3話 山田徹

「どうして、私だと」


 岩角と山田、そして岩角の運転手であるモモウラは神楽坂のマンションにいた。岩角はソファに腰を下ろし、山田はキッチンで立ったまま酒、モモウラは岩角の目の前の床に正座をしていた。咥え煙草の岩角が、そうね、とくぐもった声で呟く。

「そっちの木偶の坊が珍しく有益な情報を持ってきてくれたんだ。果樹園。呪いを使って人を殺す殺し屋集団? あんまり馬鹿馬鹿しくて笑っちまったんだが」

 木偶の坊呼ばわりされた山田は肩をすくめ、片手で味のよく分からない酒を炭酸で割る。この部屋で、あまり酔うつもりはなかった。

「調べてみたらどうも御伽噺の世界の悪役ってわけじゃなくて、この令和の世の中に実在しているという。そいつ曰く──」

 と、岩角は山田を顎で示し、

「果樹園の殺し屋にはルールがあるんだとか」

 モモウラは果樹園について肯定も否定もしない。顔を俯けたままで黙っている。

「ひとつ、名前に果物の音が付く。そしてもうひとつ」

 岩角が席を立つ。座り込んだ運転手は微動だにしない。モモウラの目の前に前にしゃがみ込んだ岩角が、口調の割に穏やかな手付きでモモウラの右腕を掴んだ。

 モモウラはこの蒸し暑い初夏の夜に、両手に白い布製の手袋を着けていた。正座の膝の上で拳を作っていたモモウラの手袋を、岩角は迷うことなく両方剥いだ。

「義手の割にクルマの運転がうまいんだな、おまえ」

 モモウラの右手首から先にあるのは、鈍色に光る義手だった。山田は無言で眉を跳ね上げる。生身の方の左手は筋張っていて指が長く、岩角よりも大きなヒトの手だった。

「クルマというものに、憧れがあったので」

「免許は本物? 偽造?」

「合宿して取りました。本物です」

「ふーん」

 モモウラの膝の上に手袋を置き、岩角が立ち上がった。

「山田、俺にも酒」

「あんまり飲むな。まだ話は終わってない」

「分かってるよ」

 水割りを作って渡せば、それをひと息に飲み干した我らが若頭カシラどのはモモウラの側に舞い戻る。モモウラは丸い背を丸めて座り込んだまま、体をぴくりとも動かさない。まるでそう躾けられたけもののようだ。

「モモウラ──百裏モモウラ。なんでこんな名前を名乗ろうと思ったんだ? どうせ偽名なら、他になんだって選べただろう」

 ソファの肘掛けに腰を下ろした岩角の問いに、百裏が静かに笑う。諦めの色が濃く滲んでいた。

「これでも、苔桃こけももという名前に愛着があったのです。若頭には愚かしく思えるかもしれませんが、苔桃と名前は私にとって、

「……」

 酒の雫が付いたくちびるを親指で拭いながら、岩角は眉を寄せる。愚かしくなど思っていないと、山田には手に取るように理解ができた。名前。自分だけの名前。岩角にもきっと覚えがある代物だ。とは、ある時突然この世界に生まれ落ちた名前。父親も母親もおらず、まるで宙空から手品のように取り出された美しい男。それが岩角遼だ。

「義手、それにモモという果物の名前。そのふたつが俺の根拠だ。弱いかね?」

「いえ」

「他にも果物の音を持つ組員はまあそれなりにいたけれど、俺たちが想定してるよりオッサンだったり、そもそも実家があったりしておまえ以外にひとりも条件に合う人間がいなかったんだよ」

 な、と話を振られ、ああ、と山田は首を縦に振った。

「それで結局、おまえなんだろう?」

「ええ──今しがたお話しした通りです。私は生まれてすぐに果樹園に売られ、6度壺に入った苔桃です。大変な、ご迷惑をおかけしました」

「聞きたいことが色々ある」

 キッチンにやって来た岩角が、山田の手元から炭酸のペットボトルを奪いながら言った。冷えてるやつは一本しかないのに。山田はうんざりと眉を顰め、冷蔵庫に片付けたばかりのミネラルウォーター(2リットル)を取り出す。

「椰田部はなぜ死んだ」

「彼は、果樹園の人間です」

 百裏の応えに岩角が小首を傾げる。

「いきなり分からん」

「死ぬまでそうだったと言えば伝わるでしょうか。先ほどお話しした通り、私が果樹園を逃げ出した年に最後の5人として残ったのが、八朔はっさく椰子やし枇杷びわ無花果いちじく、そして私、苔桃です」

「でも枇杷は脱落した」

「その通りです。そうして果樹園の主人あるじは、枇杷の眼球を無花果に食わせようとしました。あの年の壺、最後の5人の中で能力の高さだけを競えば私ひとりが飛び抜けていて、ほかの4人はだいたい同じぐらいのレベル──でもそれまでに脱落した95人よりはずっと強い──で拮抗していました。主人は己の欲望のために枇杷を取り除き、彼女の能力である力を奪い、あろうことか無花果に与えて神の器にしようと試みた」

「でも、それもおまえが」

 炭酸水をひと口飲んだ岩角が、蓋が開いたままのペットボトルをそのまま百裏に差し出した。百裏は当惑した様子で冷たいボトルを受け取り、中身を本当に少しだけ口に含んで、ボトルを岩角に返した。

