第12回 誰だおまえは!最後の敵
「神の御名にて、神の御名にて。逆賊を討伐せよ」
大司教のその声の刹那、神官兵の隊列に巨大な獅子が踊り込んだ。
間近の者はただ見上げ、遠くの者は顎を落とした。四人を貫いた無数の照準は四方に散乱し獅子を追うよりも我先に逃げ出した。
辺りはまるで巨大な猫が戯れているような有り様だった。わしわしと肢を薙ぎ払うたび玩具の兵隊がぽんぽんと宙を飛んで行く。混乱した大司教は声を限りに叫んでいたが悲鳴はに可聴域にさえ届かなかった。
「あれは影よ、すぐに消えるわ」
ロゼールを抱いたハルタが二人にそっと囁いた。リリアーテが頷いて駆け出し、ハルタがその後に続く。クロエは床に突き立った
咆哮と銃声とようやく声になった甲高い悲鳴が背中で交差している。神官兵の密な隊形が災いし逃走も反撃も儘ならない様子だ。同士討ちさえ起きていた。
リリアーテは蹴破った翼廊を目指したが、駆け出してすぐ倒れた扉の向こうに犇く神官兵を見つけて多々良を踏んだ。大聖堂の封鎖はすでにここまで及んでいる。
背中のどよめきに振り返ると黒塵が見えた。辺りを見渡しリリアーテが唸る。
甲高い叱咤の声。一拍の後に破裂音。足許を掠めた弾が床石を散らした。
逡巡を断たれてリリアーテは踵を返した。柱の影を縫いながら奥の祭壇に走り込む。意図に気付いたクロエがハルタを追い立てた。背を庇いながら後ろを走る。
手招くリリアーテにクロエはハルタをロゼールごと石碑の裏に押し込んだ。
「重いったらありゃしない」
ハルタがロゼールを床の上に放り出した。言いつつ息を切らせてもいない。
「重くなんかない」
ロゼールが起き上がってハルタに叫んだ。
「たぬき寝入りか」
「ふてえ野郎だ」
クロエとリリアーテがロゼールを責める。
頭の上で石碑が散った。ぱらぱらと破片が降って来る。銃声は断続的に続いた。
とはいえ大司教が躊躇なく祭壇に発砲を命じたのは驚きだ。少しその敬虔さを見縊っていた。聖騎士ほどに容赦がないのか、それとも己の保身に見境がないのか。
間断のない一斉射撃はリリアーテらに逃走の隙を与えないというより石碑ごと砕けてしまえと捨て鉢になっている気がした。大司教には投降を呼び掛ける建前もない。どうやらこちらの抗弁を恐れ、ただ闇雲に殲滅しようと焦っている様子だ。
だが保身に走るのは配下の神官兵も同じらしい。石碑を回り込んで突撃するには装飾柱を越えて接近せねばならず、そうなればこちらの剣の届く距離だ。大司教もじき気付いて命じるだろうが、今は誰が生贄になるか互いに肘を突き合っている。
「ヤバイなこれ」
リリアーテが石碑の陰に蹲って呟いた。
こうも銃撃が酷くては舌戦に持ち込むのはおろか様子を窺うこともできない。石碑の端に目を遣れば降り散る破砕片でクロエも頭から真っ白になっている。
ロゼールはまだ頬を赤くしたまま内腿をもじもじとさせているし飄々としたハルタも杖が真っ二つに折れている。洗礼や魔神の力を借りるのは難しい状況だ。
「ハルタ、何とかして」
ロゼールがハルタの袖を引く。クロエとリリアーテが顔を見合わせた。こんなロゼールの甘えた声を聞くのは初めてだ。吹き出すか赤面するか表情に迷う。
ただ、ほんの皆が少しハルタの奇跡に期待してしまうのも確かだった。
俗世の双神も名こそあれここに御座すのは名を持つ四柱の大神だ。ハルタの神は寄る辺すらない。何よりこの大聖堂に於いて大司教の神威は絶対的だ。例え邪神教の代理神官に何らかの神霊術が使えたとしても大神の加護に敵うはずがなかった。
「あら、いいわよ。何とかするのは得意なの」
何それちょっと待ってそんなにあっさりとクロエとリリアーテがロゼールの方にに問うような視線を投げる。ロゼールは慌ててハルタの腕を掴んで引き止めた。
「皆殺しは駄目だ。エルアリーナで逃げた時みたいに何とかして」
「面倒なことを言うわね。まあいいわ。死ななければ良いのよね」
ハルタは徐に手を上げ指を弾いた。
唐突に一切の音が止む。神官兵たちが訝し気に不発の
誰もいるはずのない二階の聖歌隊席から大聖堂一杯に旋律が響いた。ハルタが光芒の中に立ち上がり皆に向かって両手を拡げる。ぽかんと口を開けて見つめる大司教と神官たちにハルタは謳うように囁いた。喉を擽るようなよく通る声だった。
ハァイ、どう元気かしら?
