2話 山田徹

 今日の玄國会関東本部はどうもおかしい。騒々しいならまだしも、組員全員が死に絶えたかのように静まり返っている。

「クーデターの前触れかもな」

 煙草を咥えて岩角が笑う。その岩角に散々殴られ蹴られた山田の全身の傷は半分も癒えておらず、今も身体中が絆創膏と包帯で大変なことになっている。まあ、別にどこも痛くはないので日々の生活には何の支障もないのだが。

若頭カシラ!」

 岩角と山田がぼんやりと時を過ごしている客室とは名ばかりのだだっ広い和室に、名前も知らない若い構成員が駆け込んでくる。座椅子にあぐらをかいて座る岩角が目を細めて若者を睨め付ける。まったく、無駄に怖がらせて。

「どうした」

 ろくに口を利く気もないらしい岩角の代わりに尋ねた。山田に縋り付くような格好で、若衆は言った。

「あの人が……が……!」

「誰? 会長?」

 小首を傾げて岩角が尋ねる。関東玄國会の現会長は諸般の事情で某市立病院に入院中なのだが、突如予定を変更して退院してきたのだろうか。

「悪いな、俺だ」

 山田が岩角の軽口に応じるより先に、嗄れた声がふたりの間に落ちてきた。山田にとっては聞き慣れた、岩角にとってはできる限り耳に入れたくない響きだった。

 ガラス製の灰皿に煙草をねじ込んだ岩角が、まるで野猫のような俊敏さで立ち上がった。止める暇もなかった。

逢坂おうさか!」

 鋭く吠える岩角の手の中には拳銃が一丁。安全装置は外れている。

若頭カシラぁ……!」

 泣き声を上げる舎弟を取り敢えず廊下の奥に逃し、山田もゆっくりと腰を上げた。

「遼。撃つな」

「山田てめえは俺に命令できる御身分だったか? そこをどけ。逢坂。何しに来やがった、この死に損ないが」

 山田は自然、招かれざる客──逢坂一威おうさかかずいを背に庇うような格好になっていた。彼の今の本拠地である新宿歌舞伎町にある喫茶店には頻繁に足を運んでいるし、喫茶店のマスターとしてにこにこと愛想を振り撒く逢坂の姿は見慣れたものだ。だが、今は、今の彼は。

「死に損ないが自然に死ぬまで待てないのか? 岩角遼」

 もうとっくに、半世紀も前に最前線を捨てたはずの逢坂一威が、殺し屋の顔をして立っている。我知らず鳥肌が立った。逢坂はもう殺しの仕事をしていない。何年も、いや何十年も他者の命を奪わずに生きてきたはずだ。職業殺し屋も引退できる。一般人になりすますことができる。その好例がこの男。山田も実はいつか逢坂のようになりたいと思っていた。いや今も思っている。にも関わらず、こうもあっさりと全盛期の顔を取り戻すことができるのか。どういうシステムなんだ。それとも、息をするように殺しをして生きてきたものは皆そうなのか。

「うるせえ黙れ前時代の化け物が。ここはな、今を生きる人間のための場所なんだよ。あんたみたいな旧式のリボルバークソジジイが気安く足を踏み入れて良い場所じゃねえんだ」

「その割には、みぃんなマスターの顔見て逃げちゃってどうしようもナカッタッスケドネ!」

「!?」

 杖を片手に廊下に仁王立ちになる逢坂の背後から顔を覗かせたのは、市岡ヒサシだった。長身をわざわざ丸めて隠れていたらしい。山田が最後に歌舞伎町を見舞った際にはまだ昏睡状態だったのだが、なんだ、元気そうじゃないか。