「そうです。その器ではないのに神になる──結局失敗するのは目に見えていた無花果の首は、私が刎ねて逃げました。それで果樹園に残ったのは、八朔と椰子」

「俺が聞いた話だと」

 言いながら、山田は二リットルの水のペットボトルを持ったままでキッチンを出た。

「とある──殺し屋斡旋業のやつから聞き出した話だが、果樹園に残った子どもは、大抵が子どものうちに死ぬって話じゃないか」

「その方は、なぜそんなことを知っているのでしょう」

 炭酸水の受け渡しの際に僅かに目線を上げただけで、百裏は今も俯いたままでいた。

「門外不出の情報であるはずなのに」

「そいつが反則技を使ってるだけだ、気にしなくていい。それより、果樹園に残ったガキが──」

「ええ。半分以上は死にます。神様になることができなくても、呪いになることはできる。切り取られた体の一部がそのトリガーとなります。大人では警戒して入り込めない場所でも、子どもならどうにかなる、そういうことってあるでしょう?」

 山田は黙って岩角に視線を向ける。岩角はくちびるを引き結んで爪を噛んでいた。

「生き延びられて20歳ハタチまで」

「山田ぁ、椰田部って幾つだったっけ?」

「享年21。自己申告を信用するなら」

「中学ん時から付き合ってるっていうオンナは実在してたよな?」

「葬式でいちばん泣いてたな。名前と連絡先も持ってるぜ」

「ってことは? 百裏?」

 話を振られた百裏が、感情の見えない声で応じた。

「彼は私たちが逃げ出した後の果樹園で生き延び、学校に通い、その後ヤクザに……あなた方の部下になり、目的を果たすことなく死んだ」

「果樹園の標的は誰だったんだよ」

 岩角が尋ねる。

 百裏が初めて顔を上げた。

 丸い顔の中、細い目、眼球が血走っていた。

「おまえ?」

 対する岩角の声はどこか気が抜けていた。自分だと、思っていたのだ。岩角は他人の恨みを買いやすい。わざわざそのために行動することすらある。今も何人から命を狙われているのか、数えるだけで一ヶ月はかかると笑いながら語るのが岩角遼という男だ。

「そうです。私です。裏切り者の私を殺すために椰子は玄國会に投入された」

「投入って────いや、いや?」

 岩角の言葉が急に途切れた。この部屋は妙に暑い。片手のミネラルウォーターの中身はもう半分も残っていない。その半分の半分で喉を潤しながら、山田は若頭の言葉を待った。

「山田」

「はいよ」

 珍しく棘のない声で呼ばれた。山田の態度は常に変わらない。

「椰田部っていつから俺の運転手を始めたんだっけ?」

 それなぁ。左側の肩を鳴らして、山田は答えた。

「覚えてない」

「俺もだ」

「人事に確かめるか?」

「いえ……おそらく、誰の記憶にも、記録にも、残っていないと思います」

 百裏が呻くように口を挟む。

「言い方は良くないかもしれませんが、玄國会暴力団は人の出入りが激しいでしょう?」

「ああ、まあね」

「そういう場所で爆発するんです。果樹園の果実たちは。別に反社会的勢力でなくてもいい。小学校、中学校、高等学校──他には大学や専門学校。学校と呼ばれる場所はすべて餌場です。それに、そうですね、政治の世界や芸能の世界なんかも該当します。セミナー会場なんかも現場として使われることが多いと聞いたことがあります。壇上で喋るよほど有名な人間が亡くなったり、失踪したりすれば騒ぎにもなるし、報道にも載るでしょう。でもそのすぐ側にいた他人には、誰も注目しない」

 早口に言い切った百裏が、大きく嘆息した。

「私がいつから玄國会に所属しているか、若頭カシラも、相談役も覚えてらっしゃらないでしょう」

「あー」

「知らねえなそういえば」

 口々に応じる大人たちに、15の年からですよ、と諦念にも似た笑いが滲む声で百裏は言った。

「7つの年に果樹園を出、そのあとしばらくは先ほどお話しした──私の父親であった男にかけていた術と同じ術を使ってどうにか生き延びました。そうして15歳。年齢はまだ追い付かないけれど、外見だけならばオトナだと言い切ることができるようになり、私は玄國会に身を隠しました」

「全ッ然分からん!」

 百裏の言葉が途切れた瞬間、岩角が腹から声を出した。

「15で玄國会に? 正気か? おまえの最初の兄貴分の名前を言えるか? 15のおまえに何ができた? 運転手もやれない、殺しもできないガキを好きこのんで養った馬鹿は誰だ? それも全部術か? ああ?」

「術、で……」

 言葉を重ねようとする百裏の白いワイシャツの胸ぐらを、岩角が掴んだ。

「は」

 やっぱりこの部屋は暑い。山田は岩角と百裏の側を離れ、リビングからベランダに通じる窓を開ける。夜風が冷たくて気持ちいい。初夏だなぁ。

「今すぐ解け。だいたい俺はなモモウラ、おまえらの言う果樹園なんてものも信じてないし、神様を作るって話もずっと疑ってるんだよ。気色わりぃんだよ!」

「カシラ〜、あんまでけえ声出すと外」

 二リットルのペットボトルを持ったままで「シー」とくちびるの前に人差し指を立てれば、ますます苛立った様子で岩角は唸った。

「百裏。おまえの本当の顔を見せろ」

「……」

 どうして。百裏がまた、呟いた。

「ああ?」

 ふ、と。

 部屋の奇妙な熱が引いた。

 山田は黙って窓を占める。その瞬間、岩角の慟哭が響いた。

「……ほんのガキじゃねえか!」

 ゆっくりと振り返る。百裏の肩を掴み、床に膝を付いた岩角の声は震えていた。

 関東玄國会若頭と相談役の目の前にいるのは、身長180センチ、体重90キロの丸顔の成人男性ではなかった。棒切れのような腕と脚にぶかぶかのシャツとスラックスを身に着け、右の手首から先には重たげな義手をぶら下げた、痩せぎすの青年だった。

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