6話 響野憲造
横浜に到着するなり、
「いや、バイクで良かったんですよ」
手洗いから出て、コンビニでミネラルウォーターと響野の分のアイスコーヒーを買って出てきた市岡稟市は、つい先刻まで真っ青だった人間と同一人物とは思えないほどに涼しい顔で言った。
「クルマは、引っくり返されます」
澄まし顔で言われても響野にはどうにもピンと来ない。
稟市の弟であるヒサシと稟市の友人の関係者であるヤクザが大阪でずいぶんな目に遭った、という話は聞いていた。響野はこの件が始まるよりだいぶ前から山田徹という名の隻腕の男とは面識があり、アングラ専門のライターという職業柄彼と長話をしたこともあったが、彼は「夜中にホテルの部屋に首がぐるぐる回るこどもが現れた」とか「大阪から東京に戻る道すがら怪奇現象が起きまくって大変だった」なんて虚言を吐くタイプではない。どちらかというとそういった目に遭った人間の話を聞き、右手で注射器の形を作っては相手を揶揄う、そういう感じの男だ。
その山田が純喫茶カズイのカウンター席で、
「あんなめんどくせえ連中が相手だって分かってたら関わらなかった」
と苦虫を噛み潰したような顔で言い捨てた。響野は耳を疑ったし、傍で話を聞いていた祖父・
しかし実際──市岡ヒサシと山田徹はとあるアパートの一室に唐突に現れた生首、その首の主が山田と交流がある(本来は交流を持ってはいけない)関西圏のヤクザの関係者であるということを聞きつけ、向こうで何が起きているのかを確認するために大阪に向かった。それが、5日ほど前の話だっただろうか。関東に戻ってきた市岡ヒサシは右手に大きな火傷を負っている上に原因不明の昏睡状態に陥っており、山田は山田でこの件は厭だ、面倒臭いし悪いことしか起きないと吐き捨てている。なんなんだ。何が起きているんだ。
意識不明の人間は元殺し屋が経営する喫茶店ではなく病院に担ぎ込むのが筋だと響野は思ったのだが、山田はぶっ倒れて動かないヒサシを祖父の経営する喫茶店に置き去りにして、自分は組事務所に帰ってしまった。このまま店で死なれでもしたら面倒臭いので祖父とともに奥の間(と呼ばれている宿泊できる空間が祖父の店にはあるのだ、秘密なのだが)に横たわるヒサシの様子を見守って2日も経った頃。祖父の店の黒電話が鳴った。
純喫茶カズイにはナンバーディスプレイ付きの電話が設置してあり(FAX機能もある)店に用事がある人間はまずそちらに連絡をしてくる。黒電話については「飾りだよ」と祖父は言っている。もちろん嘘だ。黒電話は、本当に必要な時にしか鳴らない。番号を知っている者も限られている。
祖父は表情ひとつ変えずに受話器を上げ、
「誰だ」
と言った。
そうして二言三言ことばを交わし、受話器を置いて、
「憲造」
と孫を──響野憲造を呼んだ。
「おまえ、ちょっと適当なタイミングで、ヒサシのアニキを
「え?」
あまり気軽に口にして良い名前では、なかった。
「クルマだと引っくり返されるのにバイクだと無事なのはどういう理屈なんですか」
「単純にサイズの問題ですね」
響野の問いかけに、水を飲みながら稟市は応じた。バイクを時間貸駐車場に置き、ふたりは徒歩で中華街を突っ切っていた。周りには観光客と思しき人々や、制服姿の学生たち、それにこの街で商売をしている人間で大層賑わっている。
「どうせ引っくり返すなら小さいものより大きなものを相手にした方が楽しいでしょう」
「はあ……?」
「そういう意味ではヒサシを連れ帰ってくれたヤクザの方が途中から電車に乗るのを諦めたのは正解でした。あの──山田さんとかいいましたか。彼も何かが見えたりするタイプなんですか?」
今度は稟市が質問をする番だった。響野はアイスコーヒーを持っていない方の手で無精髭の顎をざらりと撫で、
「いや、ただの人殺しですね」
「そうですか。職業殺し屋の方で?」