「山田さんおひさ〜!」

「おう。元気か」

「ご覧の通り! 山田さんはなんかボロボロみたいだけど……?」

 小首を傾げるヒサシの髪をくしゃくしゃと撫で、黙れ、と囁いたところで、

「宍戸からは聞いてましたけど、本当にヤクザなんですね、岩角さん……」

「……」

 ヒサシの後ろから更に顔を見せた男がいた。彼は。

「あ、おまえ」

 相変わらず拳銃を構えたまま、しかしどこか毒気を抜かれたような声音で岩角が言った。

「おまえだな? クサリのツレの弁護士ってのは」

「あ、初めまして。市岡稟市と申します」

 弟の傍らをすり抜け、銃を持つ逢坂の腕の下を潜り抜け、山田の空っぽの左腕をひょいと避けながら、市岡稟市が岩角の前に立った。岩角より少しばかり小柄で、痩せぎすで、黒いスーツに藍色のネクタイを締めている。ふところからカードケースを取り出し、そこから名刺を抜き出し差し出す動きが、驚くほど自然だった。念願叶っての対面。それはそれで構わないのだが、市岡稟市本人はこの修羅場をなんだと思っているのだろう。単なる顔合わせの場だと認識しているのだとしたら、あまりにも肝が太すぎる。

「いや。名刺は要らない」

 拳銃を下げずに岩角が言った。

「あんたの弟にもらった」

「ヒサシ、俺の名刺を勝手に配るな」

「俺もそう忠告した。あんたが、本人なんだな?」

 市岡稟市。見下ろす岩角に臆する気配もなく、稟市は首を縦に振った。

「初めまして」

「何しに来た」

の話をしに」

 瞬間、岩角の銃口の的が逢坂から稟市に変わった。

「果樹園?」

 稟市の左胸にごりごりと拳銃を押し付け、岩角は口元だけで笑った。目は据わっていた。彼の怒りが、山田には手に取るように理解できた。

 果樹園。部外者が口にして良い響きではない。

「なんだ、ぶどう狩りにでも行きたいのか?」

「いえ。あなたが行ったの話をしています」

「狂ってんな。おまえみたいに狂ったやつでも弁護士になれるのか」

 逢坂がふところに何某かの武器を呑んでいるのは間違いない。また、ヒサシはヒサシで身体能力がそれなりに高いと山田は踏んでいた。普段の山田であれば逢坂を蹴り上げた後ヒサシの相手をするのもそう難しくはなかったが、身内の手によって散々に暴行を受け治りもしない怪我を負っている今、ふたりがかりで来られたら負ける。絶対に。

「──若頭カシラ

 その瞬間だった。

 岩角に歩み寄り、拳銃を握る手を取った者がいた。

「やめましょう」

「……。おまえは、いいんだ。黙って座ってなさい」

 岩角の声が僅かに揺れ、殺意が明確に薄れた。逢坂とヒサシもそれに気付いたようで、一瞬視線を交わしたのち、ふたりしていかにも訝しげに山田を見詰めている。そんな目をされても困る。

「モモウラさん? あなたが?」

 稟市の視線もまた、岩角からモモウラに移った。左胸に押し付けられている凶器の存在を完全に忘れたような表情で、市岡稟市はモモウラを見ていた。

 岩角よりも少しばかり背が高く、丸顔で、恰幅の良い、ジャージ姿の若い男。それがモモウラだ。

「モモウラ、いい子にしてろ。全部俺が片付ける」

若頭カシラ

 もう、殺しは、やめましょう。囁くように、懇願するようにモモウラが言った。見た目に反してひどく柔らかな、少年のような声だった。

 ヒサシが呟いた。先ほどまでの道化っぷりが嘘のように、鋭い響きだった。

「モモウラさん、あなたですよね。って、あなたのことですよね」

「てめえ!」

 岩角が撃鉄を引いた。ほとんど反射だった。殺してもいいと思っている、そういう顔をしていた。割って入る隙はない。市岡稟市の左胸で血の花が咲いた。そのはずだった。


 そうはならなかった。銃声はたしかに響いた。一発だけ。そう、たった一発。岩角は撃鉄を引くことができなかった。その一瞬前に、逢坂一威が杖を捨て、ふところから回転式拳銃リボルバーを抜いた。山田には止めることができなかった。逢坂の鉛の玉が、岩角の手元を弾いた。岩角の拳銃は畳の上にどさりと落ち、それを大型の猫のような勢いで室内に飛び込んだヒサシが胸の中に抱え込んだ。

「……あっぶね」

 稟市が呟く。顔が青褪めている。拳銃を取り落とした弾みでその場に座り込んでいる岩角もまた紙のように白い顔をしていて、だがそれは逢坂に撃たれたせいではない。


 岩角の傍らに膝を付いたモモウラが、稟市を見上げて静かな声で尋ねた。


「どうして、」

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