4話 市岡氷差

 山田徹が、逢坂一威おうさかかずいを促した。部屋の中に入れという。リボルバーを提げたままの逢坂は大人しく山田の指示に従った。

 山田が後ろ手に障子を閉める。

「あなた方が何者なのかを私は知りませんが、あなた方にまで私が苔桃こけももであるということが知られているなんて」

 座り込んだままの岩角に寄り添うモモウラが呟いた。

「みっともない」

「モモウラ、いいんだ、ここは俺に全部任せろ」

 岩角がこんな声を出せるなんて知らなかった。少し、いやだいぶ意外な気持ちでヒサシは抱え込んだままの鉄の塊を撫でる。表現としては正確ではないかもしれないが、慈愛に満ちた声。その美しい顔立ちに相応しい、神のような、聖母のような、そんな声で岩角はモモウラに語りかける。

が関わっちゃいけない問題だ」

「でも、若頭カシラ

「いいから、」

 いいから、の先に岩角が何を続けようとしたのか、ヒサシには聞き取ることができなかった。けものの遠吠えが聞こえてきたのだ。岩角の前に立ち尽くしたままの稟市の耳にも届いているのだろう、クソ、と声を出さずに呟く兄は、しかしこの事態を想定していなかったわけではない。

「マスター」

 兄と岩角から視線を外さずに立ち上がり、そろそろと這って逢坂の側に戻る。逢坂を背にして立ち、小さな声で尋ねた。

「犬が吠えてる、聞こえますか」

「……いや?」

 一瞬耳を澄ましていた逢坂は、すぐに首を横に振る。オッケー。やっと出番が回ってきた。随分待たされてしまったが、神殺しの本領はこれから発揮される。

「マスター、俺から離れないでくださいね」

「あ?」

「だから俺から──」


 


 気の抜けた音が聞こえた。他意はなくなんとなく軽めの格好が良いなと思って着てきたレースブラウスの左肩が破れていた。肌には咬み跡が残っている。

「こういうことになっちゃうんで」

「なるほど」

 傷を示して言えば、逢坂は納得のいったようなそうでもないような顔で頷いた。彼は岩角だけを見詰めている。その必要に駆られたら、岩角を殺すつもりでいる。殺意も殺気も感じられなかった。逢坂はそういう人間なのだと、だいぶ長い付き合いではあるがようやく気付く。職業殺し屋。1000人殺した男。リボルバーの逢坂。殺しには感情なんて必要ない。


 パシュ、パシュ、パシュ


 音は止まない。けものの声も次第に近付いて来ている。稟市は黙って岩角とモモウラを見下ろしている。咬まれているのはヒサシだけ。

 タイミング。タイミングだ。

「市岡ヒサシ」

 唐突に。山田が呼んだ。

 こっちは集中してるのに勘弁してよの顔でヒサシは山田を見る。自分で閉ざした障子の前に、まるで門番のように立つ男は笑っていた。

「食われるぞ」

「わあお。山田さんもそういうの、信じるようになっちゃったの?」

「別に。でもま、この目で見ちまったからな。信じるようにもなるかな」

 目の前で誰が何をどうしたのか詳しく聞きたい気持ちはもちろんあるが、今はこの「パシュ」「パシュ」だ。山田とは後で幾らでも雑談すればいい。そのためには、この、こいつ、そう広くもない部屋の中を駆け回るこいつを、

「痛て、痛って!」

 左腕、左肩、左の手の甲、左ばっかり狙ってくる。心臓を。心臓を食い破ろうとしている。けものだから。確実に命を狩る気でいる。ヒサシは今、あまり派手には立ち回れない。逢坂をられたら面倒だから。逢坂の銃弾は、人間を殺すことができる。でもけものを撃ち抜くことはできない。

「ヒサシ、ボロボロじゃねえか」

「マスター俺が何しても絶対そこから動かないでくださいね、絶対すよ」

 逢坂が頷く気配を感じた。


 では。


 今だ。


 ベルトに提げていた工具ホルダーからつい先ほどホームセンターで購入したばかりの真新しいバールを抜き出し、ちょうど目線の高さで横に大きく振った。手応えを感じる。けものは、そこにいる。そのまま力を込めて、床に叩きつけた。

 パシュ、が唐突に止んだ。


 終わりか、と逢坂が目顔で尋ねる。分からない。相手の力量を未だ正しく読み切れていない。こちらに背を向けたままの兄、稟市は指の一本も動かさずにいる。まだ。まだなのか。


