終章
エピローグ 池袋 メイドビル
「おっ! 勘違いで襲撃された宍戸さん!」
「本当に災難だったな」
「猫に命を救われた宍戸さん!」
「いい猫と暮らしてるんだな」
「ふたりともちょっと表出ろ。殴る」
季節はすっかり夏だった。市岡ヒサシは池袋にいた。適当に入ったチェーンの居酒屋から山田徹に連絡をしたらもっといい店があるから出ろと命令され、水割りを二杯、焼き鳥を5本食べてすぐに場所を移動した。いけふくろうの前で山田と合流し(この暑いのにマスクを含めて全身黒尽くめにサングラスまでかけた山田は人混みの中でも異様に目立っていて、声をかけるのが嫌だった)、護国寺方面に向かって歩いて数分、一階から六階まで全部メイドカフェ及びメイド関係の店が入っているビルの七階に連れ込まれ、気でも狂ったのかと思ったがエレベーターで向かった最上階はバーテンダーがひとり立っているだけの静かなクラブだった。客も、山田とヒサシ以外誰もいない。
ふかふかのクッションに腰を下ろし頼んでもいないのに運ばれてくる酒を迷わず飲み干しながら、宍戸クサリに待ち合わせ場所の変更を知らせる。地図アプリのスクショを送ったら「狂ってんのか?」と返信がきた。まあね。建物名『メイドビル』になってるしね。ちなみに正式名称ではない。
七分丈のTシャツ(刺青隠しだ)に太めのデニム姿の宍戸クサリには、事件の概要は既に説明してあった。説明に行ったのは兄の稟市だ。
「いや〜、無事生きて合流できて何より何より!」
かんぱ〜い! とグラスを掲げるヒサシの右手にはまたしてもぐるぐると包帯が巻かれている。あの日、四ツ谷の玄國会本部事務所でヒサシの右手の皮膚を構築する細胞たちがどうやら完全に死んだ。いや死んではいないのかもしれないけれど、とにかく回復が遅い。お風呂で体を洗うだけでも激痛が走り、全裸でのたうち回りそうになる。まあ今はヒモ業に復帰して体も頭も一緒に暮らしているおねえさんたちに洗ってもらっているからまだ良いのだけど。
「俺だけ勘違いって、本気かよ」
「だって
「無花果ってのは」
「首を刎ねられたガキだ。
山田が注釈を入れる。酒に加えてどんどん出てくるつまみ(肉が多い)を口に放り込みながら、宍戸が「あ゛〜」とひび割れた声を上げた。
「俺はいったいなんだったんだ……」
「ま、おまえが襲撃されなきゃうちのも本気にならなかっただろうから。必要な被害だよ」
山田が呟いた。うちの、とは。
「
半眼で尋ねる宍戸に、そうだよと山田が応じる。
「あの人神様とか呪いとか信じてねえでしょ」
「信じてないから本気でやれた。あいつの弱み知ってるだろ? 子どもだよ」
「……」
宍戸が大きく嘆息して黙る。そう。子ども。岩角遼は驚くほど子どもに甘い。今回の件に関わるまで関東玄國会若頭岩角遼の名前も顔も知らなかったヒサシでさえ、彼の
「変な質問っすけど……」
「あいつは
即答する山田に、そっすか、と呟いてヒサシは黙った。そうなのか。まあそんな雰囲気はあったけど。
あの日。無花果と呼ばれていた式神の頭蓋骨をヒサシは隠し持っていた3本目のバールで砕いた。岩角の腕の中で枇杷と呼ばれる少女は声が枯れ涙が出なくなるまで泣き、苔桃は項垂れぽろぽろと両目から雫を滴らせたまま動かなかった。それでこの事件はようやく、幕を閉じたのだ。
「宍戸さんが勘違いでぶん殴られたお陰で岩角さんは信じてない怪奇現象について調べることを決め、俺は大阪で死にかけ、山田さんは……あれっ、山田さんだけ無傷では?」
「どこがだよ。見ろこの顔、ボロボロだろうが」
