2話 響野憲造

 あ、と声を上げたのは響野だった。

「市岡さん、アレ、アレ」

「どれ?」

「ヒサシさんからの手紙!」

「!」

 稟市の口がぽかんと開く。本当に忘れていたらしい。もしくは秋の勢いに呑まれていたのか。仕方がない。ここはそういう場所だ。

 手紙? と小首を傾げる秋に少し待ってくださいと声をかけ、稟市はジャケットの内ポケットから二つ折りの財布を出し、その中から小さく折り畳まれたノートの切れ端を取り出した。

「弟が、大阪から手紙を寄越したんです」

「今は逢坂一威のところで昏睡状態にあるという弟さん?」

「あっ目は覚めたみたいです」

 響野が口を挟む。秋は大して興味のなさそうな顔でそれは良かったですねと言った。

「何かのヒントになれば……というか私にはまるで意味が分からなくて」

「拝見」

 稟市から秋に手紙が渡る。手紙そのものは燃えてしまったから、記憶を頼りに稟市が書き起こしたものだ。煙草を灰皿に押し込んだ秋が、一旦真っ直ぐになった首を再び傾げ、ホウホウ、とフクロウのような声を上げた。

「赤いボールペンと黒いボールペン。弟さんが書いたのは?」

「黒、カタカナの方ですね」

「じゃあ赤いボールペンは山田徹かな。元の文字読めました? あの男、字が汚いから」

 山田と秋も顔見知りなのだろうか。響野にはその辺りの人間関係も良く分からない。ただ、木野ビルディングには秋から招待を受けた者以外は入ることができない。ヤクザだろうが記者だろうが弁護士だろうが──殺し屋だろうが、秋の前では皆平等。響野が秋と知り合うことができたのも、9割は祖父のコネのお陰だ。それを活用したことを、現在の響野は大変後悔しているのだが。

「あー……これは。これを先に出してもらえば早かったかな」

 秋は苦笑いを浮かべている。稟市が訝しげに首を傾げる。響野は蚊帳の外にいる。

「これはねえ、ですよ、市岡さん」

「果樹園?」

「そう。見て。果物の名前が入っているでしょう」


 椰田部康平

 丸山朔耶


 彼らの名の『』と『』の部分に秋は青いボールペンで丸を付ける。

 ああ、と稟市が形の良い眉をはね上げる。だが響野としてはいまいち腑に落ちない。

「椰、を使う『ヤタベ』という苗字は確かに珍しい……果物を連想させるかもしれないですけど、朔耶は……結構見る並びじゃないです?」

「じゃ、これなら?」

 秋がボールペンをさらさらと動かす。


 丸山


「八朔」

「果物でしょ」

 秋が得意げに言った。しかし、

「果樹園とは?」

 稟市の問いに秋の得意げな表情は一瞬で消え去った。急にすべての自信を失ったような、もしくは悪戯がバレて叱られるのを恐れている子どものような、そんな弱々しげな顔付きをしている。

「ん〜……」

「秋さん?」

「いやね。響野くんにはどう思われてもいいんですよ秋は。別にね。響野くんは所詮逢坂一威職業殺し屋バーター抱き合わせ商品なので」

 突然の罵倒である。あまりに不意打ちだったので怒ることも焦ることもできずただ両目をかっ開いて沈黙する響野の肩を、稟市が慌てた様子で揺さぶる。

「しっかりしろ。動揺するんじゃない」

「あ、でも、いやでも俺たしかにバーターなので……」

「バーターでも俺をここまで連れてきてくれたでしょ! 自信を持って!」

 否定してくれないのか……バーターであることを……と思いつつ、なんとか冷静さを保とうとする響野を秋は見もしなかった。

「でもねえ。市岡さんに嫌われたら悲しいなぁ」

 それは。

 秋が初めて見せただった。

 男性でも女性でもない、ただ『秋』という生き物である目の前の人物が、市岡稟市に対してあからさまな執着を見せている。響野が気付いたのだ、秋波を送られている稟市本人が理解していないはずがない。

「私が秋さんを嫌いになる可能性が?」

「あるんですねえ」

「……」

 交渉を持ちかけられている。ヒントを得るためには稟市は秋の言葉を黙って聞かなくてはならない。否定してはいけない。咎めたり、叱りつけたりしてもいけない。すべてを肯定する必要がある。

 初対面の人間に求めて良い質の感情ではない。

「私は」

 稟市が言った。

「秋さんを怒ったりしません。否定もしない。絶対に嫌ったりしない。秋さんが語るすべてを受け入れます」

「言葉だけじゃ……」

 胸の前で己の指を指を絡ませて、もじもじと秋が言い募る。面倒臭い。これはかなり面倒臭い。

 だが稟市は再び財布を取り出し、中から黒いプラスチック製の板を取り出した。

 名刺だった。

「これを」

「これは?」

「名刺です」

「見れば分かるんですねえ」

「これ分かりますか。市岡家の家紋です」

「市岡神社の」

「そう」

 私はこれ、滅多に出さないんです、と稟市は言った。

「祓いの仕事を引き受けたあと──アフターケアが必要な場合。もしくは私ひとりの手には負えず、両親や弟の手を借りるような大きな案件の時にだけ、依頼人にこの名刺を渡します」

 そんな名刺の存在、響野も知らなかった。自分でも驚くほど蚊帳の外にいた。

 名刺を受け取った秋が、ご両親、と小さく呟く。

「裏に書かれている番号。そこに連絡すれば父でも母でも祖母でも──ヒサシでも。好きな市岡の人間を引っ張り出すことができますよ」

「……つまりご家族を担保に、という捉え方でよろしい?」

 よろしいです。稟市は至って冷静な口調で応じた。

 そこでようやく秋が、花咲くような笑みを浮かべた。

「それではお話ししましょう。果樹園とは、分かりやすく言えばです。の通称なんです」

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