四章

1話 響野憲造

 ほほん、ほんほん、と秋は空気の抜けた声を出してうなずき、それから出前のスイーツが入っていたプラスチックケースをくしゃくしゃにして部屋の隅にあるゴミ箱に放り、ゴミ箱の端に当たって落ちたプラスチックの塊に大きな溜息を吐いて椅子から立ち上がった。すたすたと歩いてゴミ箱の前まで行き、落ちたゴミを改めて捨てる。

「難儀な話ですねえ」

 そうして言った。やはりどこか、気の抜けたような響きだった。

 咬み跡のある死体、生首、昏睡状態の大阪のヤクザ、その他諸々の異様な出来事。ヒサシと響野が口々に語る物語を、秋は大量のスイーツを咀嚼しながら黙って聞いていた。

「秋、さんは、どう思われますか。その──」

 角煮入りのラーメンを食い終えた稟市が尋ねる。ゴミ箱の前でツナギのポケットから煙草の箱を取り出した秋は、小首を傾げて言った。

「思うに、こういう案件はそれこそ市岡さんの得意分野なのでは?」

 問いに、たしかに、と稟市は唸るように応じる。

「その通りです。ですがどうもおかしい。何かがいびつだ。私は今のところ咬み跡のある死体にも、生首にも遭遇していない。すべては伝聞です」

「だからおかしくなってしまうのでは? 体験していないから」

「そう思いますか? やはり一度は飛び込んでおくべきなのでしょうか」

「うーーーーーーーーん、そう、ですね」

 煙草に火を点けた秋が、空いている左手で本棚を探る。

「そうですね……これはたとえばの話なのですけど、」

 と、秋は一冊の本を取り出した。深緑色の布張りの表紙のそれは、書籍というよりアルバムに近かった。

 稟市と響野が食事をするのに使った丸テーブル(これもまた部屋の奥にある本棚と本棚のあいだの扉から出てきたものだ)の上にアルバムを置き、

「ええ。これこれ。龍神会りゅうじんかい

 秋の華奢な指が指し示したのは、セピア色に褪せたずいぶんと古い写真だった。言葉通り『龍神会』と大きく書かれたおそらく木製の看板を手に、羽織袴の男たちが厳しい顔でカメラを睨み付けている。

「何年か前にぶち壊れた組織なんですがね。響野くんは知ってるかな」

「あ、はい」

「私も」

 と稟市が小さく手を挙げる。

「完全に偶然ですが──少しだけ関わりを持ちました」

「へえ! じゃあ話は早い。彼らはね、その名の通りだったんです」

 まるで教科書で習ったことをそのままなぞるような口調で、秋は言った。

「龍を祀る」

 独り言のように繰り返す稟市の顔をその藍色の目に映し、

「イグザクトリィ。龍神会は、かつてはヤクザでも暴力団でもない、どちらかといえば宗教団体に近い集団でした。それがいつからこの形態になったのか、わたくしどもも詳しいところを知らないのですが──」

 と、秋は写真の中の『龍神会』の文字をひとつひとつ愛おしむように撫で、

「だが彼らはこうなった。そして壊れた」

「何年か前の年末でしたね。関西と関東、ふたつの組織が龍神会本部に……」

 次は響野が口を開く。ここで喋っておかなくては本当にただのアシ役だ。響野とて一応は国内のヤクザや半グレなんかを取材対象にする雑誌記者の端くれなのである。そういったややこしい連中についての知識は、稟市よりも多めに持っているつもりだ。