チッと舌打ちをしながら山田がサングラスを外す。ひと目見た瞬間すぐに分かるほど、硬いもので殴打された痕跡が顔中にあった。ひい、と悲鳴を上げるヒサシに、
「岩角はな、ガキには甘いがそれ以外の人間には鬼なんだよ。俺のことだって喋るサンドバッグだと思ってやがる」
「ご愁傷様ですぅ」
顔を覆いながら言ったヒサシは、
「ところで、大阪で俺と山田さんのケータイ壊したのって?」
「あれは枇杷じゃない。果樹園の誰かだ」
「金属爆破能力ってメジャーなんすかね」
「知らん。ただ、それに絡めて部屋を火の海にできるほどの力を持ってるやつはそう多くないと、モモウラは言っていた」
抱えていた疑問がようやく紐解かれていく。まあ別に、ヒサシ本人は謎は謎のままで構わないと思っている方なのだが。
山田に化けてヒサシの右手を焼いたのも果樹園の誰かなのだろう。誰だかは知らない。果樹園というのはそれだけ大きな組織だったのだ。
だったのだ?
「あの山田さん訊きたいことが」
「うわー! 絶対嘘の場所教えられたと思ったら合ってた!」
ヒサシの言葉をかき消す勢いの大声が、唐突に響いた。3人揃って顔を向けたバーの入り口には、フリーライターの
「響野くん! おつ〜!」
「全部のフロアでメイドさんに捕まって大変だったんですけど……」
「遊んでから来ても良かったんだぞ」
「勝手なこと言わないでください山田さん。あっ宍戸さんご無沙汰です、その後大丈夫ですか色々」
「心に傷を負って立ち直れずにいる」
「おぉ……」
「そういえば宍戸さん咬み跡消えました?」
口を挟むヒサシに宍戸は大仰に顔を顰め、響野が両目を輝かせてスマートフォンを構える。
「見たい見たい! 咬まれた跡見たい!」
「てめえ余計なこと言うな。響野も響野だ、悪趣味すぎるぞ」
「だって、咬まれた人間はだいたい全員死んじゃったじゃないですかぁ! 生存者は貴重なんですよ、宍戸さん!!」
ヒサシと響野、ふたり掛かりでシャツを剥ごうとする若者たちを容赦なく張り倒す宍戸を微笑ましく眺めながら、
「大阪の黒松も生きてるぞ」
と、山田が口を挟んだ。
「えっ! 生きてるんすか、あのおじさん!」
「おじさんっておまえ……黒松はあれで俺よりちょい下だぞ」
「山田さんって幾つでしたっけ?」
「俺? 27歳」
「おじさんのギャグで風邪ひきそう。でも黒松さん生きてて良かったなぁ。あの人まで死んでたら俺ちょっと立ち直れなかったもん」
宍戸のシャツから手を放しながら、ヒサシがしみじみと呟く。響野はといえば丸い目を更に丸くして、
「黒松ってあれっすか? 東條組でもバチバチの武闘派っていう……あの黒松……?」
「そうそれ」
と認めた瞬間、響野が今度は山田に飛び付いた。
「紹介してください〜〜〜〜!!!!」
「なんで。やだよ」
「なんでって、なんでですか! 俺今回全然関係ないのにめっちゃ働いたのに! ご褒美ください! 紹介してください!」
「おまえねぇ……逢坂さんの孫だから殺されてないだけで、おまえぐらいぐいぐい来る自称ライター、大体全員山か海に埋められてるからね?」
呆れ返った様子の山田の物言いも、スクープの予感に盛り上がる響野には届かない。
「だって俺、逢坂一威の孫ってのが売りのアングラライターなんで! 別に隠してないんで!」
「あ、それおまえ自称してるの?」
「してますよお! してなきゃヤクザの皆さん俺みたいな若手の相手してくれないっしょ!」
「1000人人殺してるって噂の元殺し屋の孫を売りにして商売するって、響野くんほんとに心臓に毛が生えてるのね……」
とヒサシは苦笑いを浮かべ、
「おい、俺にだけ話が見えてねえぞ。誰だよ黒松って。大阪で何が起きてたんだ?」
