第3節 ―「誰のお陰で、今の自分があると思っている!?」―(3)
(3)
聖子は、無意識の空間の中でふと、こう思った。
英治が、こんな最低なクソ野郎だと分かっていたら、結婚なんてしなかった。と。
だけど今更、そう後悔しても、もう遅い。しかもこの「不幸」な結婚が、のちの礼治と聖治の誕生に繋がったのだから、じつに皮肉なものである。
――一体、どこで人生の歯車が狂ってしまったのだろう?
聖子はそんな思考をグルグルさせながら、再び殴られたくないとばかり、うずくまった。
突然、寝室のドアの奥から、トントントンとノックする音が響いてきた。
「なんだ!? 入ってこい」
英治が、そのノック音に振り向き声を荒げる。すると、ドアを開けて入ってきたのはエダ。
エダは顔を青ざめていた。立ち振る舞いこそは淑女だが、少し、怯えている感じではある。
「失礼します。大変申し訳ございません、礼治様が、先ほど痙攣をおこしてしまい急患へ」
エダが、米神に汗を滲ませながら、英治に謝罪の意を込めて頭を下げた。英治がいう。
「急患? まさか、礼治は病院へ運ばれたのか!?」
「はい。大変申し上げにくいのですが、あのあと礼治様を長時間、おくるみで包んだことにより、脱水症状を起こしてしまいまして… 今は、回復に向かっておりますが」
との事だ。まさかの、冗談抜きで礼治を新生児同様「くるんでいた」という事実である。
そんな事をしたらどうなるか、大体の人は想像がつくというのに、この英治という国王の横暴によって誰も逆らえないという、悪循環が引き起こした結果であった。
聖子も、今のエダの発言には頬を押さえながらも、耳を疑った。自分が暴力を振られている間、礼治もまた、国王の命令によって命に関わる事態に直面していたのだ。だが英治は、
「そうか… で、礼治は結局、魔法は発動できたのか? できてないのか?」
なんて、今はそれ所ではない、見当違いな質問をしたのである。エダも聖子も絶句した。
嗚呼、この男は子供の命や健康よりも、子供が魔法をもっている事を“アクセサリー”とし、自分が周りからチヤホヤされたいだけなんだな、と察した。
「どうなんだエダ? 覚醒したのか、してないのか、と聞いているんだ」
この男は、本当に人の血が流れているのだろうか? そう思えてしまうくらい、あまりにも子供を心配したがらないその姿に女性陣は失望した。だが、それは表には出さない。
「は、はい! 覚醒は、して、おりません…」
エダが答えられるのは、せいぜいこれくらいであった。結局、礼治はおくるみで半ば強引に縛られる形で、体調を悪くされただけという結末であった。英治はドアへ歩いていった。
「そうか。なら、もういい。礼治の魔法発動のための訓練は諦めよう。医師にこう、何度も同じようなトラブルでお世話になってしまうようでは、我が王室のイメージダウンになりかねない。まったく、根性も体力もない無能な長男だ。はて今後はどうするか」
「…」――エダたちは、敢えて何も言わなかった。少なくとも聖子は、英治が次に何を言い出すのか大体の予想がついていたからだ。すると… 案の定だった。
「医師には、礼治が自分から好き好んで、その“おくるみを自分にやってほしい!”と無理やり頼み込み、使用人たちにイヤイヤ着付けさせたのだと理由をつけよう。なに、一般的な2歳児より少し学力の劣る礼治が、そんな正確に事情を伝えたりはしないだろう」
それはどういう意味で言っているのだ。聖子は内心呆れた。
2歳児なら、まだ上手く言葉が話せないからって、自分のしてきた行為がそう簡単にバレないと思っているのだろうか? 英治からは、そんな冷酷な感情が見え隠れしていた。
最悪だ。父親失格だ。聖子はこの王室でもう、うまくやっていける自信がなくなった。
「今夜は別の部屋で寝る。まぁ今後の聖子の態度次第では、離婚も視野に入れてやれなくはないがな。ただし、息子達の親権は私が貰うぞ。聖子には、1ミリも勝ち目はないと思え。こっちは優秀な弁護士や裁判官など、幾らでもコネがあるからな。お前にはないだろう?」
そういって、英治は部屋を去っていった。部屋に残ったエダが、すぐさま聖子の元へとかけつける。聖子の鼻血をハンカチで拭き取り、エダは慰めに入った。
「聖子様… 嗚呼、こんなにたくさんのお怪我をされて、お辛かったでしょう? 今からご一緒に、医師の元へ行かれますか?」
「ううん… だいじょうぶ… 多分、私が今、顔を出したら… また、あの人に何をされるか分からない、から… 子供達も… あなたも、私を味方したら… 危ないわ…」