「その通り。響野くんは取材に行きましたか?」

「いえ。ほとんど全員死んじゃいましたからね、龍神会。だからってカチ込んだ側にコメント取りに行くわけにもいかないし」

 ふ、ふ。秋が笑った。

「賢い。賢い子は好きですよ秋は。ところで市岡さん、市岡さんは見ましたか? 龍神会の龍を」

 ずいぶんと唐突な話の振り方だなと響野は思ったが、稟市にとってはそうでもなかったらしい。お手拭きで手を拭きながら、はい、と霊感弁護士は頷いた。

「裁判を見にきて欲しいと、その龍神会の方に頼まれて」

「裁判。ああ龍神会がぶち壊れる半年ほど前の。ふふ。秋も見に行きました。あれは見ものだった」

「???」

 なんだか分からないがふたりが盛り上がり始めた。ヤバい置いて行かれるという焦燥感が響野を襲う。

「裁判? 裁判って?」

「響野くんは知らないのかな? そうか無理もない。あれはおかしな裁判だったからねえ」

 コロコロと鈴を鳴らすように秋が笑う。対する稟市は、人差し指の腹でこめかみをぐっと押さえて何かに耐えるような表情をしている。

「殺人と拳銃の不法所持で組員のひとりが逮捕されたんだよ。響野くん」

「わりと良くある感じのアレですね?」

「そう。まあ。ああいう人たちのあいだでは日常茶飯事。でもねえ。その逮捕された人は、何もしてなかったんだよねえ」

「え?」

 思わず稟市に視線を向ける。何がなんだか分からない。解説してほしい。

「概ね秋さんの仰る通りだと思います。私はその──被告人だった組員のことを詳しく知りませんが、そうですね……見に来てほしいと頼まれて足を運んだ裁判所、被告人席に座る男性をまるで守るように、巨大な龍が鎮座していました」

 訳が分からない。本当に分からない。呆気に取られる響野の様子を横目で見やり、稟市は静かに息を吐いた。

「鎮座していると言っても、私に視認できたのは龍の眼だけです。

「眼球? 目玉? それだけ?」

「そう。その眼球の、ちょっとゼリーみたいにふにゃふにゃした龍の眼が、被告人を守っていた。龍っていうのはね響野くん、大きいんだよ。裁判所に入れるのはせいぜい目玉だけ」

 稟市の解説に「なるほど」という気持ちと「そういうものなのか?」という感想が同時に浮かぶ。響野の感情を他所に、秋と稟市はふたりで盛り上がり続ける。

「これはわたくしどもの勝手な予想に過ぎませんが──龍神会は、祀るべき龍を蔑ろにしたのでしょうね」

 秋の言葉に、稟市が大きく頷いた。

「おそらく。私も所詮に過ぎませんので、龍と直接言葉を交わすことなど本来なら不可能なのですが、一言だけ、被告人の男性を守る理由を尋ねたところ」

 ──好いておる、ほかに理由が要るか?

「素敵だ! 純愛ですね! 神である龍が人を愛し、己を蔑ろにした組織の完全崩壊という未来を見ながら何の手も打たずに去る! まさに神!」

 秋のテンションが急に上がった理由はよく分からなかった。というか稟市と秋の会話の中身も、なんとなくしか響野には理解できなかった。

「……いやいや。すみません。楽しくなっちゃって」

 丸テーブルの前でフレディ・マーキュリーのようなポーズになっていた秋が、急に真顔になって戻ってきた。別に照れている素振りもない。響野と秋とは別に初対面ではないが、こんなにもコロコロ表情が変わるところを見るのは初めてだ。何が秋をここまで盛り上げているのだろう。稟市の存在だろうか。

「まあ、そんな感じで。ヤクザと神。意外と密接な関係を持っていたりするんですよね」

 呟くように秋は言う。

「龍神会は、宗教団体としての龍神会は、かつては龍から託宣を得ていたと聞きます」

「託宣? 未来予知のような?」

「市岡さんは本当に話が早い。その通りです。毎年、組員──当時は暴力団ではなかったので組員という表現は正しくないのですが──の中からひとり龍の言葉を聞く巫子を立て、その年の天気だとか、川はいつ氾濫するかとか、夏はどれほど暑くなるかとか、まあそんな感じでね、託宣を得て過ごしていた。ちなみに市岡さんがご覧になった裁判で有罪になった、龍に守られていた男が龍神会最後の巫子です。龍を崇めるのをやめた龍神会には、巫子という存在そのものが邪魔になったんでしょうねえ。だからといって人間が、神を棄てて無事でいられるはずがないというのに」

 すべては余談でしかありません、ずいぶん脱線してしまいましたね、と秋は微笑み、

「ですので、そう、話を戻しましょうか。市岡さんの弟さんと山田徹が犬神に似たものに襲われた。また、岩角遼の以前の運転手は殺害され、岩角遼の友人が何物かによって暴行を受けた。それらすべての奇っ怪な現象に、ヤクザだの暴力団だの、そういった反社会的勢力が関与していても、何らおかしくはないのですよ」

 秋の結びを受けて、響野と稟市の視線がかち合う。この世のものではないものに依存して成立している暴力団を、響野は龍神会以外に知らなかった。稟市は稟市で、この世のものではないものに日常的に触れている身としてはそれら人知を超えた存在と反社会的勢力に接点があるなどというのは、寝耳に水も良いところなのだろう。

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