5話 市岡ヒサシ
純喫茶カズイの店内には、いつも通りマスターがいた。マスターだけがいた。
「や、やもださんは……?」
足も舌ももつれている。それでもどうにか壁を伝い、定位置であるカウンター席に座った。
「山田は四ツ谷に戻った」
マスターが答える。マスター──逢坂は、ヒサシが三日寝ていたと言っていた。今日は何月何日の何時頃なんだ。何も分からない。三日分の記憶がない。
冷水とアイスコーヒーを同時に目の前に出された。咄嗟に水が入ったコップを掴もうとして、右手が包帯でぐるぐる巻きになっていることを思い出す。
「今日は」
隣の席に腰を下ろしたカウンターの向こうで煙草を咥える逢坂が日付を告げる。本当に三日経っている。はっとして見上げた店内の時計は、長針と短信がちょうど3時を示していた。午前か、午後か。
「午後だ。店が開いてるんだから」
柔らかく笑う逢坂は至っていつも通りに見える。だけど、いつも通りのふりをしているだけかもしれない。最後の記憶。大阪の喫茶店。左腕がある山田徹。掴まれた右手をバーナーで焼かれるような激痛。
「山田がおまえをここまで連れてきたんだ」
逢坂が続けた。ヒサシは大きくまばたきをする。
「大阪の喫茶店で急におまえがぶっ倒れたって言ってな。しかも右手に見たことのない怪我をしていて、血が止まらないって」
──それでとりあえずおまえを喫茶店から連れ出して、タクシーを捕まえて新大阪の駅まで戻った。その途中で最初に乗ったタクシーがスピード違反で警察に捕まり、2台目は走り出すなりガードレールに突っ込んで単独事故、3台目はそもそも運転手がラリっててこれはもう無理だっておまえを背負って歩いて駅まで行ったらしい。小一時間かかったとか言ってたな。それで一旦東京に戻る、それが無理でもとりあえず今いる場所から離れるために新幹線に乗ったら名古屋で車両トラブルが起きて降ろされて。見てみたら一応手当をしたはずのおまえの手からまた血がどろどろと流れ始めていて。在来線に乗り換えようと思ったが何かの間違いで今度は車両ごとひっくり返されても困るから、あいつ、名古屋でクルマを買いやがった。そのまま高速に乗って、途中で下道に降りて、また乗ってを繰り返して、高速に乗りっぱなしだとまずいんだとよ、でかいトラックにやたら寄せて来られたりとか。そもそも高速は逃げ場がないからな、Uターンもできないし。下道は下道で急に目の前に人が飛び出して来たりして、それはそれで事故になるところだったって言ってた。名古屋から東京に戻るまで丸一日かかったそうだ。クルマは新宿に入る直前で乗り捨てて、おまえを抱えて店に入ってきた時の山田はあいつにしては珍しいぐらい疲れ果ててたね──
「ご、ご迷惑を……」
「おまえでもそんな風に思うのか」
「思うすよ。さすがにこれは」
「じゃあ今度山田に会ったらちゃんと礼を言うんだな」
「……生きてるんですか、山田さんは」
尋ねるのが怖かった。だが、天井に向けて煙を吐き出す逢坂はあっさりと応じた。
「四ツ谷に帰ったって言ったろう。
「え! 来た!?」
「おまえが昏倒したままなの確認して、病院連れてった方が良かったかなって言って帰ってった」
「そ、そうですか……」
それならいいのだが。更に言うと、病院ではなく
どういうルールが適用されているのか分かったものではないが、逢坂の証言の通りの出来事が自分と山田を襲っていたのであれば、病院に担ぎ込まれた瞬間ゲームセットだったに違いない。即ち、死。
格下などと口走ったのが先方の闘争本能に火を点けたのか。こればかりは反省するしかない。
三日。
「俺、兄に手紙を出そうとしていたんですよね……大阪から」
「それも山田から聞いた。スマホが爆発したんだって?」
「そんな感じで。通信手段がことごとく断たれていくものですから」
あのメモ書きは結局どうなったのだろう、と顔を傾けるヒサシの前に冷製パスタを置きながら、
「手紙は届いたんじゃないか? 山田が投函したんだろう」
「えっ。あっいただきます」
でもなんで届いたって思うんですか。そう重ねて尋ねれば、
「孫が呼び出されて出て行った。おまえのアニキはたしか──稟市とかいう名前の弁護士だろう?」
「そ、そうです!」
左手で強くフォークを握り締めたままで声を上げていた。届いていたのか。別にあのメモが現状打破のための最後の一手、などとは微塵も思っていないが、稟市が参加しているのといないのとでは展開が大きく変わってくる。
「それで、響野くんは兄と……どこに向かったんですか?」
灰皿に煙草を押し込む逢坂が、横浜、と短く答えた。
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