6話 宍戸クサリ
「噛み跡?」
「そう。噛み跡」
「……恋人である女性にそういう趣味があった可能性は?」
「って思うでしょ。見て」
岩角は急に席を立ち、白い壁紙とまったく同じ色の壁掛け棚の上から茶封筒を持って戻る。
「俺におちんちんびんびんにしちゃったかわいそうなおまわりさんがこっそり渡してくれました〜」
「本当に可哀想」
「それはいいんだけど見て。これさ、人間が噛んでこんなことになるかね?」
酒とスナック菓子で荒れ放題のテーブルの上に投げ出されたのは、おそらく死んだヤタベという男の写真だった。司法解剖の際に撮られたものを横流しさせたのだろう。一糸纏わぬ姿で冷たい台に乗せられた男、ヤタベは見るからにまだ若い。20代になったばかりと推察できる。目を閉じてはいたが、顔が露骨に歪んでいた。苦痛に耐えている顔だ。
そして傷。岩角の言葉通り、彼の全身には噛み跡と思しき無数の傷跡が残されていた。そしてこれは──
「犬、か?」
宍戸は少年時代、近所で飼われていた大型犬に腕を噛まれたことがある。狼にも良く似たその犬の牙は信じられないほど鋭く、宍戸は病院に搬送され8針縫う羽目になった。宍戸の両親がまるで騒ぎ立てなかったため犬もその飼い主も咎めを受けることはなく、犬は殺処分になることもなく天寿をまっとうしたと何年か前に小耳に挟んだ際、それはそれで良かったと宍戸はひとり安堵したものだった。傷は、宍戸の左腕に今も残っている。
「似てませんか」
シャツを捲り、左腕を突き出して言う。今はもう傷というよりはケロイドのように引き攣れた跡が残っているだけだが、
「似てる……気もするけど、断言できない」
「ですよね」
噛まれたばかりの傷と、手術という処置を受けたのち20年近い年月が経過した傷とでは見た目がまったく違う。それぐらいは宍戸にも分かっている。ただ、犬に噛まれた瞬間のあの光景を思い出したのだ。皮膚に食い込む鋭い牙、溢れる血、激痛。
「それで、宍戸先生にはもうお分かりかと思うけど」
丁寧な手つきで写真を封筒に片付けながら、岩角は続けた。
「三件続いてる」
「は……」
間の抜けた声しか出せなかった。目を大きく瞬く宍戸をじっと見上げた岩角が、また手酌て酒を追加する。
「俺だけじゃない。そこそこの立場の幹部が目をかけた若手、が、ヤク打たれた上で殺されてる」
「なん……どういうことです、それは」
「変なことが起きてるって言っただろう。そういうことなんだよ」
事件の異常性もあり、未だ報道には乗っていない。岩角たち玄國会も組織を上げて犯人を探しているが、今のところ相手に繋がりそうなものは何も出てきていないのが実情だ。
「ちょっと待ってください。俺は確かに元弁護士ですが──それだけです。今はただの舞台監督ですよ。探偵じゃない」
「探偵の知り合いとかいねえの?」
「俺にはいません」
「じゃあいるやつを探せ。そんで何が起きてるのか調べさせろ」
酔ってない酔ってないと岩角は繰り返すが、見るからに良くない酔い方をしている。目が据わっている。これは、そろそろこの家を発たないと大変なことになる。
「宍戸」
「待って……一度持ち帰って検討を」
「こっちは4人殺されてんだわ。検討してる暇なんかねえよ」
宍戸の二の腕をがっしりと掴んで迫ってくる岩角の髪は乱れ、目元は薄らと赤らんでおり、酒で濡れたくちびるはいっそ官能的ですらあった。取り調べ室で逆に情報を奪われたという若い警察官の気持ちも理解できなくはない。今だって、大昔の宍戸であれば目の前に餌を置かれたイヌのように大きく尻尾を振っていたことだろう。
だが、あの頃の宍戸クサリはもう死んだのだ。
「持ち帰ります! そして俺は帰ります!」
「クサリ!」
「連絡します、それで勘弁してください!」
ほとんど逃げるようにリビングを飛び出し、玄関を出、エレベーターを待つ時間さえ惜しくて階段を使ってエントランスに降り立った。息切れがひどい。目の前も少し揺れている。やはり水に何か混ぜ物をされていたのではなかろうか。
電車に乗って稽古場のある町まで戻り、自家用車を回収する必要があった。だが今の宍戸にはその気力は残されていなかった。タクシーを呼ぼう。それでまずは帰宅して、猫を撫でて、シャワーを浴びて眠ろう。
(そうだ、その前に)
岩角から解放され次第、稽古場の皆に連絡を入れると約束していたのだ。エントランスを出て夜風を浴びたところでようやく落ち着きを取り戻した宍戸は、ポケットからスマートフォンを取り出す。稽古場のグループを選び、宍戸です、とまずテキストを送る。
ご心配をおかけしましたが、無事です。詳しい事情は次回のけいk──
そこまで入力したところで、宍戸は意識を失った。何者かが宍戸の後頭部を殴打したのだ。
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