第2回 守れ!キノコをアレするメイド
「何だこれは、ふざけるな」
耳の先まで真っ赤になったロゼールが白いフリルを翻しながら、ばたばたと店先に駆け込んで来た。
「あら似合うじゃないの。メグちゃんのお仕着せが丁度あってよかったわ」
そう言って微笑む涼し気なハルタの視線が火箸のようにロゼールの肌を焼く。頬が火を噴きそうだ。
黒を基調に白で飾ったそのエプロンドレスは、襟が立ち、袖がなく、繊細なフリルは装飾過多、裾が短くブーツとの隙間は肌が剥き出しだ。関節が妙に機能的な膝上ブーツと肘の上まであるグローブは硬質で艶のある黒のエナメルレザーだった。
「でもこれは、こんなのは」
ハルタは店員の仕事着だと言うが、絶対におかしい。山の手育ちのロゼールが知る限り、こんな衣装を着て働いているのは頭のネジの飛んだ女給くらいだ。
それすら父の書斎に隠してあった本でしか見たことがなく、母が見つけて喧嘩になったり妙に仲睦まじくなったりしたが、今はそんなことはどうでもよかった。
「アナタ、プリムまで着けてそれを言う?」
呆れ顔のハルタに指摘され、ロゼールは口を尖らせてぷちぷちと言い訳をした。
裂けて汚れてぬめぬめとした涎で身体に張り付いた儀仗服はこれより扇状的であられもなかったのだ。服があるなら何でも着ると言ったのはロゼールの方だった。
幸い、女子としては比較的上背のあるロゼールと店の従業員のメグちゃんとは体格が近かった。まだ見ぬ彼女に感謝するも、少しその娘の将来が不安でもあった。
だが、そもそもハルタがこんな店を開いていること自体が変なのだ。
邪神教の代理神官を自称するフロルケイン・ハルタだが、怪しげな祠や地下に神殿を構えるわけでもなく、そんな道楽で暮らせるはずないでしょとばかりにロゼールが連れて来られたのが巨岩の突き出た小高い丘の上に建つこのこの一軒家だ。
それは住居を兼ねたこぢんまりした店で、小さくまとまった店先には怪しげな瓶や雑貨が並んでいる。邪神教の代理神官が副業として営んでいたのは、何を隠そう茸屋だ。そもそも採取に出掛けた裏山でハルタはロゼールに出会ったのだという。
ハルタの言うところ当店のオリジナルブレンド茸はご近所でも評判らしい。だがこの店のそこかしこの何気に淫靡な雰囲気にロゼールは妙に落ち着かなかった。
そうした局地的な状況も含めてロゼールの根本的な問題は、ここが何処だか皆目分からないことだった。
どうやって来たのかと訊かれても、ただ飛ばされたとしか答えようがない。ルクスアンデルの王城から落ち、地下を彷徨い、森に飛び出し、ハルタに手を引かれて着いたのが留石村の外れだと言われてもロゼールにはそもそも全容が見えない。
大陸の北で列強に挟まれたルクスアンデルは三つの地域からなる小国だ。
隣国クルフトラントからの移民政策や国境争いが続く北東フルギーネ地方。王都スカーロフのあるルクスアンデルの中心地、南西ルーラント地方。とにかく全般的に田舎で特筆すべきものが何も思い当たらない南東ブルクセン地方の三つだ。
留石村はそのブルクセン地方の西端にある小さな村らしい。名前の由来は茸屋の家屋が張り付いた丘の上の巨石だ。側面に意味不明の紋が描かれており立派ではあるのだが祭神が不明なせいで教会が観光地として公認できなかったらしい。
そこに付け込んだのがフロルケイン・ハルタだ。教会非公認を逆手に巨石に邪神の由来を掲げ、茸屋を始めたのだという。なぜ茸だったのかはよく分からない。
