エピローグ 市岡稟市

 四ツ谷の関東玄國会事務所の一室を燃やしてからの記憶がほとんどない。気が付いたら自宅のベッドに倒れていた。血、返り血、自分の血、それにたくさんの燃え滓、塵、他にも出所の分からないたくさんの汚れに塗れたスーツからは嫌な匂いがした。自分を家まで送り届けてくれたのは弟のヒサシだろうと想像だけはできた。

 ベッドの上に腰掛け、緩慢な動きで服を脱ぐ。ジャケット。ネクタイ。シャツのボタンを外すのが億劫になって、上から三つ、一気に引きちぎった。どうせもう捨てるのだからどうでもいい。スラックスと靴下を脱ぎ、すべて床に落として足の先で部屋の隅に寄せた。溜息を吐く。と同時に咳が出た。口の中に嫌な味の唾が迫り上がる。手洗いまで走る気もなく、寝室のゴミ箱に咥内に溜まるモノを吐いた。唾だ。血が混じっている。別に具合が悪いわけじゃない。この血は稟市のものではない。

 壁を伝って寝室を出る。リビングのソファでは一緒に暮らしている黒猫が眠っていた。

「おはよう」

 今が何時なのかは分からない。掠れ声で言えば、ナア、と黒猫はそっけなく応じた。


 シャワーを浴びて、リビングに戻る。ソファの上に放置してあったスマートフォンを手に取ると、法律事務所の共同経営者である友人──彼は一般的で、普通の人間で、そしてとても優秀な弁護士だ、人柄も良い──からテキストメッセージが入っていた。事情はヒサシから聞いた、ゆっくり休めということだった。ありがたい。できれば1週間ぐらい休息を取りたい。もう何もしたくない。何も考えたくない。誰にも会いたくない。

 メッセージの日付を見ると、四ツ谷でのあの乱闘から僅か1日しか経っていないとのことだった。信じられない。

 部屋着に身を包み、黒猫の隣に座る。体がさっぱりしたお陰か、また眠気が襲ってくる。寝てしまおうか。

 そんな折だった。玄関の鍵が開く音がした。

「あ、」

 入ってきたのは、実父、市岡さくだった。

「よう」

 片手に菓子折りのようなものを提げた父は、息子にかけるにしてはどこか他人行儀な、それでいてフランクな、なんとも言い難い声を出した。

「起きてたのか」

 両親にはこの部屋の合鍵を渡している。弟は持っていない。ソファから腰を上げようとしたら、座ってなさい、と父は言い、菓子折りを食卓テーブルの上に置いて戻ってきた。そうして床にあぐらをかく。彼はそういう男だ。

「終わって良かった」

 無事に、とは父は言わない。無事ではなかったと分かっている。

「面倒だったよ」

「そうか」

「あの人たちには当分関わりたくない」

「ヤクザか」

 話が早い。父は肩口でゆるく結んだ黒髪の先端を弄いながら呟く。

「お父さんだって知ってるでしょ、俺に何が見えてるのか。あの人たちは本当に最悪、ヤクザ──岩角遼、山田徹、どっちも果樹園に引けを取らない殺人鬼だ。特にあの岩角って人は……」

「生かしておいては、いけない?」

 言い淀む息子の顔をじっと見上げながら、父が言った。鋭く息を呑んだ稟市は、隠しておくこともできないなんて、と弱々しく笑う。

「お父さんは読心術でも使えるわけ」

「俺に何もできないと、おまえたちがいちばん良く知ってるんじゃないのか」

 市岡家、狐憑きの一族。その能力は女性にのみ宿る。血のつながりに意味はない。市岡の名を冠した瞬間──たとえば入籍、たとえば養子縁組、たとえば出産によるこの世への誕生──すべての女性に見る力、祓う力、そして狐を式としてあやつる力が与えられる。市岡さくは市岡家の血を引いていない。彼は養子なのだ。逆の妻である凛子りんこは能力を持っているが、彼女も逆と大学で知り合い交際、その後結婚に至ったというだけのごくごく普通の女性で、市岡家に関わるまでは幽霊や妖怪、それに似た怪異やいわゆる怖い話というものにも一切縁がなかったという。

