4話 宍戸クサリ

「御出所おめでとうございます」

「あーうんうん。ありがとう。宍戸先生もその節は面会に来てくれて」

「あなたが呼び立てたんだと記憶していますがね」

「そうだっけ?」

 クルマがどこに向かっているのか、宍戸にはすぐに分かった。神楽坂にある岩角の別邸だ。宍戸も弁護士だった頃、しばらくセキュリティが万全なそのマンションに暮らしていたことがある。あの当時の宍戸と岩角は、毎日のように互いの部屋を行き来していた。まるで兄弟のように、友だちのように。岩角のクルマはスモークガラスを採用しておらず、そのため赤信号で停車すると外から中の様子が丸見えになる。それを楽しむかのように、岩角は白皙の美貌を宍戸の肩に預けて言った。

「ちょっとさぁ。本当に相談があるんだよね」

「以前も申し上げましたが、私はもう弁護士ではありませんよ」

「でも弁護士の友だちはいるだろ?」

「友だちもいません。いるのは知人と同期だけです」

 その知人と同期も、宍戸が玄國会の顧問弁護士として働くようになってからはほとんどが離れて行った。当時は薄情な連中だと立腹し、岩角に優しく慰められては悦に入っていたものだが、今思えばただの馬鹿だ。冷静に考えて、ヤクザと昵懇になっている、いやこれでは言葉が美しすぎる、ズブズブの仲になっている、べったりと依存しきっている、そんな人間とは付き合いを続行したくないと考えるのが正常だ。間違っていたのは宍戸なのだ。

「じゃそれでいいや。モモウラ、俺たち降ろしたら帰っていーよ」

「はい」

 運転手が初めて言葉を発した。外見よりもだいぶ若い声だった。

 予想通り、神楽坂のマンション前で降ろされた。オートロックを解除した岩角は踊るような足取りでエレベーターホールに向かう。それにしても美しい男だ、と宍戸はスマホのロック画面に並ぶ無数の通知を横目で確認しながら思う。ヤクザにしておくには勿体無い、と言っては失礼かもしれないが、彼がなぜヤクザになったのかまったく分からない。宍戸よりもひと回り近く年上だと雑談の際に聞いた覚えがあるが、だとしても何か──何か他に道はなかったのだろうか。良く分からないけれどたとえばスカウトとか。青年、少年期の岩角が原宿なり渋谷なりを闊歩していれば間違いなく芸能事務所やモデル養成所なんかから声をかけられたに違いない。人前に立つ職業だけが光の当たる場所だとは思わないが、岩角は頭だって良い。一応元弁護士の宍戸よりよほど頭の回転が早い。その頭脳を活かす生き方はなかったのだろうか。なぜヤクザを選んだのか、岩角のピンと伸びた背筋、優雅な歩き方、恐ろしいほどに整った顔を見るたびに宍戸は首を傾げてしまう。


 岩角の部屋には相変わらずなにもなかった。暗い廊下を抜けた先のリビング。目を痛めない程度に白い壁、灰色の床、その中央にはステンレス製の丸テーブルと、椅子が4脚置かれている。部屋の右手には見るからに安っぽいソファベッド。透明な背の低いテーブルの上には白いマグカップがぽつんと置かれており、その向こうにはやはりそれほど高値には見えないテレビ台があった。ここまでは宍戸がこの家に出入りしていた頃となにも変わっていない。テレビだけが新調されていた。

「なんかー、壊れちゃって。テレビ」

 宍戸の視線に気付いたのか、キッチンに立つ岩角が独り言のように呟く。

「俺はなくても構わないんだけど、テレビ好きな人と暮らしてたことがあっからさあ……ないのもなんかねえ……」

 昔は岩角のこういった物言いにもいちいち悋気していた。一緒に暮らしていた『テレビ好きな人』に対して勝手な妄想を繰り広げ、のたうち回っていた。馬鹿みたいだ。今はもう特に感想はない。強いて言うなら、この家にいることがほとんどない岩角にしてはずいぶんいいテレビを買ったんだな、ぐらいだろうか。彼は別段吝嗇家ではないが、使わない物や自分にとって必要でないものに対して大金を払ったりはしない。逆に言えば、大切な物や気に入っている相手に対しては、惜しみなく金を使う。テレビ。何の象徴なのだろう。

「宍戸先生はストレートだっけ? それともロック?」

「昨日死ぬほど飲んだんで今日は水で」

「つまんねえな〜。昨日はなんだったの? 合コン?」

「そんなの行くほど若くないんで。仕事の打ち上げですよ」

「つまんねえな〜」

 繰り返して岩角は笑い、両手にグラスを持ってリビングにやって来る。座って、という言葉に従って壁際の椅子に腰を下ろした。出窓の外の空は赤い。酒を飲むには早すぎる。

「乾杯」

 差し出されたグラスをさっと避け、手の中の液体の匂いを嗅ぐ。おそらく、間違いなく、水だ。

「疑ってんの?」

「疑わない理由がありますか?」

「ひどいな。昔の宍戸先生はあんなに可愛かったのに」

 昔は昔だ。今も同じだと思わないでほしい。とはいえあの安っぽいソファベッドの上で岩角の膝に甘えてわんわん泣いた記憶だとか、逆に情緒不安定になった岩角を抱きかかえて深夜のショッピング番組を見ながら朝を待った思い出が消え去るわけではないのだが。