何よりロゼールが唖然としたのは村の位置だ。王都まで徒歩最短で二〇日は掛かる距離だった。王城の地下を延々と彷徨いはしたものの国を縦断するほど歩いた覚えはない。この身に起きた何から何まで、まったく訳が分からなかった。
ともかく一刻も早く王都に帰還せねば。気が急いて焦りはしたものの、そう思ったのは一瞬だった。冷静に考えてこの状況のまま帰れるはずがなかったのだ。
国王軍の聖騎士が棄教どころか邪神の信徒に成り果てた。このまま帰っても火炙りだ。師匠のゼナイド副司教など、問答無用でロゼールを火に掛けるだろう。
辛うじて理知的な状況分析に踏み留まったロゼールだが、感情が追い付くには一夜を要した。つまり私のせいじゃないもんと開き直るまで一晩ほど掛かった。
変態鰐男の一件以来べそべそといじけていたものの、長湯と食事でどうにかロゼールも落ち着きは取り戻していた。もっともその心境に至ったのは生まれて初めて男の人の匂いのするベッドに悶々として寝付けなかった結果でもある。
まあ結果よければ全てよし。冷静に考えれば何の解決もしていないのだが。
「とにかくだ、おまえは早く私を開放しろ」
ロゼールは言った。胸を張ってハルタを睨むものの、微妙にスカートの裾が気になって押さえたり引いてみたりする。
「せっかく信者ができたのよ? そんなもったいないことしないわ」
ハルタは悪戯な目をして笑った。
「だったら今すぐ教会に行く。司祭に再洗礼を受けるまでだ」
「そう簡単にいくかしらねえ?」
ロゼールがうぐうぐと歯噛みする。刈るべき雑草にしか見えない罪人はさて置き、ロゼールは聖騎士の役職を外すと実は全く男子に免疫がない。口調はともかくハルタの見目はきらきらの美少年で、こうして目が合うと心理的に分が悪かった。
「メグちゃん今日はお休みだから、お店を空ける訳にはいかないの。明日なら教会に付き合ってあげるわよ」
はいはい、とハルタとまるで噛み合わない。ロゼールは完全に空回っていた。拗ねた子どものように、絶対だからなと口を尖らせる。
「それまでは、そうねえ、お店の手伝いでもして貰おうかしら」
そう言われ、ロゼールも開き直らざるを得なかった。
まずは裏で薪割だ。茸を蒸すのには窯を使う。食事もお風呂も燃料がいる。地霊術は燃費を上げるが、あくまで物理的な原資は必要だ。裾の短い女給服で薪割はどうかとも思うし、それ以前に聖騎士の仕事かとも思ったりするのだが。
官舎の修練で手慣れてはいたが、やはり他所の手斧は扱い辛い。ロゼールはふと壁にに立て掛けた
ひと心地ついて辺りを見渡せば眼下に集落と田畑が見おろせた。拓けた土地はほんの僅かで辺りは鬱蒼とした森に覆われている。なるほど王都スカーロフではあり得ない光景だ。自然が管理されておらず鰐男が出没するのも何となく分かる。
王城からの一連の出来事は考えても考えても分からない。なのでロゼールはいったん考えるのを放棄した。問題が多いときの解決はひとつづつだ。まずは明日。教会に行って邪教を払い再洗礼を受ける。その前に薪を片付けて次は店のお掃除だ。
それでいいのかと叫ぶ理性はとりあえず無視してロゼールは手斧を振り上げた。
店に戻ると地霊術由来の磨り硝子の扉に緋色のマフラーが掛けてあった。どうやらそれがこの店の開店の印らしい。ハルタにこっそり目を遣ると、口許が露わになったぶん容姿が妖しさを増している。
