5話 山田徹

 殴打。殴打。殴打。

 それから蹴り。さらに殴打。

 手が痛くならないのだろうか。心配になる。

 殴打。殴打。殴打。


 以前なら髪を引っ掴まれて、顔を床に打ち付けられたりしていた。その行為自体は構わないのだが、抜けた髪の処理やなんかが億劫になって頭を丸めた。今は部活を引退して半年経った高校球児ぐらいの長さだ。その頭を男の足が力任せに踏み付ける。縛られている。縛られて転がされている。この部屋には誰も来ない。彼がそう命じているからだ。終わるまで誰も入ってくるな。


 彼の殺すぞはいつも本気だ。殺して殺して生きてきた男だものなぁ。そうなるよなあ。頭の片隅でぼんやりと、思う。

「痛くないのか?」

 男──岩角遼が尋ねた。これもいつもの問い掛けだ。一本しかない腕と首とを荒縄で繋がれ縛られ血の匂いのする板の間に転がされた山田徹は、流れて落ちてきた鼻血をペロリと舐めながら笑った。

「気味が悪い」

「今に始まったことじゃねえだろう」

 言い終える前に腹部に蹴りが入った。痛みはない。そう。痛くない。。ほんの子どもの頃からそうだった。痛くないから、命の重さが分からない。少年の時分には無茶な喧嘩をして意識ははっきりしたままで救急車に乗せられたことが何度もあるし、長じて反社会的勢力の構成員というこれ以上もないほどに山田向きな職場にたどり着いた後も、何度も何度も、飽きることなく死にかけた。その度に誰かが助けてくれた。目をかけてくれていた兄貴分。山田の無茶を軽蔑しつつも側にいてくれた兄弟分。山田の知らない山田自身の命の重さを、他人が、知っていてくれた。

 痛みはないが、頭をぶつければ目眩はするし、腹を蹴られれば息は詰まる。口の中が切れれば血は溢れるし、今日の岩角は大層機嫌が悪いので明日の山田は──このまま殴り殺されなければの話だが──さぞかし酷い顔になっていることだろう。困ったな。喧嘩の強さと顔の良さだけが売りだというのに、山田徹というヤクザは。

「なんで大阪に行った」

「呼ばれて」

「東條の黒松と繋がりがあるそうだな」

「時候の挨拶をする程度よ」

「その黒松は今昏睡状態だって話を聞いた」

「さすが若頭。話が早い」

「おまえが何かしたのか? 山田。言え。俺に隠し事をするな。殺すぞ」

 殺すぞ。繰り返されるその響きが愛おしかった。そう。おまえにはそうやって殺意に目を血走らせている姿がお似合いだよ、岩角遼。おまえは若頭なんて役職について満足するような男じゃなかったはずだ。そうだろう。

「俺は、何もしてな、っ」

 岩角の革靴の足が喉を踏み付ける。さすがにこれでは喋れない。血の混じった唾を吐いた。岩角が顔を顰める。

「汚い」

「そりゃ悪かった。後で掃除をしておくよ」

「右腕しかないくせに? 笑わせるなよ」

 両膝と両足首には革のバンドを巻かれていて、掃除はおろか立ち上がって歩くことさえも不可能だった。岩角はいつもこうだ。痛みを感じない山田をサンドバッグにするくせに、殴り返されることをひどく恐れる。昔はこうではなかったのにな、と見下ろしてくる美しい男の色素の薄い目を見上げながら考える。返り血も、反撃も、何もかもを楽しんでいる男だった。人を殺すために生まれてきた人間がいるとするなら、それが岩角だ。彼には才能があった。道を間違えたわけではない。対岸を歩くと岩角本人が決めたのだ。それなのに。今も悔いている。かわいそうに。哀れな男。岩角のその哀れさも含めて、山田は彼が好きだった。こんな風に嬲り倒されていても、尚。