と宍戸がくちびるを尖らせたところで、とにかく丸テーブルを囲む四つのソファがこれですべて埋まった。山田との交渉を一旦休止し煙草に火を点ける響野が、改めてぐるりと店内を見回す。くすんだ紫と灰色を基調にした店内、席数は然程多くなく、カウンター席も存在しない。
「おっしゃれ!」
「亡くなったオヤジの兄弟分の持ち物だ。今は俺が維持してる」
「下のメイドカフェは?」
「賃貸だから知らん。金さえ払ってくれれば何に使ってもいいってことにしてある」
つられた様子で煙草を咥えながら山田が言った。そうなのか、メイドビルは玄國会の、というか山田徹の持ち物だったのか……とヒサシはぼんやりと思う。バーテンダーが運んできた水を一気飲みした響野が、肩から提げていたトートバッグの中身をテーブルの端に置いた。大量の紙が綴じられた分厚いファイルだった。それも3冊。
「お金払ってくださいよ山田さん」
「全員で見るんだから割り勘にしようぜ」
「じゃ俺は見ない」
宍戸がソファに背中を預けてそっぽを向く。
「勘違いで怪我させられたせいで今月キツいんでね」
「岩角に伝えとくか? あいつなら生活費ぐらい持ってくれると思うが」
「岩角さんに養われるぐらいなら舌噛んで死ぬ」
「宍戸さんって意外とややこしメンタルの持ち主なんですね? まあいいや。俺もだいぶ無理してこの情報手に入れてきたんで、はい山田さんお金。金金金」
差し出された響野の手に殻付きのピスタチオを大量に乗せた山田は、うるせ、と吐き捨ててファイルを広げた。
「良い情報ならお買い上げ──」
妙な節を付けて呟く山田の手元をヒサシがひょいと覗き込む。途端、眉間に皺が寄る。書類の中身はモノクロの顔写真と年齢、それに名前──身元調査だろうか。
「元果樹園のガキどもだ」
山田が言い、響野が猛然とピスタチオの殻を剥ぎ始める。宍戸だけが今ひとつピンと来ない顔で首を傾げている。
「果樹園てのは、例の」
「そう。
「でもその果樹園自体は……」
シー。山田が書類を膝の上に置き、右手の人差し指をくちびるの前に立てる。
「色々あって、もうない」
もうない、の理由が玄國会──岩角遼と山田徹であるということは、この場にいる全員が承知している。
「もうないならそれでいいっすけど……果樹園ていうのは、身寄りのない子どもを何人も囲い込んでるキモ施設でしたよね?」
ヒサシの問いに山田は黙って首肯する。
「もうなくなったんなら、そこにいた子どもたちはどうなっちゃったんですか?」
「それを響野が調べてきてくれた」
「ええ! ええ! わざわざ横浜まで走ってね!」
バーテンダーが持ってきた火のように赤い酒をヤケクソのように呷って響野が喚く。
「うちは人材派遣が本職で情報屋じゃないんだけどねえって散々嫌味言われて……俺もう行きませんからねあんなとこ!」
「俺が自分で行っても良かったんだが、岩角に鉄パイプで殴られたせいで足の甲が砕けて動けなくなっててなぁ」
まるで天気の話をしているかのような明るい口調で言い放つ山田を、宍戸は完全に不気味なものを見る目で、ヒサシは可哀想な人間を見る眼差しで見詰める。山田本人は2種類の視線に特に反論をする気もないらしく、
「今はもう歩けるぜ」
「そういう問題じゃないんですよ」
話がどんどん訳の分からない方向に向かっている。軌道修正をしたのは宍戸だった。
「ともあれ、俺をぶん殴って咬みついてきたような子どもを育てていたのが果樹園なんですよね? その果樹園がなくなってしまったなら、子どもたちは」
「ん。響野がプライドを捨てて取ってきてくれた情報でだいたい分かった」
