけ撫でて一目散に逃げよう。心に決めて、アイシャは緊張に唾を飲む。


 感情の読めない……というよりもきっと何も考えていないのだろうと見える羊の黒々とした瞳。視線を逸らさず、おずおずと手を伸ばし、微かに額に触れる。羊毛は思ったよりもごわごわとしていて、固かった。だがそれを知ったということは、今日の目標は達したのだろう。


「セルマ!」


 セルマの顔を、誇らしげな表情すら浮かべて見上げたアイシャ。その頬を、羊の容赦ない攻撃が襲う。


「うっ」


 一つ、衝撃が頬を打った。痛みはない。代わりに鼻を覆いたくなるような悪臭が漂う。羊が唾を吐きかけたらしい。


「あらら、こりゃ……」


 あまりの心理的衝撃に言葉を失い、目を見開き瞳を潤ませる幼いアイシャに、さすがのセルマも気の利いた言葉が出なかったようである。

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