 過去幾度も『市岡』という一党の血は途絶えてきた。その度に市岡は養子を迎えたり、外の人間には知られぬよう当主と呼ばれる存在(そう、能力はないのに市岡家の当主はつねに男性だった、なぜか)に複数名の女を当てがったりして、『市岡』を維持し続けてきた。


 だが、男性に完全にその能力が宿った例は過去にない。稟市とヒサシが初めてだ。8歳歳が離れているふたりのあいだには、本来ならばもうひとりきょうだいがいた。稟市の妹であり、ヒサシの姉であった女性。弦儀つるぎは数えで7歳になったその日に死んだ。狐に摘み取られたのだ。


 死んだ娘が持つはずだった能力が、ある時突然稟市の中に芽吹いた。見る力、祓う力、そして狐を式としてあやつる力。稟市はすべてを見た。この世の悪徳すべてを。この世に未練を残して命を奪われた魂が大挙して稟市に縋った。まだ少年だった頃の稟市は本当に気が触れてしまいそうになった。恐ろしかった。ひとりひとりすべてなど、救えるはずもない。また、この世のものではない存在に心身を蝕まれる者たちも稟市に縋った。呪いだ。人が人にかける呪いが人を殺す。壊す。溶かす。呪いを叩くには狐を使うしかなかった。狐もまた呪いのひとつだ。式神。純白の毛皮を持つ狐は遥か昔高名な陰陽師によって捕らえられ、土に埋められ十日、首を刎ねられ四辻に埋められ四〇日、そうして立派な呪いとなった。神なんて名前だけだ。あれはけものだ。人を憎み呪い恨み続けるけものだ。狐をあやつるようになって稟市は初めて知った。この狐は雌だ。孕んでいた。腹の子どもごと命を奪われて、術をかけられけものではない何か別の──神なんかじゃない、にされて。それを操り人間が人間の呪いを祓う。傲慢だ。狐は市岡を許さない。狐憑きの市岡は狐を操り他者を救う一方で、式神、道具である狐に呪われている。市岡という家が完全に滅びるまで、この呪いは決して解けない。


「岩角も山田もひどいけど、あの喫茶店のマスター」

「逢坂さんか」

「人から聞いてはいた。元殺し屋だって。1000人殺した伝説の男だって」

 でも。と稟市はくちびるを噛み、短い沈黙の後唸るように言った。

「1000人? 冗談だろ。だよ」

 逆が形の良い眉を跳ね上げているのが見える。すぐに理解できる話ではあるまい。端から見た逢坂一威は人当たりの良い好々爺で、コーヒーも旨いし、おしゃべりも楽しい。見た目も爽やかで、銀色の蓬髪を無造作に縛り、顎にうっすらと白い髭をたくわえた彼に魅了される者は多いだろう。彼がとてもとても若い頃から、そんな人間は、無数にいたことだろう。

 吐き気がする。

「半世紀も前の殺人は俺には裁けない。何せ被害者もその関係者もひとりも残っていない。こんなんじゃ弁護士になった意味がない」

「稟市」

「お父さん。俺は式神だの術だの呪いだのじゃ人間を救えないと思って弁護士になったんだ。市岡を俺の──俺とヒサシの代で終わりにしようって決めた話、もう何回もしたよね? キリがないんだよ。こんな非日常で他人を救おうだなんて。無理があるんだよ」

「稟市」

「でもね、あんな、逢坂一威みたいな化け物が出てきちゃもう駄目だ。アハハ。いや、出てきたわけじゃないか。あの人だって別に隠れていたわけじゃないもんね。殺し屋を引退するって言って、いろんなとこからバックアップを受けて、それで今は堂々と喫茶店のマスター。逃げも隠れもしていない。昔自分が殺した人間の家族に詰められれば、裁判を受けるぐらいの覚悟はあるんだろうな。アッハハハハハ。でも誰もあの人を詰めたりしない。あの人は本物だ。あの人は本物の、正真正銘、どこに出しても恥ずかしくない完璧な人殺しだ。果樹園なんてメじゃない。あんな、あんな、恐ろしい──」