1冊目のファイルを宍戸に手渡し、2冊目を膝の上で開きながら山田が言った。
「俺らが回収した子どもは全部で約90人。そのうち児童養護施設だとか、そういった行政の世話になることになったのが70人弱」
煙草に火を点ける手を止めて、70、とヒサシは呟いた。資料を捲る宍戸の眉間の皺は解けない。誰もが同じことを思っている。数が合わない。
「100人から始まるんじゃなかったでしたっけ」
「と、いうことになってるな。果樹園は特殊能力を持つ子どもを100人集め、その中でいちばん強い能力を顕現させたひとりを使って神を作る」
トントンと手にしたファイルを叩きながら、宍戸が唸る。
「神を作るって行為自体が俺には意味不明だが、とにかく身寄りのない子どもを集めて都合良く扱っていたということだけは理解できた。虐待じゃないですか。100人中100人、なぜ全員回収できなかったんです? 山田さん」
山田は、すぐには答えなかった。煙草のけむりを忙しなく吐き出しながら、彼にしては珍しく言葉を選んでいるようにも見える。喋ってもいいですか、と声を上げたのは響野憲造だ。
「横浜の──その情報を売ってくれた人が言ってました。山田さんたちが思っているほど世の中は単純じゃないって。果樹園がなければ生きていけない子どもも存在している、って」
そう、と呟く山田の声はほとんどため息だった。
そうなんだよ。檻がなければ生きていけないけものが、この世界には多すぎるんだ。
記事にして良い範囲の情報をメモし終えた響野をはじめ、集った男たちは全員したたかに酔った。
「響野くん、その情報どこに売るの?」
というヒサシの問いに、この中ではいちばん若く酒にも強い響野は運ばれてくるグラスを次々に空けながら、
「どこでも! ホラーとヤクザなんておもしろ情報、大抵の媒体が欲しがるでしょ!」
などと満面の笑みを浮かべて手書きのメモ帳を大切そうにカバンにしまっている。ソファにだらしなく腰掛けて煙草を咥える山田は僅かに顔を顰めると、
「ホラーはともかくヤクザはもう人気ないんじゃないか? 法律も変わったし」
「そんなもんすかね」
「そんなもんであってほしいよ。ヤクザだけど実はいい人、みたいな顔するのも面倒だしな」
紫煙を吐き出す山田の隣の席で、宍戸が黙って首を縦に振っている。
「宍戸さんも同意見?」
「ヤクザを美化する風潮には一刻も早く滅びてほしい」
「過激派だ」
「一般市民としては当然の意見だろ」
酒と煙草の煙に流されるようにして、話題はどんどん変わっていく。響野の仕事。ヒサシの仕事。30にもなってヒモというのはどうなのか。山田の左腕はどこに消えてしまったのか。もう10年も前だぞと答える山田は柔らかく笑っており、あの日の玄國会本部で起きたすべての出来事が嘘であったような気が、した。
嘘ではないのに。
果樹園は存在した。首を刎ねられた子どもも。その子どもは神となり、ヒサシの兄である稟市が使役する狐と激しく喉笛を狙い合った。ヒサシは確かにそれを見た。山田も同じだろう。言わないだけで。
嘘であればいい、今だけは。
グラスを傾けながらヒサシはそんな風に思う。嘘であれば。傷ついた子どももいなければ。果樹園もなければ。巻き添えを食って死んだ人たちが本当は生きていれば。逢坂一威が拳銃を持ち出さずにいられる世の中であれば。誰が自分の生命を自分だけのものだと胸を張って生きることができれば。市岡家を呪う狐だって、嘘であれば。
どんなにか幸せに、生きていられることだろう。
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