ハルタを平然と見るにはまだまだ時間が掛りそうな気がした。
店の中には来客用の小さな机と椅子が二脚。カウンターの奥には工房があって、パン屋と実験室を混ぜたような雰囲気があった。壁面の飾り棚には木箱、硝子瓶、磁器の置物が所狭しと並んでいて、どれも乾いた木屑と香辛料の香りがする。
ロゼールは労いとお茶を貰った。店の荷並べと棚掃除を頼まれ聖騎士の誇りにかけて任務を遂行すると応えた。さっそく飼い慣らされている。
柄の付いた埃取りを棚に振りつつロゼールは前を押さえたり後ろを引いたりと忙しかった。何せ今まで脚を剥き出しにした衣装など着たことがない。メグちゃんの給仕服は思いのほか丈が短く、どうしても裾とブーツの隙間が気になってしまう。
ふと埃を払う手を止める。巨石を模した置物があった。店の傍らに高く聳えるあれだ。滑らかな磁器の肌に留石の紋が描かれている。実際のそれと違うのは、置物は縦に細長く反りがあり笠の閉じた茸を模っているところだ。
ロゼールは茸屋だけあるなと変に感心した。
「土産物まで売っているのか」
手に取ってしげしげと眺める。眼の奥がちくちく疼いた。何かが警告している。
「ああ、それね。婦人方に人気なの。でもロゼールにはちょっと早いかもね」
「土産物に早い遅いがあるのか?」
「だって、それおちんちんだもの」
耳を疑う。手の中の置物が細かな四角い模様に覆われて見えなくなった。
魂は自ずと認識する。これは純潔の誓約の仕業だ。夕べもにわかに凶暴化し、朝までロゼールを苛んだのだ。誓約と加護は表裏一体、ロゼールが純潔を貫く限り継続する。とはいえここまで顕在化するのは初めてだ。理由も理屈も分からない。
「おちん、」
思考が追い付き悲鳴を上げて置物を放り投げた。危うくハルタが受け止める。
「ち、違うこんなのはおちんちんじゃない」
歳の離れた弟の洗礼式で見たのは。
「もっと、こう」
ロゼールは小指をぐいと突き出した。ハルタが半眼でロゼールを眺める。
「アナタどんな教育を受けて来たの」
息は切れ切れ意識は虚ろ、走りながら頭の中でぐるぐると助けを求めている。蛙の森から駆け通しで両脚はもう棒切れのように感覚がない。霞んだ視界にようやく緋色の印を見付けライアン・ダヤンは怪しげな代理神官が営む茸屋に飛び込んだ。
硝子扉が音を立てて開いた。
「だってそんなの入る訳ないだろう」
真っ赤になったロゼールが身振り手振りでハルタに反論している。
倒れるように転がり込んだ青年の頭上で来店の鐘が踊るように跳ねた。
「助けてください店長」
ライアンは掠れた声で切れ切れに叫んだ。
「あらアナタ確かメグちゃんの。ライアンくんだったかしら?」
ハルタがカウンターから身を乗り出し、床の上で喘ぐ青年を見おろした。ロゼールは駆け寄って助け起こすと椅子を引いてライアンを座らせた。何かないかとハルタに目を遣ると、いつの間にかカウンターに水差しとカップが置いてある。
「何があった、落ち着いて話すといい」
ロゼールが水を注いで渡すと、ライアンはカップを抱えてひとしきり呷った。
「ありがとうメグちゃんの格好をしたひと」
「ロゼール・ワルキュリエだ」
「ありがとうロゼールさん。あれ、どこかで見たことがあるような」
ロゼールは顔を上げるとハルタに向かって見たかと威張って胸を張った。
「それより何があったの?」
「それよりって何だ」
「メグちゃんが、メグちゃんが森で魔物に襲われたんです」