 パシュ、


 軽快な音とともに、ヒサシの左手の小指が大きく捻れた。

「んがっ」

 激痛。折られた。バールを取り落とす。足元でどさりという鈍い音。まだ終わっていない。ヒサシの漏らした苦悶の声に、稟市の肩が揺れる。だめだ、こっちを見るな。

「俺は平気!」

 叫んで、工具袋の中から新しいバールを取り出した。舐めんな。こっちはここがヤクザの事務所だということも、

 左手が使い物にならないわけではないが、武器を右手に持ち替えた。


 パシュ、パシュ、パシュ、


 そっちがその気ならと言わんばかりに今度は右側に攻撃が集中する。咬まれる前に殴る、咬まれた瞬間殴る、その繰り返し。兄は苔桃を見ている。苔桃は岩角を庇い、その岩角の手の中には──


 銃声


「ま、二丁ぐらいは持ってるよな、そりゃあ」

 逢坂が発砲した。岩角が再び凶器を取り落とす。追加の二発の銃弾で、拳銃は岩角からは遠く手の届かない部屋の端まで弾き飛ばされた。畳に片膝を付いたままでこちらを睨み上げる岩角の美貌が、これ以上もないほどに歪んでいる。

 逢坂が大きく手を伸ばす。目に見えない獣を殴り続けるヒサシの肩に腕を置き、そのまま三発続けて撃った。

 すべて岩角の膝のすぐ前に着弾した。山田が背にしている障子の向こうに、人間が集まる気配がする。無理もない。銃声が聞こえたのだ。

「入るな」

 山田が低く、しかしよく通る声で命じた。

「取り込み中だ」

 苔桃の白い手袋に包まれた右手に肩を抱かれる岩角の長い指が、目の前の弾痕をそっと撫でた。

「クソジジイ……引退したんじゃなかったのか」

「したともさ」

 回転式拳銃リボルバーに新しい弾を込めながら、逢坂は嫣然と笑った。

「これは仕事じゃない、趣味の領域だよ。引退したロートルにだって、人生を楽しむ権利はあるだろう?」

「ああ……?」

「おっと、動くなよ若頭カシラ。次はおまえの可愛い苔桃ボーヤをやっちまうぞ」

 逢坂は愉しんでいた。味方で良かった、とヒサシは内心舌を巻く。天性の人殺し。その時がきたら喫茶店の常連客であり、今は味方のヒサシのことさえ背中から撃つだろう。こんな人間を野放しにするなんて、この国はいったいどうなっている──


 来た


 見えた。岩角と逢坂のやり取りの隙間に身を隠すようにして、けものがこちらに牙を剥いていた。

 こいつはたしかに神様だ。首だけになっても尚獲物の命を食い千切ろうとするなんて。


 畳を蹴る。跳躍。首だけの神様よりも高く。けものよりずっとずっと高いところまで。バールを振り上げる。

 神殺しには呪文がない。祝詞もない。必要なのは意志だけだ。

 得物を一直線に振り下ろす。バールが畳に突き刺さる。

 けものの頭が、目の前で粉々に砕けた。

「ッ!」

 苔桃が何かを言いたげに口を開閉している。それを稟市が右手をひらりと揺らして制する。

「何も言わないで。もうおしまいです、」


 


 音がした。今度は逢坂にも聞こえたらしい。ヒサシより少しばかり小柄な老翁が、眉を顰めている。


 ギギギギ


 ヒサシはこの音を知っていた。ヒサシだけではない、これは──

「……るっせえな」

 山田が呟いているのが聞こえる。これっぽっちも動揺していない。そうか。彼はもうこの音の主を知っているのか。


 ギギギギギギ


 ギギギギギギギギギギギギ、ジジッ、ギイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ


 室温が上がる。手にしているバールが火で炙られているかのような熱を孕み、思わず投げ捨てていた。同じタイミングで逢坂が引っ提げていたリボルバーを床に落としたのが分かった。

「──

 女の声だった。

「なんで、なんで、なんで邪魔するの、なんで!?」

「やめろ!」

 叫んだのはヒサシでも稟市でもなく、蒼白になった岩角だった。苔桃は諦め切ったような表情で目を伏せている。

「やめろ、聞こえないのか!? 今すぐやめろ!!」

!!」

 岩角の声を無視し次第に甲高くなる女のその声はやはりけものじみていて、逢坂さん耳塞いで、と叫ぶヒサシは己の左耳の鼓膜が弾けるのに気付く。

!!」

 稟市が静かに右の手を翳す。彼もそれなりにこの音と吠え声によってダメージを受けているはずなのだが。

 真っ直ぐに上がる腕、大きく広げる手のひら。稟市はどうやらそのど真ん中に反響するけものの声を受け止めている。そうでなければ、ヒサシが受ける被害が鼓膜一枚で済むはずがない。

 ヒサシはさっとしゃがみ込んで逢坂の拳銃を拾い、指示に従って両手で耳を塞ぐ老翁の上着のポケットに未だ熱を帯びる鉄の塊をねじ込んだ。


「あんたたちなんか」


 女が、けものが、吠えた。


「全員噛み殺してやる」

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