【短編】愛さえあれば【6,000字以内】

石矢天

私の王子様



 皆さんは回覧板というものを知っていますか?

 地域の防災・防犯情報、町内会からのお知らせなんかが載っているアレです。


 都会ではもう死滅した文化なのかもしれません。

 でも私が住んでいる地域ではまだまだ現役で町内を回っています。




 ギラギラとした夏の陽が肌を刺してきます。


 私が回覧板を二軒隣のお宅へ届けるために家を出たのは、五分ほど前のことです。


 マンガを読みながらゴロゴロしているところを母に捕まりました。


 「沙苗さなえ、ヒマならこれ。持ってって。ほら、はやく」

 

 断るという選択肢はありません。母の命令は絶対なのです。


 しかし今、任務遂行における最大の障害が目の前に立ちはだかっています。


「ヴヴヴゥゥゥゥゥ……ワン! ワン、ワン!!」


 そう。それは犬!

 隣の家で飼われている犬!


 やつの名前はゴンタ。


 小学二年生の頃に追いかけられて以来、私はゴンタが大の苦手です。

 この春、中学生になったとはいえ、そう簡単に克服できるようなものではありません。


 回覧板を抱えたまま立ち尽くしている私の足は、ガクガクと震えていました。


 その弱気を察しているのでしょう。

 ゴンタは四本の脚をしっかりと地面に据えて、威をふるうかのように吠えます。


 私はゴンタの方を見るのも怖く、顔を伏せていることしか出来ません。

 視界に入っているのは回覧板だけです。


 夏祭りの日程。子どもばやし募集。やぐらを囲んで盆踊りをしているイラスト。

 かき氷100円、わたあめ200円、ビール400円、えとせとら、えとせとら。


 このままではいつまで経っても埒があきません。


「……だれか」


 回覧板に向かって放たれたその声は、小さく口からこぼれるばかり。


 ゴンタを刺激してしまったら……。

 そう思うと、助けてと叫ぶ勇気も出ないのです。


 昔からの大きな平屋が並ぶ田舎道。

 たとえ大声を出せたとしても、助けがくるとも思えませんが。



「コラッ! ゴンタ!! やめろ!」


 奇跡が起こりました。

 助けが現れたのです。


 背後から大きな声で怒鳴られて、ゴンタのからだはビクッと硬直しました。


 私が顔を上げると、ひとりの男の子が立っていました。


 半袖のシャツにハーフパンツという、とても夏らしい格好。

 キリッとした眉に、長いまつ毛。鼻はやや鷲鼻で彫りが深い端正な顔立ち。


 少し浅黒い肌は日焼けによるものでしょうか。

 肩からスポーツバッグをたすき掛けしています。

 もしかしたら運動系の部活に入っているのかもしれません。


 腰に手を当てて仁王立ちし、ゴンタをキッとにらむ表情はとても男らしく――。


 きっとこのとき、私は恋に落ちていたのです。


「もう大丈夫だよ」


 シッ、シッとゴンタを隣家へと追い返した彼は、ニカッと笑って言いました。

 彼の笑顔は、先ほどまでの凛々しい表情とは違う可愛らしいものでした。


「あ、ありがとう」


 私はまた回覧板を見ていました。

 こんどは恐怖ではなく、恥ずかしさで前を見られなかったのです。


「ここんのおばちゃん、ヒモの結びが甘いんだよな」

「ヒモ?」

「そう。首輪のヒモ」


 私は顔を上げて隣家を覗き込み、ゴンタを探しました。


 庭をグルグルと回っているヤツの首輪には、確かにヒモがありました。

 ヒモの先は何にも捕らわれることなく、ゴンタと一緒に地面を這っていましたが。


 犬小屋の側には木の杭があります。

 本来であれば、きっとヒモの先はここに結ばれているはずなのでしょう。


 お隣さんだというのに、私はそんなことも知りませんでした。

 ゴンタのことが苦手になってからというもの、なるべく避けてきたものですから。


 そもそもゴンタのことを知りたいなんて、これっぽっちも思っていませんし。


 今だって、ゴンタなんかよりも彼のことが気になって仕方がありません。

 せめて名前だけでも知りたい、そう思いました。


「あのっ……あなたの――」

「あっ! やべっ!! 早く行かないと!! じゃあ、気をつけてな!」


 彼は言うや否や、私の横を走り抜けて行きました。

 スポーツバッグが揺れて、カチャカチャと音を立てながら去っていきました。


 勇気を出して振り絞った私の言葉は、その場にふわふわと浮いたまま。

 走り去る彼を呼び止めるだけの勇気は、私にはありませんでした。


 でも私はそれほど落胆していません。

 だって彼はゴンタのことを知っていたのですから。


 名前まで知っているということは、きっと近所に住んでいるはずです。

 もしかしたら同じ中学校に通っているかもしれません。


 都会と違って、私立の中学校なんて洒落たものが無い土地です。

 このあたりの子供はみんな同じ小学校を卒業して、同じ中学校に通います。

 

 先輩か、もしかしたら同学年という可能性も。


 同じ学年ならさすがに分かるじゃないかって?

 いえいえ、私はクラスの男子の顔なんて半分くらいしか覚えていません。


 この前もやらかしたばかりです。

 本屋で声を掛けてくれた男の子に「あなた誰?」って顔をしたら、後ろの席の子でした。


 でも、今回は違います。

 彼の凛々しい表情も、可愛らしい笑顔も、しっかりと私の網膜に焼きつけました。



 ただ、ひとつ問題があるとすれば……いまが『夏休み』ということ。


 ドン、ドドン。

 祭囃子の練習であろう太鼓の音が青空に響きます。


 私は回覧板を抱えて走ります。

 二軒隣の家まで10秒もかかりませんでした。

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