「……どうもおかしい。調べたいことがあって大阪に行った」

「俺のっ、許可をっ、取れっ」

 腹への蹴り三発。胃液が迫り上がってくる。でもここで吐いたら確実に殺されるのでどうにか踏ん張る。痛覚が失われているだけで、それ以外の感覚はあるのだ。

「妙なものを見た」

「生首だろ?」

「知ってんのか」

「俺には俺の情報網があるんだよ」

 しゃがみ込んだ岩角が山田の顎を掴み、開かせた口からだらりと溢れる舌を指先で摘んだ。

「今度はこいつを切り落としてやろうか」

「……勘弁してくれ。腕一本じゃ足りないか」

 山田の左腕を落としたのは敵対組織ではない。岩角遼だ。

「で? 生首を送ったのはうちだって?」

「そんな話にはなってない」

「黒松を寝かせたのはおまえか?」

「俺じゃない」

「あの名古屋ナンバーのクルマはなんなんだ」

「ああ、始末しなくちゃ……」

「質問に答えろ山田」

「だったらちゃんと何が知りたいのか言ってくれ」

 岩角はなぜか、呆れ返った顔をしていた。

「何?」

「おまえ……山田おまえってやつは本当に……」

「なんだよ」

「いいか。俺は超常現象を信じない。幽霊とか悪霊とか呪いとかそういった類のものも一切、全部だ。理屈で解決できないものは全部大嫌いだ。人間は殺せば死ぬ。死んだら終わり。そういう主義なんだ俺は。いいか山田。これ以上俺を怒らせるなよ」

 怒っていても美しい顔の男だった。もっとも、岩角は山田の好みのタイプではなかったが。それに岩角自身、その見た目の美しさを若頭として生きるための武器にしてはいたが、他者の恋情や愛情に応じることはまず有り得ず、すべてを踏み付けにして今の立場を確立していた。

「遼」

「殺すぞ」

「そんな超常現象嫌いなおまえの耳に入れるのは忍びない情報なんだが」

「ああ?」

 声を潜める。誰に盗み聞きされているわけでもないのに。形の良い眉を不快げに寄せた岩角が、床に片膝を付いて山田に顔を近付ける。

「臭い」

「胃液の匂いだろ」

「自分で片付けろよ。片付けられないなら右腕も落とす」

「ハハ。残りの人生全部おまえのサンドバッグとして過ごせってか。冗談じゃない」

 薄く笑った山田は、すぐに真顔になって続けた。

「果樹園って知ってるか?」


 果樹園、ねえ。と呟く岩角はだいぶ落ち着きを取り戻しているように見えた。いや、落ち着いたというよりはあまりにも現実離れした話題に茫然としているようにも見える。板の間にうつ伏せに倒れる山田の背中の上に腰を下ろし、煙草に火を点ける。

「一応確認するが、どこからの情報だ」

だ。横浜の」

「秋! あのクソアマ!」

 岩角は秋を女性だと思っている。理由は知らない。ふたりは数えるほどしか顔を合わせたことがないはずだ。そもそも若頭になった岩角遼は

 紫煙を吐く岩角が親の仇を思うような目をしていると、見なくても分かる。それよりそろそろ縛り上げられた体がしんどくなってきたから解いて欲しい。腕でも脚でも、どこか一箇所で構わないから。

「特殊能力を集めたガキを集めて神を作る? 狂人の発想だな」

「実際に起きているんだ、仕方ないだろう」

「おまえは信じるのか山田」

 応じずにいたら、スラックスの裾を捲った岩角が煙草を足首に押し付けている気配がした。熱い。痛みはないが熱い。勘弁してくれ。

「信じるも信じないも、実際秋が言う通りのことが起きている」

 新大阪のホテルに入ってきた首がぐるぐる回る子ども。増える足跡。喫茶店で話をしている時に唐突に意識を失った市岡ヒサシの手の甲に発生した奇妙な火傷。それに今もまだ意識を取り戻さない黒松。

 はふ、と岩角がいかにも物憂げな息を吐いた。

「ヤタベは4人目だった」

「え?」

「覚えてるだろ。俺の前の運転手だったヤタベ。あいつの前に3人殺されて、ヤタベが4人目」

「ああ」

 そうだったか。誰がどういう順番で殺されたのかを、山田はいちいち覚えていない。新しい煙草に火を点けながら岩角が呟くように続ける。

「仮に。ヤタベが秋の言う果樹園とかいう集団の一員だとして──どうして殺された? 誰があいつを殺した? 話を聞く限り、ヤタベは殺される側ではなく殺す側の人間だったはずだ」

「そこなんだよな」

 椰田部康平。覚醒剤を打たれ、全身に無数の噛み跡を残して絶命した男。

「仮定でしかないが」

 岩角が次はうなじに煙草を押し付けてくる。やめてくれ本当に。後できちんと手当をしなくては。こんなことで妙な感染症に罹るのも不本意だ。

「果樹園の中が分裂しているとしたら?」

 山田の台詞に、岩角は一瞬完全に沈黙し。

 それからまるで、迦陵嚬伽のような声で笑った。

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