ライアンと休暇のメグちゃんが出掛けたのは村の西にある蛙の森だった。奥には碧く澄んだ泉と地霊を祀った古い祠がありピクニックに手頃な落ち着いた場所だ。
仕事熱心なメグちゃんと茸を摘みつつ二人で森を散策したあと泉の畔でお弁当を拡げてあーんなどとやっている最中、突如魔物が現れ襲い掛かって来たという。
ライアンは椅子を蹴って立ち上がりカウンターのハルタに縋るように叫んだ。
「メグちゃんが、メグちゃんが僕を逃がしてくれて、店長を呼んで来てって」
「貴様、彼女を置いて来たのか」
ロゼールに詰め寄られライアンはその形相にひいと声を上げた。ハルタがいきり立つロゼールをしっしと追い払う。ロゼールは口を尖らせた。
「偉いわ、正しい判断よ。助けも呼べずに死んじゃうバカより遥かにマシ」
だが恋人を残して一人で逃げるなんてとロゼールは憤る。確かにこの青年が魔物に太刀打ちできるとも思えない。とはいえそこでハルタを頼るのも如何なものか。
見目に怪しげな邪神の代理神官とはいえ線の細さはライアン自身とよい勝負だ。容姿はさらに愛らしくきゅるんとしていて、まあそれはこの際関係ないとしても。
「魔物というのは鰐みたいな裸の男か」
ロゼールが問う。
「真っ黒な顔のない魔物がたくさんと、」
「ふむ
「蛙みたいな頭をした裸のおじさんでした」
「どっちにしろ変態かー」
頭を抱えて呻いた。この辺りには変態の巣でもあるのか。
ふと嫌な予感がしてハルタを覗き見ると、ハルタはきょとんと見返した。ロゼールは自分を指差してハルタに首を振る。助けを求められたのはハルタの方では?
「何をしてるの、さっさと準備なさいな」
当然のようにそう言われ、ロゼールはがっくり肩を落とした。
魔物は良いが変態は嫌だ。
*****
ハルタとライアンに急かされロゼールは店を駆け出した。ライアンを店の留守居に残しハルタは道案内に同行しているが戦いに関わるさらさら気はなさそうだ。
「この辺りはそんなに魔物が多いのか?」
「魔物も変態も珍しいわね」
ならば変態の魔物はもっと珍しいのだろう。どうしてそんなものが立て続けに。
「ああ、でもそうね」
言葉に含みを持たせたままハルタは少し口を噤んだ。目を細め背中の杖を振る。
「魔を封じた杖をお尻の大きな女の子が折ってしまったの。それが原因かもね」
そんなことが、と言い掛けて自分のことだとロゼールが気付いた。
「お、大きくなんかない」
跳ねるフリルを押さえて声を上げた。言って蒼くなり不安気にハルタを窺う。
「嘘でしょ?」
「さあ頑張ってメグちゃんを助けないとね」
そう言ってハルタは耳許まで口が裂けたような笑みを浮かべた。
巨石の丘を駆け下り、集落の西方、蛙の森まで一直線に走る。直線距離ではそう遠くない。ただし馬などは通れぬ山道だ。ハルタはロゼールに道行を急かした。
ロゼールは
ただし魔物相手の戦い勝手はわからない。
人界の外には幻獣、魔獣の類も棲む、信心のない死体には
正直ロゼールも魔物は専門外だ。
アラサークの加護と比べるのは複雑だが今のロゼールは身体能力が増している。
とはいえ奉神由来の神霊術や
「もうすぐ着くわよ」
鍛錬を積んだロゼールはともかく細作りのハルタが異様に迅い。ふわふわと駆けて行く。路なき森の獣道を抜けるさまは緋色の羽根を翻す妖精のようだ。
もしや自分より軽いのではないか。ロゼールは蒼褪め密かに減量を決意した。
