6話 市岡氷差

 稟市が頭上に掲げる右手をぐっと握る。運動部が気合を入れる時のポーズみたいで、こんな時なのに可笑しい。折られた小指がズキズキと痛むし部屋の温度はどんどん上がるし目の前に転がっている2本のバールはどろどろと溶け始めているしけものの声はうるさいし金属音みたいなやつも止まらないのに、なぜだかヒサシはげらげらと声を上げて笑っていた。笑いすぎて涙まで出てきた。

「きつね」

 兄の声だけが奇妙に鮮明に響いた。ケーン、と甲高い鳴き声がした。


 目の前にひらりと純白の毛皮。我ら狐憑きの市岡、これこそが本領。


 先刻バールでかち割ったはずのけものの首が灼熱地獄にも似た部屋の中でむくむくと蘇り始めている。逢坂にも同じ景色が見えているのだろうか。確認する隙がない。けものが逢坂を狙ったら、ヒサシは体を張って彼を守らなくてはいけない。いぬのようにもおおかみのようにも見えていたけものの首。だが、再生する首は、見誤りようがないほどに人間のそれだった。

 稟市が右手を胸の高さまで降ろし、ヒサシからは良く見えないけれど何やら変なふうに指を動かしているということが分かった。印、とでも言えば良いのか。市岡家の秘術だ。技だ。狐憑きの市岡は純白の毛皮を持つ狐の式神を遣う。苔桃の手を借りて立ち上がった岩角と、その正面に仁王立ちになる稟市のあいだで、狐と首が互いの喉笛を狙い絡み合った。


 人間の首。人間の首か。


 果樹園とは、本当に罰当たりな集団だ。動物を殺して式神を作るのもなかなかに倫理に反しているとは思うが、人間、それも年端も行かぬ幼子を騙くらかして首を刎ねるなんて、常人の発想ではない。狂っている。

 がっ、と稟市がひび割れた声と共に床に唾を吐く。血が混じっている。立ち尽くしている場合ではない。やれることをやらないと。

 ギギギ、ギギギの繰り返してヒサシにはもうほとんど音が聞こえていなかった。稟市のことは分からない。狐をあやつる兄の動きは実に優雅で、ステップを踏んで踊っているようにさえ見える。稟市は稟市の世界にいる。ではその不肖の弟に、できることは。

 つま先を丸め、もはやバールとは呼べない鉄の塊をふたつ、それぞれ部屋の左右に向かって蹴飛ばした。熱い。靴下が焼けて破れた。

 市岡、と誰かに呼ばれたような気がした。逢坂だろうか。山田だろうか。どっちでもいい。


 神殺しには呪文がない。祝詞もない。武器もない。

 体があれば、それでいい。


 しゃがみ込む。畳に広げた右手を当てる。何をしている、と叫んだのは岩角だ。こっちを見ている。視線を上げて、少し笑った。

(おまえを殺す)

 用いる言葉は強ければ強いほどいい。望みが叶った際の反動も大きくなるが、そのためにこの身がある。兄よりも背が高く、頑健で、ふだんは女を抱き飯を食い楽器をいじりへらへら笑いながら人生を謳歌するためだけに存在しているこの体。神を殺すことで発生する巨大な恨み、恥辱、ことを認めきれずにいるもはや神ではない残滓が吐き出す毒。呪い。それらを受け止めヒサシは生命を繋いでいかねばならない。死ぬわけにはいかない。

 右の掌からうまれた炎が、部屋の左右のバールに向かって真っ直ぐに奔る。畳の燃えるいやな匂いがする。兄は振り返らない。炎の色は青。狐火の色。

 狐を飲み込もうとしていた首が、口を大きく開いたままで動かなくなる。そうだろう。よく見えておけよ。おまえの短い生涯の中に、こんな美しい炎は存在しなかっただろうから。

!)

 ヒサシの狐火を全身に纏い、兄の式神がひと回り大きくなる。部屋いっぱいに膨れ上がった狐を兄の両手が人形師の手付きでる。狐が大きく口を開く。血の色に濡れた真っ赤な口、白く長い牙──


 銃声。


 予想をしていなかったわけではない。


 マジかよ、と兄の呻く声がして、白い狐が虚空に溶けた。同時に、炎に巻かれ肌も目も髪もすべて崩れて壊れかけていた人間の首が、どしゃりと音を立てて畳の上に落下した。

「動くなよ。手元が狂ってあんたの頭を撃ち抜いちまうかもしれねえ」

 声は、ヒサシのすぐ後ろから聞こえてきた。逢坂だ。逢坂が銃を。

 彼の視線の先には女がいた。女。少女と称しても間違いではないかもしれない。座敷の最奥、床の間の前に立ち尽くしている。肩口で切り揃えられた艶やかな黒髪、両耳で揺れる赤い鈴、薄緑色のレンズが入った丸眼鏡をかけ、膝丈の藍色のワンピースに、黒いショールを羽織っている。その裸足のつま先の少し先を目掛けて、逢坂が鉛の玉を放った。

