2話 市岡ヒサシ

 玄國会本部を辞すヒサシを玄関先まで見送ったのは、見も知らぬ男だった。彼もまた岩角と同世代、40代半ばぐらいだろうか。左腕がない男だ。肩から先が抉れたように空っぽになっていると服を着ていてもすぐに分かった。真っ黒い髪を短く丸めており、頭の形の良さが奇妙に印象に残る。

「何かありましたら、まず私に連絡を」

 と、男は右手で名刺を差し出した。

「岩角さんの代理ってこと?」

「いえ」

「じゃあ勝手にだ。バレたら俺殺されない?」

「あなたと俺がそうならないために、です」

 低く耳触りの良い声だった。名刺の名前を確認すらせずデニムの尻ポケットに押し込み、市岡ヒサシ、と名乗った。それからつらつらと11桁の数字を暗唱すれば、わかりました、とだけ言い残して男は屋敷の中に戻って行った。ヒサシは駅に戻り中央線に揺られ、新宿駅で下車した。

 やがて落ちる夕日を片目に人波の中をゆっくりと歩く。歌舞伎町のど真ん中。一階は無料案内所、二階はフィリピンパブ、三階には雀荘が入っている雑居ビルの地下に用事があった。『純喫茶カズイ』と書かれた鉄製のスタンド看板が、無料案内所のド派手な幟の側に愛想なく置かれていた。

「ちすちーっす」

「いらっしゃい」

 狭い店だ。カウンターにはせいぜい三人、テーブル席がふたつあるがそれぞれに二人連れが入ればいっぱいになってしまうような店だった。カウンターの中では、銀髪の老人が紙巻き煙草を咥えていた。

「あーっ煙草。ここ煙草吸えるんすねえ」

「なんだ、久しぶりだなおまえ。そうだよ、わざわざ役所に届けを出したんだ」

「サイコー」

 カウンターのいちばん奥の席に座り、飢えた犬のような気持ちでシャツの胸ポケットから煙草の箱を取り出した。老人──この店の店主マスターがマッチを渡してくれる。

「おまえ、東京出てったんじゃなかったのか」

「やだなぁ、結構前の情報っすよマスター。大学中退して、都内は家賃も高いしね〜って引っ越しして……。でももうそれから10年は経ちますよ」

「そんなに?」

 訝しげな目をする店主にふふふと笑い、早口で今の住所を告げる。

「埼玉か。近いじゃないか」

「はい」

「だったらもっと顔を出せ。死んだのかと思った」

「俺は意外と死なないんですね。俺以外は死にますけど」

「そうか。難儀だな」

「相変わらずです」

「相変わらずだな」

 頼んでいないホットコーヒーが出てきた。学生時代、ホストのアルバイトをしていた頃、ヒサシは毎日のようにこの店に顔を出していた。何せ朝10時から翌朝6時まで営業しているのだ。こんなありがたい店はない。もちろん店主ひとりで回していたわけではなく、午前スタッフと夕方〜夜スタッフを雇った上での営業形態だ。店主はだいたい15時ぐらいにふらっと店に現れ、それから閉店までが彼の時間だった。

「バイトの子たちは?」

「もう辞めた」

「じゃあ今は?」

「夕方から朝までだ」

「ふーん……」

 コーヒーを舐め、煙草を吸う。人を待っていた。


 小一時間が過ぎた頃、店の奥でバン! という大きな音がした。手洗いがある方向だ。店内に自分以外の客がいる気配はしなかったのだが──とヒサシは目を細める。

 音の方向から現れたのは、どこからどう見ても寝起きにしか見えない、乱れ切った蓬髪の若い男だった。

「あ? 響野きょうのくん?」

「ヒサシさん……?」

 待っていた男だった。


「えーこの店の奥に部屋あんだ! 知らなかったぁ!」

「ちょっとヒサシさん、絶対泊まりに来ないでくださいよ。もともとはじいちゃんの仮眠室だったんだから」

「だったら響野くんが住んでるのも変じゃん変じゃん家に帰りなよ〜」

「俺はいいんですよ、孫だから」

「差別〜!」

「違います! とにかくだめだから! おじいちゃんも奥の部屋にヒサシさん入れないでよ、絶対」

「はいよ」

 響野憲造きょうのけんぞうは純喫茶カズイの店主の孫であり、フリーライターでもある。年の頃はヒサシより少し若いぐらい。今はカウンター席に座って、祖父お手製のカレーを食べている。