しっかり目と目を合わせてちょうだい
ロゼールがハルタの服を引いて石碑の影に引っ張り込んだ。
「長いのはいいからさっさとやって」
ハルタは不服そうに口を尖らせると、肩を竦めてもう一度立ち上がった。指先を聖歌隊席に向け気取った調子でくるくると回し、吐息のように鼻を鳴らした。
そう
困ったわね
死んで困るなんて台詞
アッチをしばらく使えないほど、そうね
…ぺしゃんこ
祭壇の前に列を成す神官兵が一様に手にした
ハルタの声が大聖堂を打った。
馬鹿は目の前が見えない
いつだって先が見えないの
そう、あそここがちょっと憤る?
んふふふ
馬鹿ねもう
手遅れ
大司教が甲高い嬌声を上げて跪く。辺り一面の誰も彼もが、ともすれば大聖堂を取り囲む神官兵までもが止めどなく転がり出す赤い玉の上に突っ伏して悶絶した。
大聖堂に音が戻り、陽が射した。床を埋めた赤い玉は消え、後には虚ろに目を見開き体中から汁という汁を垂れ流した無数の神官服が死屍累々と転がっていた。全て腎虚と成り果てている。それは見るも痛ましく、馬鹿々々しい光景だった。
「ほうら何とかなりました」
ハルタが笑って石碑の陰の三人を振り返る。ロゼールもクロエもリリアーテも顔を真っ赤にしてもじもじとハルタを睨む。どうやら影響なしと言う訳にはいかなかったようだ。ぐいぐいと無言で石碑から追い出され、しかたないわねとぼやいた。
ハルタはぶらぶらと歩き出し、石碑を振り返る。
「お着換え手伝ってあげましょうか?」
破砕式の神罰砲に撃たれ石碑は第三詩篇の痕どころか全ての詩篇が見る影もなく削り取られて真っ白になっていた。
アナタたちの信徒も容赦ないわねとハルタは呆れたように微笑んだ。
ハルタは白目を剥いて転がる神官兵の間をふわふわと歩いて回る。豪奢な丸い祭服を見つけて歩み寄った。六代神官サロモン・ジスカールが泡を吹いて悶絶している。ハルタは傍にしゃがみ込み、司教冠を拾ってサロモンの頭に被せた。
「あら?」
ようやく三人がハルタのところに駆けて来た。身支度とはいえ服の下だけで見掛けは変わらない。ハルタに訊きたいこともある様子だがその顔を見てもじもじと口籠る。ハルタは立ち上がって三人を迎えると大司教に目を遣って小首を傾げた。
「ねえ、この人も破門されてるわよ?」
え、と三人があんぐりと口を開ける。
「たぶんロゼールと一緒だと思うわ」
「それは、やはりあの詩篇のせいだろうか。猊下も地下で見た可能性があるし」
ロゼールは地下の祭壇にあった石碑の第三詩篇について指摘した。実はそれを見たせいで
「違うわよ」
あっさり否定してハルタは笑った。
「アタシのところに来たのはそのせいかも知れないけれど。だってほら、この子たちはまだアタシの信者じゃないでしょう?」
クロエとリリアーテに微笑み掛ける。二人は互いの目を探るように見合わせた。
「ロゼールったら、そのときには神霊術も使えなかったのでしょう?」
「そうだった」
ロゼールは間の抜けた顔で頷いた。
「じゃあ一体」
呟くも何かよからぬことを考えているような二人に気を取られた。勢いで道を踏み外さなければよいのだがと口許を曲げる。ふとその向こうに気配を感じた。
「アナタ見たじゃない。そうね、正確にはあそこになかったじゃない」
「ハルタ」
思わず叫んでロゼールは無意識にハルタを庇った。雷の如き脳裏への衝撃。これは以前、確かあの暗闇で。崩れ落ちたロゼールの身体をハルタが抱き留めた。
ロゼールの手にした
邪神の加護が消えていた。
クロエが走った。ハルタとロゼールの射線の先、柱の陰に誰かいる。後先のことは考えずクロエは向けられた得物を毟り取り、相手の襟首を掴んで床に叩き付けた。
クロエの手にあったのは箒だった。クロエは膨らんだ穂先を掴んでいた。床に押し付けているのは痩せた老人で、身形からするに大聖堂の小間使いだろうか。
足許にはガチョウが一羽歩き回っており、クロエを見上げてくわーと鳴いた。
「え」
化かされたような気がしてクロエが慌てた。
「放すな」
リリアーテが叫んで駆け寄った。クロエから箒を受け取るや膨らんだ穂先を毟り取る。現れたのは真鍮色の杖頭だ。地下の宝物庫にあったはずの
「おまえ何者だ」
リリアーテの誰何に老人は鼻に吸い込むような卑屈な音を立てて嗤った。
「見ての通り名もない教会の下働きだわ」
ガチョウがくわーと間の抜けた合の手を入れた。
「これでも六代転生し、ずっと教会に勤めておる」
威厳を出そうとしたのか押し潰した声で言うと、甲高い小声で早口に続けた。
