3話 宍戸クサリ
宍戸の前職は弁護士である。三浪して入学した国立大学をほとんどお情けで卒業し、その後紆余曲折を経て師事した相手がヤクザなど所謂反社会的勢力と称される人々の人権問題に取り組む弁護士だった。
確かに、飯にも金にも困ることはなかった。宍戸がようやく一人前の仕事をできるようになったあたりで師匠の綾鳥が自死し、彼が引き受けていた関東玄國会の顧問弁護士というあまりにも大きな肩書きがふところに転がり込んできた。宍戸は躊躇うことなく、その立場を利用した。金を儲け、金のために無茶な裁判を行い、とにかく全身全霊を関東玄國会に捧げた。
「俺はね、宝石」
当時岩角が良く口にしていた台詞だ。
「宝石ってね、全部が全部あんな風に光るわけじゃないんだよ。分かるかな宍戸先生? 磨かれて、それなりの形に整えられて、そこでようやく価値が出てくる」
岩角の言葉は、少なくとも当時の宍戸には難しすぎた。理解できたのは、彼は、彼自身をうまく使おうと寄ってくる考えなしの幹部たちにもこうやって詭弁を吐いて、逆に彼らの地位や権力を我が物顔で使っている。そういう人なのだろうなということだけだった。
「宍戸先生だって事務所に来る道中、落ちていた石を踏んだり蹴ったりするでしょう? その中に宝石が混ざってるって考えたことは?」
ない。あるはずがない。宍戸にとって道端の石は所詮ただの石でしかない。
「良く見てみなよ。もしかしたらダイヤの原石があるかもよ」
そんなはず──あるはずないだろうと笑い飛ばすことはできなかった。なぜなのか、未だに答えは出ていない。酒が並々と注がれた青く透けた華奢なグラスを片手に、岩角遼は微笑んでいた。ダイヤの原石。宍戸にとっての岩角は、既に大変な価値がある美しい宝石だった。幹部たちはまだ気付いていないのだろうか。いつ気が付くのだろう。もしかしたら永遠に分からないままなのかもしれないな。
「バカだから」
迦陵頻伽の如き声で岩角は笑った。
「バカな連中は俺の価値に気付かない。自分がどれほど光り輝く宝石を胸に抱いているのか分からないまま年を取って死ぬか、年を取る前に誰かに刺されて死ぬのさ。不憫だねえ。そう思わない? 宍戸先生」
思わない。少しも不憫ではない。それは、自業自得だ。見る目がなかった己自身が悪いのだ。
言えば、岩角は驚いたように長いまつ毛を揺らして、
「宍戸先生って意外と冷たいんだ」
「冷たい、ですか」
「弁護士さんってみんなに優しいのかと思ってたよ。綾鳥先生みたいにさ」
だが綾鳥は死んでしまった。優しかったから死んでしまった。
「そうだね。優しい人間が損をする世の中に俺たち生きてるんだもんね。ねえ宍戸先生、俺のことどう思う? 俺は、宍戸先生にも美しく見える?」
美しい男だと思った。こんな人間がこの世に存在しているなんて知らなかった。宍戸は岩角の犬になった。彼のためなら死んでもいいと思った。背中に極彩色の迦陵頻伽の刺青を入れた。宍戸の逞しい背中を見て、岩角は花咲くように笑った。宍戸先生、もう銭湯とか温泉に行けないね。白魚のような指で背中を撫でる岩角に、内風呂がある宿に泊まればいいんですよと宍戸は答えた。岩角の桜の花びらのようなくちびるが、背中に触れた、ような気がした。確かめなかった。確かめる必要もなかった。
その結果が弁護士資格の剥奪だ。戒告をすっ飛ばしての業務停止処分。よほど悪質な人間だと思われていたのだろうし、今振り返ってみればあの頃の宍戸クサリという人間は本当に最悪だった。弁護士資格を持っている意味が分からないし、人間としても底の底にいた。
2年。2年待てば再び弁護士として活動できるようになる、はずだった。だが宍戸はその2年を捨てた。弁護士でいることに意味も意義も見い出せなくなっていた。宍戸は玄國会を辞した。何らかの妨害行為や報復を受けるかもしれないと思っていたが、何もなかった。玄國会はすぐに新しい弁護士を見つけた。所詮は使い捨てられる存在なのだ。
若い頃そうしていたように肉体労働で金を稼ぎ、倦むような日々を生きていたら通りすがりの中年女に声をかけられた。ねえあんた、演劇に興味ない? それが宮内くり子との出会いだった。当時宍戸は、仕事の休憩時間に近くの公園で飯を食いながら毎日本を読んでいた。古本屋で一冊100円で売られている文庫本。何年も前に一生を風靡した「○回泣きました」という惹句のフィクションも、旧仮名遣いで書かれたサルトルの哲学書も、なぜ100円になっているのか分からない新進気鋭の劇作家の戯曲も、とにかく買ったものすべてを読んだ。宍戸がヤクザから金を浴びているあいだに、世の中はこんなにも動いていたのだと知った。宍戸が生まれる以前に刊行された古い作品もあったから一概にそうとも言い切れないのだが、知らない言葉、知らない光景に触れる度に宍戸は打ちのめされた。俺は、なにを、していたのだ。ヤクザの靴を舐め、命じられるがままに有罪の者を無罪に、無罪の者に罪を着せ、端金を受け取っては浴びるように酒を飲んでいた、あの日々。
当時読んだ古本は、今も宍戸の自宅の本棚にきちんと並んでいる。面白いものもあったしつまらないものもあった。でもそういうのは関係なく、宍戸は全ての作品を手元に置いた。古本たちはちょうど50冊で増えるのをやめた。50冊目。『100年抗争!関東玄國会vs関西東條組!』というタイトル、週刊誌に連載されていた記事をまとめた本を読んでいる最中に宮内にナンパされたのだ。その日の終業後、宍戸は宮内に招かれるままに彼女の行き付けのバーで酒を飲んだ。他人と酒を飲むのは久しぶりだった。それで宮内は言った。あんた毎日あそこで本読んでるでしょ。デュボアの戯曲はどうだった? それも古本で買ったものだった。後から聞いた話だと宍戸が手に入れたものは初めて日本語に翻訳されたデュボアの戯曲、それもデビュー作だったとのことで作品としてのクオリティは高くなく、その上翻訳があまり正確ではなかったせいでどの劇団にも歓迎されず、書籍としても大して売れずに大量の本が古書店に流れたのだという。
「面白かったですよ。変なところもあったけど」
「どこが変だった?」
宮内と連絡先を交換し、終電前に解散した。稽古場に遊びに来ないかと誘われるのはそれから更に二週間後のことで、宍戸の人生はひとりの女の手で大きく軌道修正されることとなる。
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