2話 宍戸クサリ
「宍戸さん! 宍戸さん!!」
「宍戸さん……!」
稽古場が入っているビルの契約駐車場にクルマを放り込み、外に出た瞬間待ち構えていた水見にしがみ付かれた。彼の後ろには舞台美術を担当している
水見と酒々井は共に仕事をするようになってからの日は浅いが、共に30代前半、兼業スタッフということで意気投合し、自宅や昼間の仕事先の場所が近いという理由で頻繁に食事やお茶をしているという話だった。宍戸には女性の友人と呼べる存在は多くないが、水見と酒々井がお互いを「友だち」と称するのに異論を唱える理由はない。そのふたりが、晴天の下涙目で宍戸を待ち受けていた。
「見て、見てください、あれ絶対ヤクザでしょ!?」
大柄な宍戸を盾にして水見が囁く。酒々井もコクコクと首を盾に振っている。どれ、と駐車場から徒歩1分の場所にある稽古場ビルに視線を向けると、そこには道幅の狭さを完全に無視した馬鹿でかい国産車が停まっていた。色はもちろん黒。鬱陶しいほどに磨き上げられた車体に、見覚えがあった。
「なんでヤクザがうちの稽古場にぃ……」
ひょろりとした痩身、長髪を編み上げ顔中に数え切れないほどのピアスをぶら下げている水見はしかし温厚な男であった。ただ、温厚すぎるので若い頃はよく同級生や先輩、もしくは道端ですれ違っただけの訳の分からない連中に絡まれ、金を巻き上げられることさえあったという。それを回避するために水見が選んだ手段が、ピアスとタトゥーだった。幸いあまり痛みを感じない体質だったので、とくちびるで光る銀色を撫でながら彼は笑った。結構全部大丈夫でした。タトゥーもイカすでしょ?
水見のタトゥーはすべて手の甲からシャツを捲って見える範囲までに留まっており、彼がそれらを「虫除け」と呼んでいることを宍戸は知っている。
傍らに立つ酒々井は、チームの中でも比較的新人と呼ばれる存在だった。とはいえ彼女がチームに属するようになってもう5年以上は経っている。主宰の宮内は実に気まぐれな女で、自分が心底気に入った人間でなければどんなに有名な俳優でも、いい腕を持つスタッフでも、決して稽古場にも現場にも入れようとはしない。その宮内がほとんど一目惚れで招いたのが酒々井耀だった。彼女は美大生時代に恋人を事故で亡くしており、その決して良い思い出とはいえない出来事が酒々井と宮内を繋いだ。不幸中の幸い、と当時の彼女は口癖のように言っていた。くり子さんに誘われてなかったら、私は後追いしてたはずだから、と。小柄で華奢、生後一年以内の猫を思わせる風体の酒々井は最近烏の濡れ羽色の髪に橙色のワンポイントカラーを入れた。ほら、私、現場で埋もれちゃうから、と彼女はどこか言い訳めいた口調で笑った。目立っておきたいな〜って。
酒々井は現場で埋もれたりしない。宍戸も宮内も同じ意見を持っている。舞台監督の宍戸と共に仕込みを行い、その時々によるが事前に描いてきた背景を設置したり、その場にブルーシートを敷いて張り物や箱馬を彩る酒々井はひとりの職人だ。実は宮内が仕切るチームの外からも酒々井にはラブコールが相次いでいるのだが、宍戸の独断でほぼすべてを断っている。理由はある。
「ヤクザだ」
宍戸は小さく吐き捨て、水見と酒々井にはこの場で待機するよう伝えた。自分は足を踏み出し、大股で国産車に近付く。
窓をノックする。ゆっくりと防弾ガラスが下がる。運転手の顔に見覚えはない。
「宍戸ぉ」
だが、後部座席から響く声には覚えがあった。
「
低く唸る。後部座席から笑い声が聞こえる。間違いない。
後部座席の窓が開く。広く座り心地の良さそうな椅子に、仕立ての良いスーツをみっともなく着崩した男が長い腕足を伸ばして座っていた。
酒々井の髪が烏の濡れ羽色なら、岩角のそれは嵐が通り過ぎた後の夜空の色だった。豊かな黒髪をうなじが見えるぐらいの高さで結い上げ、銀縁の眼鏡の奥、表情は笑顔なのにその瞳はまるで底無しの沼のようで、その沼が迷うことなく己を引き摺り込もうとしていることに気付いて宍戸は心底うんざりした。
この男が嫌いだ。
「今からちょっといいかな? おまえに会いにわざわざこんなところまで来たんだぜ」
岩角が言う。浮かれた声だった。
宍戸は顎で稽古場ビルを示し、
「俺の仕事場なんですけどね」
「知ってる」
「これから仕事なんですけどね」
「それも知ってる」
「俺が、行かない、って言ったらどうするつもりなんですか」
運転席に座る、丸顔で大柄な男が飛び出してくるかと思った。見たところ彼は運転手と岩角のボディガードを兼ねている。だが運転席の扉が開く気配はなかった。岩角がコロコロと笑った。
「あっちの──駐車場に隠れてる子、どっちも可愛いね。男の子も女の子も。それにいつも時間ギリギリに駆け込んでくる子、あの子もいい顔してるよな。おまえのとこって顔採用なの?」
「そんなはずないでしょう」
「ああいう子たちをどこに売ればそれなりの値段が付くかを俺は知ってる。足が付かないやり方も、知ってる。俺のこと、おまえだって良く知ってるだろ?」
ため息が出た。脅し文句としてはあまりにも陳腐。だが岩角は今口にしたことを迷わず実行に移す。移せるタイプのヤクザだ。迷わない、怯えない、立ち止まらない。才能だ。
「宍戸先生にさ、ちょっと相談があるんだよね。時間作ってもらえないかなぁ」
再びのため息。聞こえよがしのそれを、岩角は蕩けるような笑顔で無視した。相変わらず美しい男だった。
「連絡入れてからでもいいですか」
「警察はやめてよ、久しぶりに出てきたんだから」
「望んで入ってたくせに良く言いますね。まあいい。仕事場の連中に、今日は欠席っていうことだけ伝えます。それから、通報はしないようにとも」
「みんな、聞いてくれるかな〜?」
それ以上喋っているのも馬鹿馬鹿しくなってデニムの尻ポケットからスマホを取り出した。水見と酒々井、それぞれのアカウントに今これからこの場を離れるが心配しないように、今日はミーティングを欠席するが決して大事にはならないから安心するように、解放され次第ミーティングの参加者全員に連絡をするので重ね重ねにはなるが心配はしなくて大丈夫、という旨のメッセージを送信した。宮内をはじめとする他メンバーには現場を見ている酒々井と水見が口頭で伝えてくれるだろう。メッセージに既読が付くのを確認し、
「乗せてもらえますか」
「どうぞ」
岩角の隣に、背中を丸めて座った。彼と並んでクルマに乗るのは何年振りだろう。もう10年は経っただろうか。あまり考えたくはない。
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