7話 無花果

 もう15年も経つんだね。


 あの夜苔桃が僕の首を刎ねてくれたから、僕は呪いにならずに済んだ。僕が神様のうつわじゃないってこと、おとなたちはみんな知っていたんだと思う。でも壺の中の誰よりも優秀で、誰よりも従順だった苔桃が、初めて反抗をしたから、僕は見せしめで土の中に埋められた。


 だくだく血を流す僕の首を抱え、わんわん泣く枇杷を背負って苔桃が空が白くなるまで走り続けた。今でも覚えている。あの時僕は死ななかった。苔桃の能力だ。苔桃は僕をあの場で死なせようとしなかった。苔桃に殺されるなら僕は別に本望だったのだけど、だってさっき言ったでしょ、僕は苔桃の笑った顔が少し好きだったんだ。

 果樹園から随分離れた頃、苔桃の体力が尽きてしまった。僕と枇杷と苔桃は閉店したお店──だいぶ経ってからもともとはコンビニで、その後コインランドリーになるために閉まっていた建物なのだと知ったのだけど──の窓を割って中に入り、苔桃と枇杷はコンクリートの床の上で少しだけ眠った。僕は起きていた。それに、生きていた。

 苔桃は本当にちょっとしか眠らなくて、目を覚ますなり首だけになった僕を抱きかかえてごめんねと言った。きみがこんな目に遭ったのは私のせいだ。ごめんね。苔桃は何も悪くないよ、と言いたかったけど舌が回らなかった。埋められているあいだに灰色になって長く長く伸びてしまった舌では、苔桃を慰めることも励ますこともできなかった。無花果、きみはどうなりたい? と苔桃は尋ねた。思えばあの頃彼も僕もまだ5つや6つの子どもだったのに、なんであんな大人びた会話が成立したんだろう。不思議だなぁ。僕は「ふたりと一緒にいたい」と縺れた舌でどうにか伝えた。いや、伝えた、というか、苔桃が読み取ってくれたんだよな。そうか。と苔桃は言って、彼の能力を少しだけ僕に分けてくれた。僕は神様にはなれなかったけど呪いにもならずに済んで、生きている生首に、なった。


 僕と苔桃と枇杷は、苔桃の能力を頼りに色んな土地を転々とした。苔桃は人間の脳を操ったり、記憶を消したり足したりすることができたから、僕たちは常に誰かの娘や息子や孫になって、命を繋いだ。そうして、本当に色んなところに行ったんだよ。果樹園は東京の片隅だったけど、関東一都六県は全部回ったし、それから飛行機に乗って北海道、かと思えば沖縄、四国、中国地方、枇杷は飛行機がお気に入りだったけど僕は新幹線の旅の方が楽しかった。だって、飛行機だと僕は手荷物扱いになってしまうんだもん。新幹線なら、みんなで窓の外を眺めていっぱいおしゃべりができた。

 果樹園で取り上げられてしまった枇杷の能力も、苔桃が埋めた。視力を完全に取り戻すのは無理だけど、失った眼球の代わりを仮初の親(義眼を作る会社に勤めている人だった)に作ってもらって、枇杷はようやく笑えるようになった。それで、そう、枇杷はね、すごいんです。見る力を失う前に、犬神の作り方を心得ていたんですよ。まだほんの子どもだって言うのにね。壺の中にいた頃、僕たちが最後の5人だった頃、枇杷はひとりコツコツとを作っていた。もちろん犬とか狐とかそういう大きな材料は簡単に手に入らないから、バッタとか、コオロギとか、他にも色々な──虫を拾ってきて、術を施して。ふつうの人間をただ殺すだけなら、そういう小さな神様でも全然事足りるんです。最後の5人の最終試験の時、枇杷はそうやってポイントを稼ごうとしていた。でもそれが仇になって、あんな目に遭ってしまったんだけど……。分かるよね? 枇杷は自分で神様を作ることによって、自分たちの行く末を知ってしまったんだ。それは、果樹園にとって好ましいことじゃなかった。