森の奥、水の気配が強くなる。朽木の多い祠の近くはどこから噴いたか珍しい茸がよく採れるらしい。だが今は視線も向けられないほどの気配を放っていた。
唐突に樹々を抜け、辺りの視界がぱっと開けた。
鏡のような碧い水辺。畔にハルタのマフラーと同じ緋色の頭巾が鮮烈な彩りを成していた。その蹲る人影の向こう、降り注ぐ木漏れ日を撥ねた水面に何かがいる。
縦に長い身体を覆う漆黒のケープ。その天辺から見おろしているのは蟇蛙の頭だ。何故か黒猫の耳もある。それは目を剥き頬の弛んだ老人の顔にも見えた。
「聖騎士ロゼール・ワルキュリエである。その娘を、」
駆け出たロゼールが名乗りを上げる中、怪人は勢いよく両手を撥ね上げケープを翻した。細根の如く脛毛の繁った生白いゴボウのような脚が剥き出しになる。
「ぎゃあああ」
間一髪、純潔の誓約が全裸の怪人の股間を細かな四角い模様で覆い隠した。
「店長」
ロゼールの悲鳴で気付いたのか、緋色の頭巾がハルタを振り返り野太い声で嬉々と叫んだ。仁王立ちで立ち上がったのは、むりむりと筋肉の爆ぜた大男だった。
「無事のようね、メグちゃん」
「ええ、店長のくれた魔除けの頭巾のおかげだわ」
「メ?」
ロゼールが凍った。この状況の何もかもに情報が多すぎる。
「危ない」
メグちゃんが声を上げた。
地面から黒い腕が生え出した。掴み掛るそれを辛うじて躱し、ロゼールは後ろに撥ね退いた。今は考えたら負けだと本能で悟り、頭を振って混乱を払う。地面、水面のそこかしこを堀り上げ黒い人影が次々と立ち上がって来た。
「
呟いたロゼールの語尾が微妙に上がる。黒い身体やその動きから察するに、それらは信心を欠いた魂なき死者の類に違いない。ただ顕現の方法が強引なのか表皮は呪網の薄布で覆われ顔には見たこともない紋章が染め抜かれている。
見た目に真っ黒な全身タイツを頭から被った目鼻のない変態にしか見えない。
「随分と
ハルタが面倒くさげに呟いた。
何だそれと思う間に全身タイツの群れがロゼールに襲い掛かって来た。思いのほか足が速い。素地が死体とはいえタガの外れた人ほどの力はある。危険な相手だ。
「下がって」
ハルタを振り返りロゼールが声を掛けるも当人はすでに奥の樹に隠れて手を振っていた。ロゼールは無言で全身タイツの群れに向かい合うと行き場のない怒りを思い切り剣にぶつけた。首を撥ね上げ胴を割り
今までの鬱憤を晴らすが如く、脚を断ち、腹を薙ぎ、頭をかち割る。ロゼールの剣は瞬く間に全身タイツの群れを切り刻んだ。これで相手が生身なら凄惨この上ない現場だが、幸い
「どっせえい」
気合一閃、ロゼールの背に迫った全身タイツが弾け飛んだ。緋色の頭巾を翻したメグちゃんが拳を突き出しウインクを投げる。
ロゼールは思わず引き攣った笑みを返した。
「来るわよ」
辺りが陰った。全裸の蛙男が伸し掛かるように二人に迫る。水面の紋がいっそう微妙に裸身を光の斑に照り上げた。メグちゃんが蛙男に一歩踏み込み水を割る。
「ちぇすとお」
蛙男の脚の間に揺れる小さな四角い模様に正拳突きが炸裂した。
この世のものとは思えぬ絶叫が耳を苛んだ。
ロゼールは歯を食い縛りながら切っ先で水を割り斬り上げる。思わず身を屈めた蛙男の頚を
倒れ込む全裸の蛙男から飛び退る。泉の水が撥ねて木漏れ日に綺麗な虹を描いた。ロゼールはメグちゃんと目を合わせ、互いにぐいと親指を突き出して見せた。
本当に助けって必要だった?