「あの大司教猊下と違って一度も小間使いから出世できなかったがのー」
人を向いて素で喋れないのか老人は交互に声色を変える。
「おかげで教会の悪事も秘密もみな知っておる。地下に飼われた魔物もな」
見ればその手に指輪があった。ハルタの聖杖と似た二種類の指輪だ。獅子頭の魔神が唆したと嘯いた大聖堂の主とは、大司教ではなくこの小間使いだったのだ。
「さあさアヒルちゃーん」
「それはガチョウだ」
クロエの突っ込みも終わらぬうちにガチョウは小屋ほどの大きさに膨れ上がった。クロエとリリアーテが飛び退るもロゼール、ハルタと分断されてしまう。
「しまった」
リリアーテの手から
「危ない殿下」
素早いガチョウの嘴を躱し、リリアーテはクロエに引かれて距離を取る。丸く膨れた羽毛の向こうに
「おまえが私から信仰を奪ったのか」
ロゼールが叫ぶ。全身が激痛に蝕まれ
「国王陛下からも奪った。宮廷、教会の御歴々もみな根刮ぎ破門してやったわ」
声色を交互に老人が近づいて来る。
「教皇にチクるって脅したら、みーんなワシに従ってくれちゃった」
嗤いながら
「おまえだけが計算違いよ。まさか本当に名を喪いし邪神の使徒がいようなどと」
「あらよくご存じ」
ハルタは小馬鹿にしたように微笑んだ。
「名を奪われ貶められたのは同じ。おまえの神には同情するが現世には不要だ」
「余計なお世話よ。ほっといて頂戴」
ハルタは口を尖らせた。ふんと小さく吐息を漏らして小間使いに目を細める。
「それだけ転生させられたなら、アナタ腐敗の粛清が御役目でしょうに。何も気付いてなかったの? 自覚もないのに実行してしまうなんて何て偉いんでしょう」
ハルタの皮肉は老人を越え神に向けられているような気がしてロゼールは背筋が冷えた。ハルタはにっこりと微笑むと抱き留めたロゼールの頬に顔を寄せた。
「でもこの子の信仰を奪ってくれたことは本当に感謝しているの。おかげでアタシの信者になってくれたんだもの。最高の愛し子よ、お礼を言うわね」
ハルタはロゼールの頬に口づけをして、小さく指輪をと囁いた。
この期に及んで遠慮のないハルタに、尊大に笑うかヒステリックに叫び返すか小間使いは声色を迷った。棍棒のように
ハルタはロゼールを抱いたまま一歩踏み出し、老人の指ごと指輪を踏み潰した。
「アナタは名前を奪われたのではなわ。取り戻そうとしなかっただけ。だらだら人生を繰り返すだけなら、そのまま分相応の凡夫でいなさいな」
ガチョウの魔神がきょとんと立ち止まり、蹲る老人を振り返った。クロエとリリアーテを無視して、よたよたと小間使いに歩み寄ると無造作に嘴で齧りついた。
老人は何が起きたかも分からず絶叫した。ガチョウはそのまま放り上げるように天を向き小間使いを嚥下する。くぐもった悲鳴が頸を滑り、ぷつりと途絶えた。
くわーとひと鳴きするや黒塵が舞い散り後には本物のガチョウだけが残った。
クロエとリリアーテ、それにハルタに抱かれたロゼールはしばし惚けていた。
静まり返った大聖堂に残ったのは、穴だらけの祭壇と空まで抜けた大円蓋、無数に散らばる硝子片と無数に散らばる神官兵。
そして白目を剥いたサロモン・ジスカール大司教だけだ。
「とりあえず」
クロエがハルタに抱かれたロゼールに手を差し出したそのとき、大聖堂の四方に突入の号令が轟いた。身廊、翼廊に完全装備の騎士団が雪崩れ込んで来る。
勢い踏み込んだものの一面の死屍累々に躊躇し、遠巻きに四人を取り囲んだ。
「皆一歩たりともその場を動くな」
響く凛とした声にロゼールたちは竦み上がった。顔を見合わせ蒼くなる。
隊列が二つに割れた。掲げた剣の間から女神官が進み出る。三十路を超えてもなお乙女の如き肌艶は長い湯治の成果だろうか。その純白の舞闘神官衣は皆を威嚇するように大きく胸が突き出している。ゼナイド・ブランシェールその人だった。
ゼナイド副司教は転がる神官兵を平然と踏み締め四人につかつかと歩み寄った。無言でハルタを睨み付け、無造作にロゼールを引き剥がして床の上に放り出した。
しばしハルタを見つめてから背後に控えた騎士に連れて行けと命じる。
「し、師匠」
ロゼールが上擦った声を上げる。
振り返ったゼナイドの表情にロゼールのみならず全員が凍り付いた。
「おまえ達には聞きたいことがたっぷりある」
ロゼール、クロエ、リリアーテの声にならない悲鳴が大聖堂にこだました。
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