「いえ。本当に普通の人殺しです」
「なるほど」
普通の人殺しと職業殺し屋、どちらも他者に害することで生計を立てているという意味では傍から見ればあまり変わりがない。だが響野のように仕事のために彼らに接していると、やはり少しばかりの違いを感じるようにはなる。山田徹はヤクザだ。人を殺したことがある、ヤクザだ。殺人の罪で刑務所に入ったこともある。だが、殺しを本職にはしていない。
殺しを本職としているヤクザといえば、たとえば──
「あ、ここですね」
「ここ?」
中華街の中心部からは大きく外れた雑居ビルの前で、ふたりは立ち止まった。『
「行きましょう」
稟市に声をかけて、埃っぽい階段を上り始めた。祖父の命令でなければ、こんなところには絶対に来たくなかった。四ツ谷の玄國会事務所に行く方がまだマシというものだ。
チャイムを鳴らす。どなた?と中から声がする。名乗りたくない。稟市にも聞こえてしまう。でも言うしかなかった。
「リボルバーの逢坂の使いで参りました。響野です、お久しぶりです、どうも」
「……どうぞ」
内側から扉が開いた。背の高い、青白い顔の女が立っていた。初めて見る顔だ。両腕のトライバル、両耳には無数にピアス、髪は漆黒で腰のあたりまで伸びている。
「そちらは?」
「市岡弁護士です。祖父から話があったと思いますが」
「……ああ。どうぞ」
長身の女に先導されて、飴色の床を進む。ここは土足で良い場所だ。何が起きるか分からないから。足元は安全な方がいい。
稟市は何も言わない。
木野ビルディングは、外観から得た印象よりもずっと広い空間を有している。目的地に辿り着くまでに七つの扉を見た。七つ。この七つを数え終えるまでに、響野は三年の月日を費やした。そうして理解したのだ。ここは、通うべき場所ではないと。
八つ目の扉に突き当たる。
「どうぞ」
三度目のどうぞとともに女の手がドアを押し開けた。
稟市は無言でいる。
八つ目の扉の中にはスチール製のデスクがひとつ、小さな窓がひとつ、すべての壁には本棚が設置されていて、無数の書籍、それに類するもの、それに書類、とにかく紙という紙が押し込まれている。以前と何も変わっていない。デスクの上に腰をかけて煙草を咥える人間の顔も。
「響野くん、久しぶり」
「どうもです、秋さん」
「きみとは二年ぶりぐらいだけど、逢坂一威からは半世紀ぶりの連絡で驚いてしまったよ。いったい何があったんです?」
「その前に、こちらの方を紹介してもいいですか?」
響野らをここまで連れてきた女とは違い小柄で痩せぎす、腕も脚も触れれば折れそうに細い。その体を灰色のツナギで包み、鼈甲ぶちの眼鏡の奥から藍色の瞳が響野を見上げていた。何度ブリーチを繰り返せばその色になるのかさっぱり分からないが、奥が透けて見えそうなプラチナの髪が薄い耳たぶの下で揺れている。
響野は秋のことを何も知らない。秋が彼なのか彼女なのか、それすらも、知らない。
「市岡稟市さんです。弁護士さんです」
「はじめまして、秋です」
握手のために差し出した手を、稟市は少しばかり狼狽えた様子で見下ろした。響野の背を冷たい汗が伝う。秋の気を損ねたらそれでおしまいだ。二度とここに来ることはできない。いや、響野にはリボルバーの逢坂の孫という大きすぎる名刺があるからまだ許されても、稟市はそうはいかない。秋が「あの人嫌い」とひとこと言えばそこですべてが終わりになってしまうのだから。
「……はじめまして?」
秋が重ねた。そこで初めて稟市は目の前に差し出された手に気付いた様子で、
「すみません。はじめまして。市岡と申します、よろしくお願いします」
と、秋の手をそっと握った。秋が満足げに笑う。響野も安堵の溜息を吐く。第一関門突破といったところか。
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