「ほらアンタたち、まだ終わっていないわよ」
背中でハルタの声がする。
振り返るロゼールの視線の先に切り落とした蛙男の頭があった。それは身悶えるように蠢いたかと思うと側面を突き破って長い蜘蛛の脚を生え伸ばしたのである。
「これ何の冗談なの?」
メグちゃんが呆然と呟く。
蛙頭がげるげると鳴いて走る。恐ろしく速い。迫る蛙頭にロゼールの全身が粟立った。咄嗟に剣で斬り上げる。手応えはあったものの相手は毬のように跳ねた。
蛙頭は木陰に落ちて嘲笑うかのように下生の中を渡る。ロゼールとメグちゃんは背中合わせに茂みを見渡した。蛙頭は惑わせるように辺りの草木を揺らして回る。
不意に飛び出し襲い掛かかった。かっと開いた桃色の口内から飛沫が飛ぶ。辛うじて避けるも僅かな雫がロゼールの身を焼いた。酸だ。痛みによろめいて後退る。
「曲りなりにも魔神の一柱だもの、そりゃあ切った張ったで死にやしないわよ」
「店長」
ようやく木陰から顔を出し、ハルタが傍にやって来た。下生に潜んだ蛙頭がいつ襲って来るやも知れず仕方なく出て来たというのが本当のところに違いない。
「魔神って何だ」
蛙頭が羊歯の葉を割って飛び出した。目で追うのがやっとの速さだ。長い蜘蛛のような多関節の脚をわさわさと振ってロゼールの足許に走り寄る。逆さに吊られた桃色の口腔をげるげるげると開いた。ロゼールがいーっとなってがむしゃらに剣を振る。
蛙頭は嘲笑うようにロゼールをの周りを一周して再び雑木林の中に飛び込んだ。
「あの変態のことか?」
蛙頭の気持ち悪さに思わずハルタに駆け寄ったものの我に返って噛み付いた。
「変態と申したか人の子よ」
下生の奥からごろごろとした声がする。
「うわ変態が喋った」
草木の揺れと蛙頭の脚の音を追いながらメグちゃんがハルタを庇って身構えた。
「何とかならないかしら、店長」
ハルタは気乗り薄気に吐息を漏らしてロゼールを振り向くと剣に目を遣った。
「仕方ないわね。アナタのそれ
驚いてハルタを見た。ロゼールの剣が
ハルタの言う通り
だがそれが神の御名に於いて行使する武具である以上、今のロゼールには
そう思いつつロゼールが逡巡したのは一瞬だった。鍔を折って未使用の詔弾を二つ排莢し、それをハルタに差し出した。ハルタは弾を手に取り口許に近づける。
マフラーを引いて、ふ、と詔弾に息を吹き掛けた。唇と仕草に目を奪われていたロゼールは差し出された詔弾を見て我に返った。それを込めろとハルタが言う。
訝し気な顔でロゼールは弾を装填した。剣を薙ぐように弾倉を閉じる。
「来るわ」
メグちゃんが叫んだ。
ロゼールは宙に跳ねた蛙頭を切っ先で追い、何も考えずに引き金を引いた。発砲音はない。
声にならない絶叫が轟いた。蛙頭の放った悲鳴だ。腫れ上がった目の半分が削れ飛び、幾本もの蜘蛛の脚と共に黒塵になって霧散した。欠けた塊がべしゃりと地面に落ち、蠅のようにぐるぐると藻掻いてロゼールを睨め付ける。
蛙頭は残った脚を振ってロゼールに飛び掛かった。
「神罰、覿面」
一閃、
断末魔の叫びと黒い塵が木漏れ日に散る。
「おー」
ハルタとメグちゃんが手を叩いた。剣を翳して決めたままロゼールも内心で歓声を上げている。格好よかった。鼻血が出るくらい決まった。久々の大勝利だ。
ふと、ちりちりと焦げるような音に気付いてロゼールは
無垢な鏡の刀身が炭と見紛うくらい黒く染まって行く。え、となって刃を擦った。黒色は取れない。何かが付いて変色したのではなく
「まあアタシの力を使えばそうなるわよね」
ハルタは平然嘯いた。
ロゼールは呆然とハルタを見返し、真っ黒になった純潔騎士団の象徴を振り返ってぼんやりと見つめた。師匠になんて言い訳しよう。頭の中が真っ白になる。
「あなた強いのね、格好よかったわよ」
メグちゃんが駆け寄りロゼールの手を取った。思い切りぶんぶんと振り回し野太い声でロゼールを労う。きらきらとしたその笑顔に薄っすらと髭が生えていた。
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