7話 響野憲造
「ええっと、椅子がないですね。ちょっと待ってくださいね用意させますから」
秋はすたすたと早足で部屋の奥に向かい、本棚と本棚のあいだにひっそりと存在している扉を開いて誰かを呼びつけている。やがて座席部分が赤いベルベットで作られている木製の丸椅子がふたりの前に置かれた。
「どうぞどうぞ。中華街では何か食べましたか?」
「いえ」
「じゃ、出前を取ろう。何がいいかな」
「角煮が入ったラーメンってありましたっけ」
藪から棒に稟市が口を開いた。秋は一瞬ぽかんとした様子で両目と口を開き、それからにっこりと、本当に嬉しそうな笑みを浮かべた。
「食べたいものがはっきりしている人は好きです。響野くんは何がいいのかな?」
「あー……ラーメンいいですね、でも俺点心も食べたい気分……」
「いいでしょう、いいでしょう。全部頼みましょう。さあ、選んで!」
秋が差し出すスマートフォンには、大手出前サイトの注文画面が開かれていた。響野と稟市は遠慮なく食べたいものをカートに入れ、最後に秋が「わたしはスイーツの気分だな」と何やら甘味を追加して、注文ボタンを押した。
「市岡さん、いや先生と呼ぶべきですか? 弁護士さんにお会いする機会があまりなくて」
「ただの市岡で結構ですよ」
出前が届くまでのあいだ、秋は雑談をして過ごすことに決めたらしい。部屋の四方を埋め尽くす本棚の前をぶらぶらと歩きながら、咥え煙草で市岡に問いかける。
「先ほど。わたしの手を取るのを迷いましたね、なぜです?」
直球だ。また響野の背中を汗が滴る。びしょびしょである。真夏でもないのに。
稟市は3秒ほどの沈黙ののち、
「あまりにも……」
と言って黙った。紫煙を本棚に向けて吐き出した秋が、
「あまりにも?」
と先を促す。
「汚れていた? 汚かった? 鉄の匂いがしましたか?」
「いえ」
秋は、見るからに美しい。多少の汚れさえも秋の身に降りかかるものであれば、それもまた秋という存在を磨き上げるためのエッセンスとなるだろう。
響野と同じ感想を抱いているのかどうかは定かではないが、そうではなく、と稟市は慎重に言葉を選んでいる様子で答えた。
「あまりにも、死人の数が多くて」
「死人?」
応じる秋の声は大きすぎて、少し裏返って聞こえた。大声を出したその勢いで眼鏡を外してデスクの上に放り出した秋は、大股でベロアの丸椅子に腰掛ける稟市に迫ると、
「死人! 死人! 死人ですって? ここには私とあなたと響野くんしかいないというのに!?」
芝居がかった所作。だが腹を立てているわけではない。秋は、楽しんでいる。
対する稟市の横顔は真剣だ。横浜に出発する際、祖父からの伝言を響野は彼にかなり強めの口調で伝えてある。
(絶対に秋さんの機嫌を損ねないでください。あの人を怒らせたら、ヒントも助言も何も得られないどころか、最悪こっちの動きをすべて妨害される可能性さえある)
あー、と稟市は彼にしては珍しく髪をくしゃくしゃとかき回し、視線を泳がせ、それから目の前に仁王立ちになっている秋を見上げた。
「信じてもらえるかどうか分からないんですけど、私には、死んだ人間の姿が見えます」
「……死人の?」
眼鏡を取り払ったことで藍色がさらに鮮やかになった秋の目が、じっと稟市を見詰める。
「幽霊ということですか?」
「そうですね、その呼び方でも間違いはないかもしれません。大抵は、この世に未練がある人の姿です。やり残したことがある、心残りがある、でも──いちばん多いのは、理不尽な暴力によって命を奪われた人たちです」
「……」
秋が無言で腕組みをする。稟市は続ける。
「彼らは常に見つけてもらう機会を待っています。たとえば以前、こんなことがありました。私の故郷で年長者から性的暴行を受け、自死を選んだ子どもがいました。私の故郷は大変な田舎で、加害者の家は所謂名家と呼ばれる家系、被害者の家族はそうではなかったため、事件にはなりませんでした。恐ろしい話でしょう?」
「……続けて」
「亡くなった子どもは……少年は私の同級生でした。私は、その事件を機に弁護士を目指すことを決意しました。家柄が理由で誰にも守られない者がいるのなら、私が守りたいと思って。そうして私は故郷を離れ上京し、大学に通い、卒業し、とある弁護士のもとでインターンとして働いていたのですが──そんな時です、加害者の男に出会ったのは」
秋はいつの間にかスチールテーブルの上にあぐらをかいている。続けて、とその顔には大きく書かれている。
「偶然でした。その男は私が師と仰ぐ弁護士が教鞭を取る大学で、教授だか助教授だか……なんだか分からないけどとにかく仕事をしていたんです。その男を見た瞬間、私も見られました。死んだ同級生にです。同級生はあの時受けた暴行の恐怖を忘れることができなくて、忘れるために死んだのにそれでもまだ逃れられなくて、助けてくれ、と私に目で訴えて来ました。恐ろしかったですよそりゃあ。でも私は、あの目のために弁護士になったんです。その、加害者の男が手を出した子どもはひとりやふたりじゃありませんでした。3桁です。そのうち半分が死んでいて、全員が私を取り囲んだ。それで私は独自に調べ始めたんです、加害者の罪を……いったい何人の子どもを手にかけたのかを、自分の情欲のために、何人の未来を踏み躙ったのかを」
「調べた結果、どうにかなりましたか」
秋が尋ねた。そこで初めて、稟市はくちびるの端を歪めて笑った。
「原告がいない裁判は成立しません。だから私は私刑を選びました。幸い協力してくれる者がいたので、彼とともに加害者をクルマに乗せ、男が子どもを手にかけた場所すべてを訪ねて回った。私には、少しの時間であれば幽霊の記憶を引き受け、それを更に他者に渡すこともできます。子どもたちが抱えるつらい記憶を逐一引き受け、加害者の頭に流し込んでやりました。全員分終わらせるのに半年近くかかったし、私も……断片的にとはいえ彼らの苦しみを追体験した私も正直無事ではなかったけれど、全部終わった頃にはすべての死人たちが姿を消していました。やり遂げたのだと思っています。今でも」
秋が大きく息を吐いた。そうしてゆるりと首を横に振り、
「
「違います。すべては私の自己満足です」
「そう言い切れるあなたのことをわたしは既に好きになり始めています。ねえ市岡さん。この部屋には何人の死人がいますか。何人が秋を恨んでいますか」
稟市は答えなかった。黙って部屋の中を見回し、難しいです、と呟いた。
「その質問に答えるためには、あまりにも時間が足りない」
「気に入った」
パチン。秋が指を鳴らす。
「市岡稟市。あなたを気に入った。あなたが何をしにここまでやって来たのか今の私にはまるで分からないけれど、秋でよければ手を貸しましょう。望みをなんでも仰ってください」
響野は内心、快哉を叫びたい気持ちだった。第二関門突破だ!
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