2話 市岡ヒサシ

 山田の訥々とした語りを、ヒサシは頭を抱えて聞いた。

「最悪……」

「どのあたりが最悪なのか教えてもらおうか」

「全部! 全部ですよ!」

「ありゃいったいなんなんだ? 何か名前のある妖怪なのか? 小豆洗いとかみたいに」

 ふたりは逃げるようにホテルをチェックアウトし、適当に捕まえたタクシーで適当な繁華街まで走り、目に付いた喫茶店に飛び込んだ。山田がモーニングを食うというのでヒサシも便乗した。運ばれてきたトーストとサラダはそれなりにボリュームがあった。

「小豆洗いじゃないです……」

「一反木綿みたいな?」

「違う妖怪の名前を出せば当たると思わないでくださいね……っていうか山田さんの妖怪の知識はどこからきてるんですか……」

「水木先生」

「分かりました、俺もファンですけど取り敢えず水木先生から離れましょう。あのホテル大丈夫かなぁ」

 トーストをふた口で食い終え、サラダを飲むように平らげた山田が小首を傾げている。口が大きい男はセクシーでいいとか誰かが言っていたような……とどうでもいい記憶を脳内にゆらゆらと浮かべながら、ヒサシは文字通り嘆息した。

「俺のスマホぶっ飛んじゃったんで、どっかで新調してもらっていいっすか」

「経費で落ちるかね……」

「あーじゃあもう山田さんが撮影した画像見せてください! それで説明しますんで!」

 半ばヤケクソになって喚いたヒサシは、喫茶店に入る前にコンビニで買った煙草の箱をテーブルの上に置いた。封を切り、紙巻きを一本抜き出し、火を点ける。揺れて天井に消えていく煙。いつもの匂い。落ち着く。落ち着け。落ち着いて挑め。

 そうじゃないと死ぬ。

「──あ? 黒松」

 スマホを取り出した山田が小さく呟いた。着信があったらしい。

「はい山田──ああ? 誰だてめえ。俺? 俺は玄國会の山田徹だなんか文句あるか。これ黒松のスマホだろ、黒松何してんだよ。──はあ? ?」

「!」

 話の全貌は見えないが、厭な予感がした。

「──ああ。そう。分かった。──それは好きにしな、黒松の問題だから。別に。そんな話をする仲じゃない。──ああ? それ以上言うと個人的におまえの家に火ぃつけに行くからな。クソガキが。ガキはガキらしくお使いだけしてろ、馬鹿」

 スマホの向こうでは黒松の番号から発信してきたらしい誰かが怒り心頭といった様子で喚き散らす声がヒサシにまで届いていたが、山田は涼しい顔をして通話を終えた。

「なんだっけ?」

「すごい煽ってましたけど大丈夫なんですか」

「あんなの煽りのうちに入らないだろ」

「そうかなぁ……」

 コーヒーを啜りながら眉を下げるヒサシを山田は楽しげに見やり、

「黒松の野郎が犬に咬まれて入院した」

 とさらりと言った。ヒサシは、口に含んだコーヒーが変なところに入って激しく咽せた。

「なん……!?」

「傷自体は大したことがないらしいが、なぜか。その上本人は昏倒したっきりうんともすんとも言わないらしい。なあ市岡先生、こりゃいったいどういうことだ?」

「市岡先生って呼ばれるのは弁護士の俺のお兄ちゃんなので俺のことは普通にヒサシとか市岡とかと……って、あれ? 山田さん?」

 先ほど、黒松のスマホを使用していると思しき誰かとのやり取りのあいだで、ひとつ気になることがあった。

「それ以上言うと家に火をつけるとか言ってましたけど、ちょっと物騒すぎませんか?」

「そうか? 普通だろ」

「普通かなぁ。何言われたんですか」

「詮索好きな坊やだな。黒松が俺の名前で押さえたホテルのカードキーを持ってたけどどういうことだって訊かれたんだよ」

 山田も煙草に火を点ける。ふたりで縮こまるようにして座っている喫茶店の角の席が、紫色の煙で包まれる。

「ああ、黒松さんのクルマに置いてきたっていう──」

 煙の向こうで山田が微笑んでいる。こうして、黙って笑っていれば岩角とは別の方面で整った顔立ちの男だった。40代らしい渋さもあるし、片腕がないのもなかなかのチャームポイント──

「んなわけねえわ!」

「あ? いきなりでけえ声出すな」

「じゃなくて! 山田さん、あんたわざとやったでしょう!?」

「何を?」

 笑みが深まる。ようやく気付いたか、馬鹿め、とでも言いたげな顔付き。

 この男は、本当に悪辣だ。

「山田さん、自分も咬まれるかもしれないって思ってましたね? 予想してましたよね? ?」

「名探偵になれるよヒサシくん」

 パチパチパチ。山田の右手が空を切り、音のない拍手を贈ってくる。全然嬉しくない。

「そう。岩角の運転手のヤタベ、岩角のツレの宍戸、それに黒松のところのマルヤマ、咬まれたのは前のふたりだけだが、マルヤマの首をおまえは神様を作るために切られたものだと言ったよな」

「言いましたけど」

「なんで最後まで説明しなかったんだ? おまえがきちんと話をしていれば、黒松も咬まれなくて済んだかもしれないのにな」

「責任転嫁やめてもらえますか。山田さんには、次は自分が狙われるかもっていう自覚があったんですよね? それ俺に伝えないでそんな勝手に……」

 ヤクザと言い合いをしても意味がないと分かってはいる。だが実際黒松が咬まれた。黒松自身が狙われたというよりは、山田と間違えて襲われた可能性が高い。山田の証言を信じるならばこちら側にも訳の分からない子どもが姿を現しているし、つい先刻兄に事情を説明するのを妨害するかのようにスマートフォンを壊された。

「で、俺が撮った写真を見たいんだっけ?」

「話逸らさないでもらえますか」

「軌道修正しただけだよ」

「どういう根拠で、次は自分だって思ったんですか。山田さん」

「ほら、写真だ」

 片手で液晶画面を操作した山田が、テーブルの上のスマホをヒサシに向かって滑らせる。大きく舌打ちをして受け取った。

 そこにはベッドの周りに散る小さな足跡が写っているはずだった。

「……は?」

 子どもの顔が写っていた。女の子だ。日本人形のようなおかっぱ頭、一重瞼の黒目がちの瞳、象牙色の肌、小さなくちびるから歯が見えるほどに大きな笑みを浮かべている。


『ズッ友だょ』


 手書きの文字でそう書かれていた。字の色は赤だった。鮮血というよりは朱色に近い赤。


 子どもの傍らには、既に切り落とされた後のマルヤマの首が寄り添っていた。


 ヤバい。


 咄嗟にスマホをテーブルから叩き落とした。山田は顔色ひとつ変えない。

 液晶が、音もなく粉々に割れた。

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