聖子の声に、恐怖を植え付けられた“震え”が見える。エダは静かに簡易的な処置を施したあと、聖子が「危ない」と言った理由について、申し訳さなそうにこう告げた。
「アンナの件は、既に私どもの耳にも届いております。この様な事態を引き起こしたのは、私の責任です。アンナが仮病を使って離席した事に、もっと早く気づけば、こんな事には」
「え… アンナは…? そういえば、あの子はどうなったの…!?」
「申し訳ございません。アンナが地下に牢獄された姿を最後に、以降は私もまったく」
「そんな」
聖子は大きく項垂れた。
先の末路が全く見えない、恐怖と常に隣り合わせの生活だと思うと、生きた心地がしないのだ。しかも、アンナはその犠牲になった――かもしれない。聖子は小さく嘆いた。
「私が今後も、聖治を抱えながら… 外を回る公務を、ずっと押し付けられている間に… 礼治が、この先どうなるのかと考えると… 凄く、怖くて…」
「誠に、申し訳ございませんでした。教育長として不甲斐なし。私エダ、教育係失格です」
「ううん。エダは、こんな事になるなんて、思ってもいなかったんでしょ? だから、自分を責めないで。でも… 私これから、もう、どうしたらいいのか… 父に電話しようものなら、すぐに、監視されるだろうし」
聖子の瞳が、輝きを失っていく。エダは、何かを思い出したようにこう訊いた。
「あの。こんな時に、不躾なことをお伺いしますが聖子様。それはお電話以外にも、連絡の手段はございませんでしたでしょうか? 例えば、手紙や、ポケットベルなど」
「無理よ。だって手紙だったら、送付前にまず、外交官に一度目を通されるし、ポケベルなんて圏外だわ。ここから、日本には届かないもの」
「さようでございますか。そういえば、聖子様の故郷では今、学生を中心にポケットベルが流行しているようですね。数字を入力し、お相手にご自分のお気持ちを伝える機械だと」
補足すると、この日は1990年1月ころの出来事だ。
日本ではバブルが崩壊し、競馬がブームに。国外ではドイツ・ベルリンの壁が崩壊したのち、東西統一が実現した年でもある。そんな中で、ポケットベルも大流行した。聖子はそのポケットベルに触れた事があり、愛用していた世代なのである。英治と結婚するまでは。
「…あのころに、戻りたい」
聖子はそういって、この先の未来に絶望した。もう、逃げ場がないからだ。
エダは、それでも少しでも聖子を元気づけようと、別の話題へ逸らそうとしてくれているのだろうか。するとエダはゆっくり立ちあがり、部屋を出る前にこういう。
「私も、ポケットベルの流行にあやかり、相手に数字で伝えてみたく、ご興味が湧いております。表向きは数学ノートで、そこに書き写した表の中に、実は合言葉が隠されている。それも、相手に伝わるまで、何度も何度も――。青春ですね。この国では、普及していないとの事ですが… ゴホン! 長話をしてしまい、大変失礼致しました。では、私はこれで」
そういって、エダは今度こそ一礼し、部屋を後にしていった。
1人部屋に残された聖子は、ふと思った。なぜ、エダは突然“ポケットベルの話”を?
数学ノートに、表を書き写して、その中に数字の合言葉? それって、どういう…。
「!!」
聖子は気がついた。そうか! だからエダは態々この状況下で、そんな長話を!
そうと分かれば、聖子が出来る事はただ1つ。聖子は全身小さなケガだらけになりながらも立ち上がり、ベッドの横にあるシェルフのレターセットに手をかけた。そして定規を持ちながらペンを走らせると、彼女は自身のケガも忘れ、スラスラと数字を書いていった。
――そういう事ね…! ありがとう、本当にありがとう、エダ! 私に、実家の父に助けを求められる方法を教えてくれて! これなら、確実に外交官に意図を気づかれないわ!
4949。0103 2 11014。0110 2 5106 56306。106 501 0271…
ここは荒樫国、カリブ海に浮かぶ小さな島国だ。日系人が多い場所とはいえ、日本からはだいぶ離れているから、日本のカルチャーには疎いはず。聖子はそれを頼りに、数字の語呂合わせで――表向きは実家に宛てる財務諸表の書き方例として――手紙を送ったのである。
礼治への、極端な虐待は、今回のトラブルを期にひとまず無くなりそうである。
だが、その後はどうなるのか… そんな、何をするか分からない暴君を刺激しないよう、聖子は悔しくも彼に頭を下げるしかなかった。
だが、ずっとこのままでいるわけにはいかない。聖子は、父に想いが届く日を信じた――。
【第4節につづく】
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