「それでぇ……俺に用事ってなんですか、ヒサシさん」

「いやちょっとヤクザに仕事頼まれちゃってさあ」

 店舗の最奥にひっそりと存在している仮眠部屋で頼まれものの記事を書いていたのだという響野の眠たげな目が、電流でも流されたかのように大きく見開かれる。

「ヤクザ? なんで? ヒサシさんって基本こっち」

 と両手を胸の前で垂らし、つまり幽霊を意味しているのだろうが、

「じゃないです? 生きてる人間関係ないでしょ?」

 ものすごい早口だ。基本についてはどうやら何か勘違いをしているようなので置いておくことにして、

「この人知ってる?」

 カウンターの上に滑らせた岩角の名刺を、響野ではなく店主が拾い上げた。

「……やめとけ」

「あーん、カズイさーん。返してくださいよ一枚しかないんだから〜」

岩角こいつは駄目だ。仕事は断れ」

「カズイさんんんん〜〜」

 手を伸ばしてじたばたと身を捩るヒサシを、傍らの響野が呆れたように見遣った。

「岩角遼から仕事を請け負ったんですか? 馬鹿なの?」

「ちょっ響野くん年長者に対してその物言いはどうなのかな!?」

「年長者とか関係ねーし。俺だったら死んでもあの男には関わらないですね」

 カレーを食い終わり煙草に火を点けた響野の顔から、睡魔はすっかり消え失せていた。代わりにあるのはその道に精通した人間による心底『厭だ』という感情だけ。

「岩角さんってそこまでなの?」

「そこまでがどこまでのことなのか俺には分からないですけど、生きているうちに関わらない方がいい人間ランキングベスト3に入るのは間違いないですね」

「残りの2人も気になるなぁ。でも俺としてもシカトするわけにいかない案件なんだよね」

「俺は本当に協力したくないし、じいちゃんのことも巻き込まないでほしいんだけど」

 鉄製の灰皿に煙草を押し込みながら、響野が尋ねる。

「一応聞きます。何が起きたんですか?」

 兄である稟市には守秘義務がある。弁護士だからだ。しかし、弟のヒサシにはそのようなものはない。職業がヒモだからだ。なのでヒサシは、宍戸クサリの殴打事件と岩角遼から聞き取った舎弟の連続不審死について、知っていることをすべて話した。個人名もバンバン出した。伏せたところで混乱を招くだけだ。祖父と孫はカウンターテーブル越しに視線を合わせ、ふたりして大きく溜息を吐いた。血の繋がりを強く感じる動きだった。

「クソバカですね」

「誰が? 俺?」

「他にいますか? 知らん顔してれば良かったんですよ」

「え〜、そういうこと言う? 困ってる人がいたら手を差し伸べるのが人間ってもんじゃない?」

「ヒサシさんは人生に於いて真人間だった瞬間が1秒もないのが売りでしょう? それなのになんで急にヤクザの話を真に受けてこんな事件の調査なんかしてるんですか?」

「ぐう……」

 響野の言葉はそれほど間違ってはいない。市岡ヒサシは真人間ではない。倫理や正義が良く分からない。面白いかどうかだけで動く。その結果周りで死人や怪我人が出てもあまり気にしない。どうでもいい。世界の大半が本当に、どうでもいい。

 だが宍戸クサリが謎の人間(人間かどうかも定かではない)から殴打を受け、搬送され、入院し、殴打とは関係のないところで全身に咬み傷を負った。そして咬み傷について、病院で知り合ったヤクザから興味深い話を聞き出すことができた。今のヒサシは十分、この事件に関与している。

「岩角さんはどの辺が駄目なの?」

「恨みを買いすぎてるんですよ。岩角遼、ヒサシさんほんとになんも知らないんですか?」

「響野くんみてーなアングラ雑誌記者とは違うから俺……陽の光の下しか歩いたことがないから……」

 中指を立てる孫に代わり、岩角遼は、と祖父が静かに口を開いた。

「もともとは殺し屋だ」

「へー」

では、殺し屋で始まった者は本来ならば殺し屋で終わる。だが岩角は、どういうわけだか出世した」

「ふーん」

「ヒサシさん、じいちゃんの話真面目に聞けよ」

「聞いてるよ。でも急に殺し屋とか言われても俺ピンと来ない」

 祖父と孫が再び嘆息する。先ほどの溜息とは違い、「言うだけ無駄だ」という諦めの色が見て取れる。

「とにかく、岩角の周りには数えきれないほどの恨みの感情が渦巻いている。近くにいる人間がそんな風に……ヒサシさんが聞いてきたみたいな殺され方をしたって聞いても、俺やじいちゃんは全然驚かないよ」

「まあ……そうね……特技『人に嫌われること』っていうタイプだなとは思ったけど」

 新しい煙草に火を点けて、ヒサシは呻いた。

「でも俺調べるって約束しちゃったからなぁ」

「ヒサシさん約束破るの得意じゃん!」

「岩角さんの悪口は好きなだけ言ってもいいけど俺のこと人でなしみたいに言うのやめてほしい」

「マジで人間性がゴミクズ」

「ありがとう。褒め言葉です。それで俺はどうしたらいいのかな? もう調べない方がいい?」

 響野がうんざりと首を振ったタイミングで、店内に置かれている電話がけたたましく鳴った。ナンバーディスプレイで相手を確認した店主が、孫とそっくりな目をして受話器を上げる。

逢坂おうさか

 短く名乗り、あとは相手が喋るのを無言で聞いている。1分ほどで通話は終わった。

「ヒサシ」

「ういす」

「おまえ、大阪に行ってこい」

「でえ? なんで?」

「切り立てほやほやの生首が出たってよ」

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