7話 市岡ヒサシ

 兄、市岡稟市いちおかりんいちの友人であり元弁護士の宍戸クサリが何者かの手により暴行を受け病院に搬送されたという連絡を受け、多忙な兄に代わり、弟のヒサシが宍戸が入院する病院に足を運んだ。到着した病室の前ではヤクザと一般人が激しく舌戦を繰り広げており、ヒサシは、彼にしては珍しく来る場所を間違えただろうかと眉間に皺を寄せた。

「あ! 市岡さん!」

 ヒサシを呼ぶ声は女性のものだった。きょろりと辺りを見回せば、廊下の真ん中で喧嘩をするヤクザと一般人の影に隠れて艶やかな黒髪が揺れていた。

酒々井しすいさん」

「ご無沙汰してます。市岡さんも、宍戸さんのお見舞いに?」

「はい。兄の代わりに。というか、今日は、いったい……?」

 酒々井耀とは何年か前に関わった事件で面識があり、今も時候の挨拶を送り合う程度の仲だった。今は宍戸クサリの職場でもある舞台の関係者として仕事をしていると聞く。彼女が宍戸のお見舞いに来ているのは、何も不思議ではない。

「だからねおねえさん、俺はクサリが弁護士時代の雇い主で……」

「つまりヤクザってことでしょう? うちの宍戸はヤクザとはもうすっぱり縁を切っているんですよ。お帰りください」

「クソッ埒が開かねえ……あっそこの人! そこの背が高い人!」

 揉めているのは細身のスーツに身を包んだ異常に顔の美しい40代ぐらいの男性(黒いマスクのせいで目元しか見えないが顔の造形については間違いなく美しいと断言できるレベルだった)と、彼より少し小柄な背筋の凛と伸びた60代ぐらいの白いマスク姿の女性だった。男性の周りにはジャージやそれに類するダボダボの服を着たいかにもそれっぽい若い衆が数名待機しており、見るからに反社会感を醸し出している。対する女性の側には腕っ節はあまり期待できないが喋り出したら強そうな風情の年齢性別バラバラな人間が控えていて、この喧嘩、最後まで見守りたいなとヒサシは不謹慎な思いを抱く。

「背が高い人! あんただよ! あんただろ、クサリの友だちの弁護士!」

 ヤクザに呼び付けられてしまった。不安げに視線を彷徨わせる酒々井に軽くウインクをし、

「はい! 市岡と申します! 兄は弁護士ですが私は弁護士ではありません、申し訳ない!」

 と、元気に喧騒の中に飛び込んだ。

「は? 弁護士じゃねえの?」

「申し訳ない、兄は今案件地獄の中におりまして……」

「友だちの見舞いにぐらい来いよ」

「なので代わりに私が参りました!」

「他人事みたいに言ってるけど、あんたが殴ったんじゃないの? ヤクザ」

 口喧嘩相手の女性が勢い良く参戦してくる。強い。

「だーかーらー、俺はクサリに依頼をしていたんですよ! 殴るわけないでしょう!」

「ヤクザの言うことなんて信じられると思う?」

「一般的に信用はできませんね!」

 間髪入れずに女性の意見を採用するヒサシに、ヤクザがいかにも苛立った様子で鋭い舌打ちをする。

「どっちの味方なんだよ!」

「正義の味方です」

「それはおまえじゃなくてアニキだろ?」

「兄は……兄はそんなに言うほど正義の味方ではないですね……」

「なんなんだおまえたちは!」

 ヒステリーを起こしかけている美貌のヤクザに、とりあえず、とヒサシはそっと顔を近付けて囁いた。ヒサシの方がヤクザより10センチほど背が高い。

「今日はお引き取り願えませんか? 私が宍戸さんに直接お話を伺い、ヤクザさんのお見舞い日をきちんと調整しますので」

「……」

 胡乱な目でヒサシの顔を見上げたヤクザは再び舌打ちをすると、

「岩角だ」

 と金箔が押された名刺を一枚ヒサシの手の中に押し付けた。

「どうも。市岡ヒサシです。これはお兄ちゃんの名刺です」

「他人の名刺を勝手に配るな。……おまえの連絡先も書け」

「細かいっすね」

 兄の名刺の裏に自分の電話番号とメールアドレスを記すと、それをスーツのふところにねじ込んだヤクザ──岩角は静かに病室前を去った。その場の空気が、露骨に緩んだ。


 舞台関係者たちの見舞いの後、ヒサシは病室に入った。6人部屋で、ベッドはすべて埋まっていた。宍戸はさほど重傷ではないらしい。

「おまえか」

「ヴェンちゃんのご飯と、軽く掃除もしてきたよ」

「助かる」

 宍戸と暮らしている猫・ヴェンはもともとはヒサシの知り合いの保護猫団体から譲渡された猫だ。ヒサシは独居独身の宍戸の後見人として宍戸の自宅の鍵を預かり、有事の際にはヴェンの面倒を見るよう依頼されていた。

「寂しがってなかったか?」

「超〜〜〜〜〜〜寂しがってた! めっちゃ噛まれた!」

「ヴェンが? あいつ、人を噛んだことなんて一回も……」

「宍戸さんが帰ってこないからムカついてるんだって。あるあるだよ。稟ちゃん家の猫も機嫌悪い時俺のことだけ噛むもん」

 ヒサシの兄である稟市も自宅で雌の黒猫と暮らしている。ヒサシは彼女のことが好きだが、先方は言葉も動きも騒々しいヒサシのことを鬱陶しく思っているらしく、いつ遊びに行っても歓迎されない。

「ところでヤクザの人が来てたよ、もう帰ったけど」

「岩角か」

「知り合い?」

「弁護士時代の」

「ふーん」

 ベッド脇のパイプ椅子に腰を下ろしたヒサシは気のない声を出す。元々そこまで興味はないのだ。

「また来るって」

「分かった」

「ていうかあの人に殴られたんじゃないよね?」

「……ああ。違う」

 宍戸の応えに滲む微かな惑いに、ヒサシは眉を片方だけ跳ね上げる。

「別に俺には隠さなくてもいいけど」

「隠してない。隠すようなことはない。俺が殴られた時、あの人はたぶん部屋で寝てた」

「そうなの?」

「酒を飲んでたからな」

 部屋で、一緒に、と宍戸が短く付け加え、ヒサシは聞こえなかったふりをする。宍戸と岩角の関係がどうでも、別に自分には無関係だ。興味本位で詮索するつもりもないし、そもそも興味がない。

 今いちばん気になる話題は、誰が宍戸を殴ったか、だ。

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