 ともあれ、元気になった枇杷はまた神様を作ろうとしていた。別に誰かを殺そうってんじゃない。誰に命令されたわけでもない。枇杷は自分がいちばん得意とすることを続けようとしていた、それだけだった。

 それで苔桃が言ったんだ。それなら無花果と一緒にいなさいって。無花果を完璧にしてあげなさいって。僕としても異論はなかった。ただの呼吸するだけの首でいるより、枇杷が作る神様の材料になれるなら、僕はすごく嬉しい。果樹園で下手な呪いにされてしまうよりよっぽどいい人生だったって言い切れると思った。


 枇杷と僕は一緒にいる時間が長くなった。枇杷は丁寧に丁寧に僕に術を施して、僕という中途半端な首を理想の神様に仕上げていった。神様作りにかけてだけは苔桃よりも枇杷の方が秀でていたから、苔桃は口出しをしなかった。その代わり、15歳になった途端僕と枇杷を連れて居候先親元を出て、小さなアパートを借りてしまった。15歳の苔桃は、自分の外見を20歳ぐらいに上書きした。枇杷と僕というきょうだいを養っている若い兄という設定で部屋を借り、色んな仕事を転々とした。そんなことをしなくても能力を使えば生きていける……と思ったけれど、苔桃には実はもうあまり力が残されていなかったんだよね。枇杷と僕に分け与えてしまったから。

 だから枇杷と僕はいつも苔桃の近くで、彼の身を守った。3人きょうだいのふりを暮らし始めて最初の頃はまだ良かったんだけど──苔桃が関東玄國会というヤクザの仲間に入ってからは、危険なことがたくさん起きた。勘付かれてしまったんだよね。果樹園に。僕たちが生きているって。


 でもだって僕たちだって知らなかったんだ。果樹園に呪いや殺しの依頼をするヤクザがいっぱいいるなんて。


 果樹園の神様──もう神様なんて呼びたくないな。果樹園のボスのあの人は苔桃を殺すために色々なことをした。壺の中で一緒に過ごした連中もたくさんやってきて、僕たちを殺そうとした。全部返り討ちにしてやったけど。その時にはもう僕は枇杷お手製の神様として完璧で、最後の5人にも残ることができないやつらなんて敵にもならなかったから。


 椰子が来た時にはさすがに焦った。あいつは苔桃よりは弱いけど、僕と枇杷とは同じぐらいの力を持っていたから。それに椰子は果樹園でそれなりに大人になって、学校にも通ったりして、僕たちよりも人間のふりがうまかったから、苔桃と同じ組に入って偉い人の運転手になったりしてね。隙がなくて困った。けれどあいつには交際してる女の子っていう弱点があったから、枇杷がその女の子のふりをしてあいつの部屋の扉を開けさせて、僕が飛び込んで──あとは分かるでしょ。言わなくても。


 


 ええっと、宍戸さん? とかいう弁護士の人については申し訳なかったと思ってる。あれは僕たちの勘違いだったんだ。椰子が現れたことで、果樹園以外の殺し屋が動いている可能性もあるなって思ってしまって。あの……宍戸さんって人、顔が怖かったから。枇杷も「絶対にあいつ殺し屋」って言うし、僕もそうかなぁって思っちゃって。殴ったのは枇杷。咬んだのは僕。ごめんなさいでした。あ、おうちに戻った時に聞こえたっていうけものの鳴き声も枇杷の仕込みです。色んなことが終わるまで関与してほしくなかったから。でも途中であの人の部屋の中にいた猫と、髪の長いおじさんに邪魔されちゃった。猫はともかく、あのおじさん誰だったんだろう?


