三章
1話 山田徹
昨日の夜か。昨日の夜はうるさかったな。
おまえはさっさと寝ちまって。俺も一日色々面倒な目に遭ったからシャワーでも浴びて寝るかと思って。タオルと寝巻きはひとり分しかなかったが、おまえはどうせ使わないんだから良かっただろ?
で、まあシャワーを使って。出てきたら廊下の──そう、外だ。部屋の外の廊下。そこから子どもの声がする。こんな安普請のホテルにガキ連れてくるなんてどうしようもねえ親だなって思いながら時計を見たら午前2時。ガキが起きてる時間かよ?
声っていうか、笑い声だったな。ただ、笑い声にしては妙にはっきりと『言葉』になっているような気もした。矛盾してねえよ。どっちも俺の正直な感想だ。
その声と、廊下の絨毯を踏むパタパタっていう足音が、次第に近付いてくる。
ドアに耳を当てて聞いてた。気味が悪かったからな。足音と笑い声は、この部屋以外の部屋の前にも立ち止まってるようだった。立ち止まるんだよ。だからそう思っただけだ。外は見てない。立ち止まって、しばらく経つとまたパタパタが始まる。どんどん近付いてくる。おまえは寝てる。じゃあ俺はどうすりゃいいんだ。
そのうち、5分も経った頃かな、足音がこの部屋の前で止まった。
ノックされる。俺は無視する。
「いませんかー」
子どもの声だ。大人が子どもを模してるって感じじゃない。本当に小さな──俺は子どもに詳しくないからよく分からないけど、小学校に上がる前のガキってのはあんな声を出すんじゃないか?
「いませんかー」
足音がいくつあったかは、覚えていない。ただ声は、ひとつではなかったような気がする。重なって聞こえた。
覗き穴で外を確認しようと思ってやめた。ああ? そうだよ。怖かったからだ。違うな。厭だったからだ。ドアの外にこの世のものじゃない何かがいるのが、厭だったんだよ、俺は。
「いませんかー」
「いませんかー」
「いませんかー」
声が諦める気配は一向にない。この部屋に来る前は結構すぐ諦めていたのに。たぶん、最初っから俺らの部屋が目当てだったんだよな。
「いませんかー」
「いませんかー」
「いませんかー」
さてどうするか。ドアに額を押し付けて考える。考えて──いるうちに、妙なことに気付いた。
ドアが熱い。
さっきのおまえのスマホと同じだ。鉄板をガスバーナーで炙ってるみたいな、そんな感じで俺が触れている部分が急激に熱を帯びて、思わず、
「あちっ」
って声を上げちまった。
いませんかー、が止んだ。
10秒ぐらい経ったかな。もう少し短かったかもしれない。
「いるじゃん」
さっきまでの無邪気な声じゃない。子どもの甲高い声であることに変わりはなかったけれど、もっとどす黒い……少なくとも俺は聞いたことがない類の響きだった。
やべえ、と思ってドアを離れた。そのままベッドまで逃げた。背中の向こうでドアが開いた、ような気がした。振り向いてないから分からない。
おまえがぐうぐう寝てるベッドに飛び乗って、最悪おまえを突き落として様子を見ようと思ってた。なんだよ怒ってるのか? 先に寝るから悪いんだろ。でも、入ってきた──そう、入ってきたんだよ、子どもがひとり。男か女か? そんなの分かるわけないだろ。子どもだぞ。あ? そういう意味じゃねえよ。子どもだってことしか分からなかったんだよ。
とにかくその子どもは俺に向かって手を伸ばして、それからおまえを見てものすごく厭な顔をした。俺は子どもに詳しくないが、子どもってあんな顔するのか? ってぐらい厭ぁな顔だったね。なんか、汚物を見るみたいな。
それでそいつは俺だけをじっと見て、
「いるのに」
っていませんかーの時と同じ調子で言った。
「返事してよ」
って。できるかって思ったけど答えはしなかった。もう目は合ってたから今更視線を逸らすなんて真似はしなかったけど、とにかく会話をしちゃいけない、そんな感じがした。
それからそいつはベッドの周りをうろつき始めた。何を考えているのかは分からないが、俺の目をじっと見たまま右に左にうろうろして、なんで返事してくれないの、はいれないじゃん、って独り言みてえにぶつぶつぶつぶつ。俺にはただそいつの視線を受けることしかできなかったが、そこで、ああ気付きたくなかったね。
なんでずっと目が合ってんだよ。
そいつの首、ぐるぐる回ってるんだよ。だからベッドの右に行こうが左に移動しようが目と目が合ったまま。なんでだよ。あの首どうなってるんだ。っていうかマジでこの世のものじゃねえじゃんか。
無理だ、と思った。本当にガスバーナーでドアを焼かれたなら、それでどっかのヤクザや殺し屋がカチ込んできたなら勝ち目はある。別に片腕がなくても喧嘩はできるからな。でも首がぐるぐる回る子どもの相手はできない。だから、もう最終の手段のつもりで、爆睡してるおまえの肩に手をかけた。
「やめて」
子どもが言った。
そこでようやく俺はそいつの視線から解放された。どうやら縛られていたらしい、と気付いたのもその瞬間だ。怪異ってすごいな。人間の動きをここまで制限できるなんてな。だが、やめてって言われてやめられるわけないだろう。こっちにはこれしか対処方法がねえんだから。
無視しておまえの肩を掴もうとした。そうしたら、
「やめて!」
「ねえやめてよ!」
「ずるいよ!」
「知らなかったのに!」
「ずるい!」
「大人なのに!」
「どうしてそんなことするの!」
「ひどい!」
「やめて!」
「やめて!」
「やめて!!」
四方八方からこうだ。声だけじゃない、変な耳鳴りまでしてきて頭が爆発するかと思った。なんでこいつ、こいつら? か? とにかくあんなにおまえのこと嫌がるんだ、訳が分からない、でも、だが──結局譲ったのは俺の方だった。
「出てけ」
初めて声を出した。自分でも薄気味悪いぐらい掠れた声だった。
「今すぐ出てけ、二度と来るな」
ガキは──すごい目で俺じゃなくておまえを睨んでいたけれど、やがて入ってきた方へと消えて行った。ドアが閉まるバタン! っていうでっかい音がした。ドアを焼いて穴を開けたわけじゃなかったみたいだな。
時計は見てないけど、午前……3時とか。丑三つ時ってやつじゃねえの。知らねえけど。しばらく起きてたけど、そのうち馬鹿馬鹿しくなってきて寝た。もう来ないって自信もあったしな。あの子ども、おまえのことがめちゃくちゃ嫌いみたいだし。
まあ、そんな感じだったね、昨日の夜は。
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