二章

1話 市岡ヒサシ

 関東玄國会の本部事務所が四ツ谷にあるということを、市岡ヒサシは今回の事件にぶつかって初めて知った。先の宍戸クサリ殴打事件の際に出会ったヤクザ、岩角遼から呼び出しがあったのだ。

 その辺の喫茶店かどこかで会おうと提案したら、そんないい加減な場所で話せる内容じゃないと電話越しに激しく叱責され、四ツ谷に来いと命令された。ヤクザと関わりを持つのはこれが初めてではないが、岩角は中でも特に嫌なタイプだなとヒサシは思った。


 四ツ谷駅からタクシーで15分ほどの場所にあるだだっ広い日本家屋が、関東玄國会の本部事務所だった。会長の自宅も兼ねているのだという。立派な門扉の前で徹底的に持ち物チェックをされて、カバンの中に突っ込んであった釘抜き用のバールを没収された。

「いざとなった時に使うのに〜」

「組事務所にバールなんか持って来るな」

 岩角は苛ついていた。通された客室──にしてはやたらと広い和室で、ばかでかい座卓を挟んでふたりは座っていた。ヒサシは座布団の上で早々に足を崩し、あぐらをかいた。

「ヤクザさん」

「岩角だ」

「宍戸さんは無事退院しました。会いたければ会えると思います」

「そうか」

「警察にも事情聴取はされたらしいですが、犯人は分かんないって言ってました」

「あの建物には」

 と岩角は言う。殴打現場となった神楽坂のマンションのことだろう。

「防犯カメラが設置されている」

「その映像も確認したらしいっす」

「犯人の姿が映ってただろ?」

「いえ、無人でした」

 さらりと言い切った。岩角が両目を見開く。驚いた顔も美しい男だった。怖いな、と思う。この人は本当に美しくて、自分の美しさを分かっていて、それをどう使えばどのような結果が出るかまできちんと理解しているタイプの人間だ。しかもヤクザだ。その辺に野放しにしておいて良い生き物ではない。

「無人?」

「生きてる人間の姿は映ってなかったですねえ」

「見たのか?」

「はい」

「どうやって」

「企業秘密です」

「感じの悪いガキだな」

「良く言われますがもう30になるのでガキではないですね」

「クソガキ」

 吐き捨てた岩角が煙草に火を点ける。灰皿は彼の手元にしかない。これ見よがしにポケットから取り出した煙草の箱をテーブルの上に置いてみたが、灰皿がこちらに回ってくる気配はなかった。ライターも出したが無駄だった。すごく性格が悪いのだと思った。

「生きてる人間の姿は映ってなかった?」

 煙を吐きながら、岩角が小さく反駁した。そう。それに気付けるとは。

 ヒサシは少しだけ笑う。綺麗で、性悪で、頭の良いヤクザ。綺麗な人間にはできれば愚かであってほしいとヒサシは思っている。自分の美しさになど無頓着で、何かこう暇を持て余した金満家にお小遣いをもらってふわふわと揺れるように生きていてくれれば最高だ。悪知恵が働く美形は──最悪だ。できれば今すぐ死んでほしい。

「じゃあ何が映ってたってんだ」

「その前にこれを」

 ヒサシは手元に置いていたスマートフォンを、机の上に滑らせた。岩角が訝しげな顔で液晶画面を覗き込み、すぐに長いまつ毛を大きく揺らした。

「……クサリ、か?」

 煙草を片手に、男は茫然が呟く。ヒサシは大きく首を縦に振る。

「はい」

「どういうことだ」

「それについては、調べてみないと」

 液晶画面に浮かび上がるのは、病室の白いベッドの上にあぐらをかいて座る上半身裸の宍戸クサリの写真だった。背中から二の腕にかけてびっしりと極彩色の刺青を入れている彼は、他者の前では絶対といっても良いほど服を脱がない。着替えの必要がある際にも、わざわざトイレや個室で服を脱ぐほどだ。だが、今回はそうも言ってられなかった。

 咬み跡があった。

「宍戸さんを昏倒させたのは、彼を背後から殴打した誰かです。頭の傷のせいでしばらく意識を失っていました。その誰かが人間なのかどうかについては要検討といったところです。一旦横に置いておきます。それでは──体に残っているこの咬み傷は、いったいなんなんでしょう?」

「俺が知りてえよ」

 芝居がかった物言いに明らかに苛ついた様子で、煙草のフィルターを噛みながら岩角が唸る。ヒサシは肩を竦める。

「調べてみないと」

 単調に繰り返せば、

「調べろ。今すぐ。金は払う」

「俺は探偵じゃないんで」

「じゃあ探偵を雇え。そいつのギャラも俺が払う。とりあえず幾らあればいい? 一本? 二本? もっとか?」

 早口になるヤクザをじっと見詰め、

「なんでもお金で解決できると思わない方がいいですよ」

 と、ヒサシはぽつりと呟いた。白皙の美貌が紅潮する。怒りと苛立ち。岩角遼というヤクザのことをヒサシはほとんど知らない。もうひとつ付け加えるならば、宍戸クサリという元弁護士についても、兄の友人であるという以上の情報を持ち合わせていない。誰も彼も、ヒサシにとっては他人なのだ。単に愉快そうだからという理由で他人事に首を突っ込んでいる。悪趣味だという自覚はある。ついでに言えば愚かなのかも。別にいつ死んだっていい。そういう人生を、ヒサシはそれほど嫌っていない。

「あんま調子に乗ってんじゃねえぞ、ボーヤ」

「もう30ですって」

「……この建物から生きて出られる自信があるのか?」

 脅しめいた物言いに、ヒサシはくちびるをへの字に曲げる。

「出られなかったら大変なことになりますねえ」

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