 いつから彼女がそこにいたのか、ヒサシにはまるで分からない。おそらく。おそらくそこにいたのだ。見えなかっただけで。いや、見ようとしなかっただけで。果樹園とはそういう場所だと聞いたじゃないか。果樹園で育てられた子どもたちは果実と呼ばれる呪いになる。暗殺者となる。腐ったりんごや、みかんや、ぶどうが道端に打ち捨てられていても、誰も気にはしないでしょう? そういう存在になるんですよ。果樹園で育った子どもたちは──

枇杷びわ!」

 岩角が叫んだ。ああ、あの娘の名は枇杷というのか。気付くとヒサシの右の手のひらは焼け爛れ、べろりと皮が向けていた。痛みすら感じない。麻痺している。そのまま、すてん、と転ぶように座り込んだ。頭の上で逢坂が煙草を取り出して火を点けている。部屋の中は無茶苦茶だ。ありとあらゆる場所を狐火が舐めた。焼けていないのは岩角と苔桃が寄り添っていた場所と、兄が未だ立ち尽くしている一箇所、それに、

「山田さん?」

「おー俺の心配もしてくれるのか、優しいなおまえ」

 どうやら勝手に門番役をしているクソヤクザも無事らしい。良かった良かった。声だけでも聞けて良かった。

「おまえ、俺は、やめろと……」

 首が落ちた途端その場に頽れた苔桃をその場に残し、岩角が少女、枇杷の元に駆け寄った。そのままショールごと肩を掴んで抱きすくめ、鋭い目で逢坂を睨み付ける。

「ジジイ!」

「あー、暑い暑い。この暑いのも、あの妙な音も、それに気味の悪い首も──全部お嬢さんの仕業なんだろう?」

 わざとらしく片手で顔を仰ぎながら、逢坂が片頬で笑う。味方で良かった、と繰り返しになるが思う。この修羅場でこんな風に笑えるなんて、敵だったら真っ先に殺さねばならない人材だ。

「カシラ、カシラ」

 岩角のスーツに縋って枇杷が泣き声を上げる。

「だってあの人たちひどいもん、ひどいよ、あたし、」

「いいんだ、俺は何をされてもいい。俺は死なない」

 泣きじゃくる枇杷を背に庇い、岩角がふところに手を差し入れる。が、すぐに虚を突かれたような表情になり、

「もうねえや」

 浮かぶ笑みには自嘲のそれだ。拳銃の話だとすぐに気付く。ひとつ目は逢坂が撃ち落としたものをヒサシが回収し、なんかそこら辺に捨てた。ふたつ目も逢坂が撃ち落とし、その上鉛玉で弾き飛ばされたものが部屋の隅で熱に負け、どろどろに溶けている。

 逢坂はうっとりと微笑みを浮かべたままで、岩角に銃口を向けている。ヒサシにできることはおそらくもうない。兄もまた同じだろう。が。

「おにいちゃん!」

 念の為張り上げた声に、稟市の肩がぴくりと揺れる。振り向く白い顔には汗に濡れ、頬に黒髪がべっとりと張り付いていて、浮世絵の幽霊のようだった。

「……氷差ヒサシ、ちょっと来い」

 低い声に従い、よろよろと立ち上がる。逢坂が岩角を撃ち殺してしまってもこの際どうでもいいや、というような気持ちになっていた。ヤクザはヤクザ同士、好きなだけ殺し合ってくれ。

 全身が痛い。身体中けものに咬まれまくり、放火に使った右手がどういう状態になっているのか自分でももう見たくない。


「首だ」

 兄が言う。


 首だ。本当だ。首だ。


 兄と苔桃のちょうど真ん中に、人間の頭蓋骨が落ちていた。


「苔桃さん」

 稟市が呼んだ。

 苔桃だかモモウラだか分からないが、とにかく頭蓋骨をじっと見詰めたまま座り込み立ち上がることもできない様子の──初めに見た時は岩角より長身で恰幅の良い丸顔の若者だったはずなのだが、今は細面で青白い顔をした、下手をすればまだ10代だと言われても信じてしまいそうな少年が、震えながら顔を上げる。

「確認させてください。これが無花果さんですね。あなたが

 少年は大きく首を縦に振った。躊躇いのない動きだった。

「私が、神を、作りました」

 そうして発された言葉に、市岡稟市はわかりましたとだけ応じた。

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