7話 宍戸クサリ
殴打の傷もだいぶ癒え、体調にも特に異常は見当たらないということで宍戸クサリは無事退院し、今は自宅療養という名目で飼い猫と共に家に引きこもっていた。目下の最懸念事項は本業である舞台監督の仕事が滞ることであったが、幸いにも宮内くり子作演出の新作以外に仕事が入っておらず、雇い主であり同僚でもある宮内本人が宍戸の身に起きた奇怪な事象についての理解を示してくれたため、然程の罪悪感を抱かずに家にいることができた。
宮内をはじめとする仕事仲間たちからは毎日のように連絡が来る。「宍戸さん大丈夫ですか?」「今日は一行台本が進みました」「いい感じのバンド見つけたんで聞いてください! URL送ります!」「宍戸さんマジ元気ですか?」「猫の写真見せて」「勝手に出前注文したんで食べてください」「お見舞い行きたいんですけどまだ駄目ですか?」──などなど。
演出助手の
殴打事件の後、入院中の体の至る所に咬み跡が現れた。さすがにゾッとしてヒサシに連絡をした。稟市でも良かったのだが、ヒサシによれば案件地獄で溺れているという現役弁護士を無理に病院に呼び出す気にもなれず、1年365日を自由気ままに過ごしている弟の方を召喚したのだ。
咬み跡による痛みはなかった。それで体調が悪化するということもなかった。だが、まるで虫刺されや湿疹のように静かに増えていく咬み跡はひたすらに不気味だった。これではまるで──死んだ岩角遼の元運転手と同じではないか。
宍戸の呼び出しに応じてやって来た市岡ヒサシは、
「完全にこの世のものじゃないですねえ!」
と元気に宍戸を上半身裸にし、スマートフォンで写真を撮り、何か分かったら連絡しますと言い置いて、音信不通になった。
そう、音信不通になったのだ。
ちょっと大阪に行ってきます、という連絡を受けたのが宍戸の退院日前日。その翌日無事に退院して自宅にいる旨メッセージを送ったのだが、待てど暮らせど既読が付かない。業を煮やして11桁の番号を叩いて連絡を取ろうと試みたら、この番号はただいま使われておりませんときた。まったくなんなんだ。一応兄の稟市にも電話をかけてみたのだが、
「退院おめでとう。ヒサシとは俺も連絡がつかない」
などと言う。なんなんだ。本当に。
ただ、しばらく経つと、一方的に立腹し通しというわけにもいかなくなっていた。けものの声が聴こえるようになったのだ。
最初は犬の遠吠えだと思った。宍戸の住んでいるマンションはペット可だし、大型犬を飼っている家庭も多い。犬だって叫んだり喚きたくなることもあるだろう。宍戸は動物全般を割と好む性質の人間なので、うるさいとか鬱陶しいとかそういった負の感情を抱くことはなかった。
しかし数日も経つと、どうやらこれは奇妙だ、そう気付かないわけにもいかなくなった。マンションのエントランスにあるポストに郵便物を取りに行こうとすると、自宅の扉前に足跡がある。けものの足跡だ。犬、ではないような気がする。それに前日も当日も目が痛くなるような晴天だというのに、こんな風に──水や泥で濡れたような足跡が残るだろうか。それも宍戸の自宅前にだけ。ぐるぐると円を描くように歩いた足跡が。
遠吠えと、足跡。それらが次第に近付いてくる。
宍戸には市岡兄弟のように不思議な能力はない。元弁護士で、現舞台監督。ちょっと法律に強いだけの普通の人間だ。それでも理解できた。こいつは、良くない。
稟市に連絡をしようとスマホを手に取り、すぐにやめた。数日前に通話をした際、大阪にいるらしい弟と通話をしている際に奇妙なノイズが入り、それきり弟は音信不通になったと言っていたのだ。通話の相手が宍戸であっても、同じことが起きないとは限らない。
幸いにも咬み傷以外の体調は回復していた。これならば稟市の事務所を直接訪ねることもできるだろう。クルマではなく電車を使おう。そう決めて部屋を出ようと瞬間、
飼い猫のヴェンが凄まじい勢いで飛んできて、扉の前に立ち塞がった。
全身の毛が逆立っている。ヴェンは、野良猫を保護して新しい飼い主に譲渡する団体から宍戸のもとにやって来た雄猫だ。宍戸に出会う前から左目が見えない。隻眼の猫だ。その、ヴェンの見えないはずの左目が、発光している。
「……出るなってことか?」
ヴェンは鋭く唸り続けている。参った。こういう時の動物の勘は、人間の直感などよりよほどアテになる。
通話も無理、外出も許されない、ではいったいどうすれば。玄関に立ち尽くしたまま途方に暮れる宍戸の目の前で、ドアの隙間に何かが差し込まれ、ぽたりと落ちた。
市岡神社の紋が押された、白い封筒だった。
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