思ひそめてむ人は忘れじ
カリカリカリとシャーペンの走る音がする教室。
教室といっても学校の教室ではありません。学習塾です。
エアコンはついているようですが、生徒の人数が多いせいか蒸し暑いです。
「
鬼のような形相の母に『夏休みの補講塾』と書かれた紙を突きつけられました。
「もう申し込みはしてあるから」
私には、やはり断る権利などありません。
唯一の救いは、同級生の幼馴染である
仲の良い友人がいる、それだけで安心感が違います。
席を並べている友人の横顔を見ていたら、彼女のクリッとした大きな瞳と目が合いました。
「あたし、この歌好きかもー」
まだ塾に慣れていない私のことを気遣ったのか、小声で話し掛けてくれました。
もちろん、彼女が言う『歌』とは流行歌のことではありません。
今は古文の授業中。先生の好みで選ばれたいくつかの短歌。
そのうちの一つが真希の心に刺さったようです。
『忘れじの 行く末までは かたければ 今日をかぎりの 命ともがな』
ざっくり言うと――、
私のことを忘れない、というあなたの言葉を先々までは信じられない。
だから愛されている今日のうちに死んでしまいたい、という歌です。
真希の幼馴染としては、彼女の将来が心配になるチョイスです。
「私はこっちが好き」
そう言って、私は板書からノートに書き写した短歌を真希に見せました。
『
こちらは、移り変わる世の中でも好きになった人のことを忘れない、という歌です。
「へぇ、沙苗がこんな歌をねぇ」
真希がニヤニヤしながらこちらを見ています。
うかつでした。やってしまった、と思いました。
先日の出来事のせいで、頭の中がお花畑になってしまっていたようです。
私はクラスの男子の半分も顔を覚えていません。
後ろの席に座っている男子の顔すら覚えていません。
異性に興味を持たずに約13年を生きてきました。
そして、そのことを幼馴染である真希は誰よりも知っています。
そんな子が急に「好きになった人のことを忘れない」という意味の歌が好きと言いだすなんて。
口にせずとも「私は恋をしました」と言っているようなものではありませんか。
「くわしく聞かせなさい」
私は覚悟を決めて、コクリと頷きました。
幼馴染からの尋問は塾から帰宅し、寝る準備を終えたところで始まりました。
買って貰ったばかりのスマートフォン。
入れたばかりのメッセージアプリに通話と表示されています。
「きゃーーっ! まるで王子さまみたい!! いいなぁ、いいなぁ」
スマートフォンの向こう側で、真希がはしゃいでいる声が聞こえます。
人とは、男の子が隣家の犬から助けてくれた、というだけの話でこれほど盛り上がれるものなのですね。
「でも、そんなイケメン。うちの中学にいたかなぁ? ちょっと盛ってない?」
真希は中学にいるイケメン全員をチェック済みだと言います。
同級生はもちろん、先輩も含めて全員です。
だから彼女が知らない以上、彼は同じ中学では無いのだそうです。
もしくは彼がイケメンじゃないか、の二択です。
まだ入学してから半年も経っていないのに、ものすごい自信です。
後ろの席に座っている男子の顔も覚えていない私とは大違いです。
「盛ってないよ。彼の顔だけはハッキリ覚えているもの」
「ふぅん。男子の顔を覚えられないことに定評がある沙苗とは思えないセリフだ」
「うぅ……」
これには何の反論も出来ません。
私だってどうして彼の顔だけは覚えていられるのか、論理的な説明を出来ないのですから。
「ふふっ。
「え?」
「好きな人のことだもの。特別に決まってる」
そう言った真希の声は、驚くほど真摯なものでした。
さっきまではしゃいでいた彼女と同一人物とは思えないほどに。
「そういうもの?」
「そういうもの」
全く論理的ではありませんが、真希が言うのだからきっとそうなのでしょう。
「なにか他に覚えていることはない?」
「うーん。スポーツバッグを持ってたから、運動部かもしれない」
「じゃあ、ユニフォームか、制服を着てたんじゃない?」
「ううん。半袖シャツにハーフパンツだったわ」
「じゃあ、部活じゃないよ」
「どうして?」
「夏休みでも登校は制服じゃなきゃダメ、部活には顧問がいるから特に厳しいの」
そういえば、一学期の終わりに先生がそんなことを言っていたような気がします。
私は部活に入っていないから関係ないや、と聞き流していました。
部活じゃないのに、彼はスポーツバッグを持ってどこに向かったのでしょう。
私にはひとつだけ、心当たりがありました。
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