 八朔は災難だったよね。椰子より少し力が上だったから、あいつも無理やり神様にされた。本当は、7歳より年が上になったやつを埋めるのはだめなんです。ルール違反。神様にも呪いにもなれない、もっと中途半端な化け物になっちゃう。でも果樹園のあの人はそれだけ必死だったんだろうな。八朔を神作りの庭に埋めて、きっと10日も経たないうちに首を刎ねた。化け物になってしまった八朔は本当なら苔桃を追わなくてはいけなかったのに、なんでか大阪に行っちゃった。なんでだろう? 僕たちが大阪で暮らしていたことがあるから、匂いが残っていたのかな? 八朔が関西の、東條組に所属してたというのも苔桃の上書きです。ほんとは。あそこで死んだのは、化け物の八朔。あの首に触れた警察の人たちも結構亡くなったって……僕たちが悪いわけじゃないけど、ごめんなさい。ちゃんと戦えれば良かったな。そうしたら僕が八朔を食い千切ってやったのに。


 苔桃には、もう本当にあんまりたくさんの能力は残っていない。僕たちのせいです。無花果と枇杷を生き残らせるために、苔桃はどんどんふつうの人間になっていった。だからどうか苔桃を責めないでくれませんか。僕たちのおにいさん、苔桃のことを。


 3人でアパートで暮らしている時がいちばん楽しかった。苔桃は自転車を漕いでバイト先に、枇杷も白い杖を片手に散歩に出かけて、僕は家でふたりが帰ってくるのを待っていた。暮らし始めた時は僕は白い箱に入れられて部屋の奥の方に隠されていたんだけど、枇杷の術がようやく完成して誰にも僕が首だけだって分からなくなった記念に、枇杷がリサイクルショップでカゴバッグを買ってきてくれたんだ。ちょっとくすんじゃってるけど白いレースと、あとパール? 本物じゃないと思うけど、つやつやの真珠で飾られた可愛いバッグ。その可愛いバッグに入った僕を、晴れた日はいつも苔桃が窓辺に吊るしてくれた。窓辺からは色々なものが見えた。静かな普通の街だった。学校に向かう子どもたち。スーツ姿で駅の方に走っていくおじさん。立ち話するおばあちゃんたち。犬の散歩をする女の人。みんなの生活を、僕は半分寝ながら見守っていた。

 やがて夕方になるとまず枇杷が、それから苔桃が帰ってくる。ふたりはいつも僕に手を振ってくれた。周りの人には僕は体の弱い末の弟ってことになってたから、そうやって手を振っても誰もおかしいなんて思わなかった。僕たちは幸せだった。ああ。本当に幸せでした。


 苔桃が僕にかけたいちばん大きな術。それは、死ぬまで僕が僕でいられるっていう術だった。果樹園で首を刎ねられた子どもは、神になったとしても、呪いになったとしても、自分が自分であることを忘れてしまう。ただ、術者に命令されて人を殺したり食らったりする、そういうになってしまう。でも苔桃に助けられ、術者である枇杷と一緒にゆっくりと時間をかけて、力を分け合いながら完成した僕は、今、この瞬間も尚僕でいられる。もう間もなく消えてしまうけれど、ああ、泣かないで枇杷、その人は優しい人でしょう。良かった。大事にしてもらうんだよ。苔桃。悲しい顔をしないで。僕は苔桃の笑った顔が少し、ううん、大好きだった。


 人間を材料に神様を作るなんて、本当にどうかしているよなぁ。それに流されてしまった僕たちも、子どもだったとはいえもうちょっと賢くなるべきだった。もし生まれ変わりなんてものがあるのなら、僕はもっと強い人間になって、今度は苔桃と枇杷を僕が守るよ。絶対。約束だよ。


 ねえ。こんなことを言ったら怒られるかもしれないけど、僕は今、ほんとに嬉しい。見せしめで埋められた僕が、本当は苔桃よりも弱い僕が、持って生まれた能力を奪われてしまった枇杷が、あんなに泣き虫だった枇杷が、最後に狐の神様と戦うことができたなんて! ねえ、これって奇跡なのかな? 僕たち一生懸命生きたから、誰かがご褒美をくれたのかな? 狐の神様も式神だって知ってる。でも同じ式神でも僕よりもずっと格上で、本当の神様に近い。綺麗な白い毛皮の狐。戦ってくれてありがとう。


 ねえ。神様。バールを持った神様。僕の頭蓋骨を粉々にした神様。僕はあなたを恨まない。殺してくれてありがとう。さようなら。神殺しの神様。神様。神様。神様。最後のお願いを聞いてくれませんか?


 僕の大事な苔桃と枇杷が、一生幸せに生きていけますように。

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