「なんですか」

「ん?」

「相談」

「ああ」

 それね。岩角は短く応じ、キッチンから持ってきた酒を手酌で己のグラスに注ぐ。手持ち無沙汰の宍戸は、テーブルの上に無造作に並べられたスナック菓子を開けた。

「宍戸先生案件かどうかは微妙なんだけどね」

「誰かを無罪にしろとか、逆に長いあいだ檻の中に留めておけとか、そういうのは無理ですよ、もう」

「前は頑張ってくれたのになぁ〜」

 前は前、今は今だ。それが分からない岩角ではないだろうに。

 結い上げていた髪を下ろした岩角が、白い額に落ちてくる黒髪を鬱陶しげに払い除けながら言った。

「なんかさ、変なことが起きてるんだよね」

「変?」

 唐突だった。岩角はまだ酔うてはいない。宍戸が開けたスナック菓子の袋に手を突っ込み、つまみ出したちくわの唐揚げのような形状の菓子を口に放り込み、

「何これうっま……はちみつの味する……」

「韓国のお菓子みたいですね」

「そうなの? どこで買えるの?」

「ドンキ……」

「ドンキかぁ! 俺行かねーからなあ。誰かにまとめ買いさせとこ〜」

 では今ここにあるこのお菓子はいったい誰が買ってきたのかという疑問が宍戸の脳裏を過るが、深く詮索しても意味がない気がして黙っておくこととする。メッセージを送信し終えた岩角は、何かを完遂したような満足げな顔をしていた。

「お菓子の話をしたいだけなら帰りますけど」

「あー待って待ってって。宍戸先生、俺と別れてからせっかちが増したんじゃない? 話はちゃんと聞こうよ」

 水を飲み、スナック菓子の袋に手を入れたらもう空だった。岩角の味覚は少し子どもっぽいところがある。仕方なく席を立ち、他人の家のキッチンを勝手に覗いた。冷蔵庫の中に卵、牛乳、なぜか砂糖と塩。あとは酒。さらに漁ると小麦粉と油が出てきた。

 ホットケーキが焼ける。

 ガス台下の収納スペースからほとんど使っていないらしいフライパンとボウルを取り出して、宍戸は一心不乱にタネを作り始めた。酒を片手にキッチンにやって来た岩角が物珍しげにこっちを見ている。

「何見てるんですか」

「いや、前はそういうのはしなかったなって」

「は?」

「飯作ったりとか。……そりゃそうか。俺らいつも外で食ってからここに来てたもんな」

「飯じゃないですよ。っていうかバターあります?」

「ないよ」

「じゃあ買って来てください」

「俺が!? やだよ。モモウラに頼もっと」

 岩角は早々にキッチンから去り、スマホに向かって「バターとメイプルシロップとホイップクリーム買って来て!」などと喚いている。モモウラの苦労が思いやられる。

 ホットケーキが完成するタイミングで、モモウラが頼まれ物を手に部屋を訪れた。岩角は上がっていくようにとすすめたが、申し訳ないので、と言って去ってしまった。

「嫌われてるんですか」

「俺のこと好きなやつなんていないよ〜」

「自覚あるんですね」

「能ある鷹は嫌われるんだよ」

「そんなことわざは存在しません」

 焼き上がったホットケーキを岩角はいかにも美味そうに食った。卵と牛乳は賞味期限の範囲内だったが、それ以外については怖いので確認していない。後で腹を下したとクレームを付けられても面倒だな、と頬をリスのように膨らませる岩角を眺めながら宍戸はぼんやりと考える。

「うまかったー」

「それはどうも」

「そんでなんだっけ?」

 そもそもは宍戸自身の空腹を満たすために焼いたホットケーキだったが、気付けば半分以上を岩角が食っていた。まあ構わないのだが。

「変なことが起きてるとか、なんとか」

「それだ。忘れてた」

 忘れないでほしい。

 使い終えた食器をキッチンに運ぶ宍戸を横目に、岩角はまた酒を飲んでいた。

「飲み過ぎでは」

「いいのいいの。酔わないから」

 これは以前から言っていた気がする。アルコールがほとんど効かないらしい。「嫌なことがあっても酒飲んで忘れよ、って人が羨ましいよ」とその時も酒を食いながら岩角は言っていた。

「変なことって何ですか」

 椅子に座り直し、宍戸は尋ねた。岩角がニヤリと笑う。

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