「稟市!」

 気付くと、すぐ目の前に父親の顔があった。いつの間に床からソファに移動してきたのだろう。父の膝の上には黒猫が丸まっている。いやだなあお父さん、猫の居場所を奪うなんて、

「落ち着きなさい」

「落ち着いてる」

 目の焦点が合っていないと自分でも分かる。今俺は何を見ているのだろう。誰と喋っているのだろう。天井を見上げる。狐がいる。白い狐が俺を見ている。嗤っている。嗤っている。嗤っている。

「落ち着いてない。おまえはきちんとやるべきことをやった。そうだろう」

 父親の体からは煙草の匂いがした。ここに来る前にあの喫茶店に寄ったのだろうか。きっとそうだ。そうして電車で移動して、駅前の喫煙所でも一服したのだろう。俺たちきょうだいが揃ってチェーンスモーカーなのは、お父さんのせいだ。

「怖かった」

 愚かでごめんなさい。愚かな人間のくせに、誰かを救えるなんて思ってごめんなさい。狐に謝りながら、稟市は言葉を吐き出す。

「そうか」

「市岡は狐を騙して式神にしただろ」

「ああ」

「あいつらは違った」

「つまり?」

「枇杷という娘と、無花果という少年、それに、ふたりに力を分け与えた苔桃という少年。

「うん」

 そんなことは、通常有り得ない。犬神も、狐も、けものを素材にする時はいつだって騙し討ちだ。今からおまえを土に埋めます、十日間飲まず食わずで苦しめた上首を刎ね、その首を土に埋めてできるだけ大勢の人に踏ませます、その後おまえは神になります、なんて勝手なルール、けものだけじゃなく人間にだって受け入れられるはずがない。

 だがあの無花果という少年は受け入れた。受け入れた上で神になった。枇杷と無花果。彼らはあの時、関東玄國会本部の一室を火の海にしながら舞う彼らは確かに一心同体だった。勝てない、と思った。ああ俺はここで負ける。なぜなら俺と狐のあいだには、彼らのような信頼関係がない。思い合っていない。お互いのためになら死んでもいいなんて、これっぽっちも思っていない。

「ヒサシが狐火にブーストをかけた」

「あいつ、そんなこともするのか」

 父親が呆れ声を出す。無理もない。稟市には市岡家の基本能力が備わっているが、ヒサシは違う。市岡氷差という生き物自体が例外なのだ。彼は神を殺す。作られた神とはいえ式神を遣う市岡という家に、神殺しが生まれるなんて有り得ない。彼は鬼っ子だ。反則で、例外で、もしかしたら、

「首を割ったのもヒサシだ。お父さん、俺は何の役にも立ってない」

 ホームセンターで買える類のバールをぶん回し、逢坂一威を守りながら狐火を放ち、その後神としての存在意義を全うした無花果にとどめを刺した、ヒサシ

 あいつ市岡氷差はいったい何者なんだ。

「稟市」

 逆が膝の上の猫を抱き上げ、息子の腕に預ける。

「もう終わった。ゆっくり休みなさい」

「……お父さん」

 本当にそれでいいの。本当に? 真実を追求する必要はないのか? 果樹園というのは結局なんだったんだ? 果樹園が放った神のなり損ないのせいで何人の警察官やその関係者が死んだのか、お父さんは知らないのか? 冷静ではいられないほどの人数が、彼らには何の関係もない呪いに巻き込まれて命を落としたというのに、その後始末をする必要はないのか? そもそも諸悪の根源であるヤクザたちを野放しにしていいのか? 彼らはヤクザである以前に人殺しなのに、堂々とお天道様の下を歩かせていいのか? 引退したなんて与太を飛ばしながら平気で人を殺す喫茶店店主に対して素知らぬ顔を? 神は? 神はどこにいる? 

「いいんだ」

 やって来た時と同じようにふわふわとした足取りで父は玄関に向かう。

「終わったことをどうこう言っても仕方がない。今はゆっくり休みなさい、稟市」

 さくが帰ったら俺は泣くのだろうと稟市は思う。

 声を上げて、子どものように泣くのだろう。

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