一章
1話 宍戸クサリ
13時まで寝ていた。
目が覚めたら13時だったというべきか。
アラームをかけていた午前8時から実際の起床時間である13時までのあいだに、幾度か飼い猫が寝室にやって来たのをうっすらと記憶している。呼びかけても顔を叩いても一向に布団から体を起こそうとしない同居人にうんざりしたらしい飼い猫は、今はリビングでいちばん日当たりの良いソファの上で香箱を作って目を閉じている。
「おはよう、ヴェン」
同居人である
「今日、は……」
宍戸とていつもいつもこんな風に惰眠を貪っているわけではない。朝起きて仕事をし、夕方また別の場所で仕事をし、場合によっては夜遅くまで仕事をしている。今日は特別だ。宍戸はフリーの舞台監督として生計を立てている。少し前までは舞台監督だけでは食って行けず並行して色々なアルバイトをしたり、肉体労働に精を出していたのだが、この数年でようやく実績を認められ、舞台の仕事一本でやっていけるようになったのだ。昨日はテレビや映画などでも活動している男性俳優が主宰するカンパニーの千穐楽で、打ち上げということで朝まで酒を飲んだ。ヴェンに留守番を任せている我が家に帰宅したのは午前4時。シャワーを浴びてベッドに入ったのはその1時間後、午前5時。
リビングのテーブルに置きっぱなしにしていたスマートフォンには、未読のメッセージが幾つか溜まっている。まずは主宰の男性俳優。打ち上げからの帰宅のタクシーの内から送ったものだろう。今回初めて組んだ宍戸の仕事ぶりへの評価と、次回彼が主催するイベントのスケジュールが添えられている。半年後。喜んで拝命することとする。他には現場で一緒になった音響、照明など各スタッフからのお疲れ様メッセージ、それに誰とは言わないが一部の人間からは個人的に飲みに行きたい、また会えないかというラブコールもあった。こちらは要検討とする。宍戸は今の自分の仕事を気に入ってはいるが、それに恋愛や性欲といったものを絡めるつもりはなかった。面倒だからだ。
「くり子さんのとこのミーティングか」
宮内が主宰するチーム(劇団ではなく、チーム。常に誰かがいて、常に誰かがいない、そういう奇妙な形態のチーム)は3ヶ月後に公演を控えていた。宮内は外国語、特にフランス語と韓国語に堪能で、その国で上演されたばかりの最新作を自ら見に行き、演出家や作家、エージェントと交渉し、自分で翻訳をして公演するのが好きだった。だが、今のこの時勢である。日本から出ることもままならない状態で、宮内が久しぶりに戯曲を書き下ろすことになった。公演を行う劇場自体は3年前から押さえていた。
「デュボアの新作をやりたかったんだけどねぇ」
宍戸の仕事ぶりを劇場まで見にやって来た宮内は、大層残念そうに言った。アドン・デュボア。宮内の贔屓であり、個人的にも懇意にしているフランス人の劇作家である。一応は性別不明の覆面作家ということになっているのだが、宍戸は以前デュボアが来日した際宮内の運転手として面会しており(宮内は大変な酒豪で、デュボアとも西新宿の居酒屋で合流した)、先方が宍戸よりもひと回りほど若い女性であるということを知っている。
さて置き。
宮内の筆は決して早くない。今もまだ脚本は三分の一程度しか仕上がっておらず、稽古と呼べるほどの稽古を行うことはできない。出演者とスタッフは週に3回稽古場に集まり、仕上がっている部分の読み合わせをしたり、音響スタッフが持ってきた音源に合わせて踊ったり、以前行った公演の映像を見て反省会を行ったりしている。稽古後の飲み会はしない。皆直帰する。稽古場には毎回、2時間程度しか滞在しない。
歯を磨きながらメッセージをすべてチェックし終えたところで、スマートフォンがまた何かを受信した。ピロン。未読のメッセージがあります。
口を濯ぎ、ヴェンの腹を軽く撫でてやってから一度閉じたアプリを再び開く。
『ししどさん』
『みずみです』
『やばいでs』
音響スタッフの
どうした、と返信しようとして、通話の方が早そうだと気付く。アプリの音声通話ボタンを押して──ワンコールもしないうちに切られた。
『でんわむり』
『何があった』
文字の変換を惜しむほどに急いでいるのに通話はできないというのはなかなかの異常事態だ。寝巻きを脱いで洗面所に置いてある籠に放り込み、箪笥から適当に引っ張り出したグレーのノーカラーシャツの袖に腕を突っ込む。
『はやくきて』
『けいkばのまえにy区座が』
早く来て、稽古場の前にヤクザが。
脱ぎ散らかしたままだったデニムを拾って履き、ヴェンに「留守番頼む」と言い含めて、サンダルを突っ掛けて家を飛び出した。稽古場までは電車で20分徒歩15分。道が空いていればクルマで15分。今は平日の昼間だ。クルマに飛び乗った。
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