鍵の聖女
柾 桔梗
第1話
鍵の聖女様のお話?
誰もが子供の頃に聞かされる『おとぎ話』だろ。
もちろん、僕だって知ってるさ。
世界の鍵穴に我が身を捧げて、みんなを護った聖女様。
おばあちゃんのおばあちゃんが子供の頃にあった話らしいけど、それって『むかーし、むかし』のおとぎ話と何が違うの?
後継者が絶えて廃墟になったり、取り壊されるのも珍しくない。それこそ百年前から建てられている
そんな『おとぎ話』なんかより、今考えなくちゃならないのは『魔王』の方だ。
遠い国の話として聞いた時は、何とも思わなかった。都市が一夜にして壊滅、とか言われても、実感なんてするわけない。
辛うじて生き残った人々が難民に、とか人口の多い都市から順に襲われているようだ、という話が断続的に伝わって来ても、可哀想だなとか、ここじゃなくて良かった、くらいなものだった。
けれど、数ヶ月もしないうちに状況が変わった。異国の話とばかり思っていた『魔王の被害』は、物価の上昇という形で目に見えるようになった。
襲われたのは無関係な遠い国のはずなのに、そこから這い出した難民が周辺諸国へ逃れると、たちまち食料事情が悪化したらしい。
輸出していた農作物を難民支援に充てれば、当然ながら他国へ回す分は減る。そうしている間にも、魔王は近隣の大都市を次々に襲う。
魔王は人間社会の仕組みを理解しているのだろうか?都市ばかりを襲うのは、一撃で効率良く人間を減らす為と言われていたけど…
農作物を生産する田舎は無事でも、都市の難民が加速度的に膨れ上がる状況は、速やかに世界へ波及する。
魔王が遠く離れた国の都市を一つ焼き払う度、この町では輸入する食料の値が高騰していき、貧しい者から飢えて死ぬのも時間の問題だった。
海を隔てた国の人々は、臆面も無く愚痴をこぼす。
魔王は手ぬるい。どうせなら一人も逃がさず殲滅すれば良いのに、と。
自分の住む都市、親や恋人の暮らす頭上に魔王が現れるなどとは考えない。
今は遠い国の、見知らぬ人々のお話だから。
だが、いざ己が目に魔王が映れば、自分だけでも助けてくれと叫ばないか?
この百年あまり、気候は安定し災害などもほぼ無く、物価はずっと安定していた。穀物も野菜も、店に変わらぬ値段で並んでいるのが当たり前だった。
都市部の住民は、そんな物は地面から勝手に生えてきて、農民は刈り取って袋に詰めるのが仕事なんだろうくらいに思っていた。
魚は海に網を入れれば獲れるもの、鳥や獣ですら常に天地に満ちているのが当たり前だと。
安寧と平和のぬるま湯は、人々から生存への怯えを拭い去る。衣食住が満ち足りて、若者は文化芸術に熱中し始め…
皆が忘れた。
世界を支えている、鍵の聖女を。
おとぎ話の、むかーしむかしの、遠い国のことだって。
人の数が増え、世界の重さが増している事に気付く者はいなかった。
否、一人だけ…魔王と呼ばれている男だけは、理解していた。
鍵の聖女の受ける苦痛は、このままでは減ることは無い、と。
人口の多い都市から、というのが魔王の決めた順番らしい。ならば、それが海を越えて来ないと、誰が言い切れる?
今日と変わらぬ明日がずっと続くと信じ切っていた人々は、ただ嘆き惑う。
市町村の長は慌て、領主は己の領地に魔王が来ない事を祈るのみ。国王は未曾有の事態を嘆き、司祭は民の恐慌を宥めるのに手一杯。
魔王が国の境を、海を越えて幾つもの大都市を焼き落としてようやく、世界中から兵を募り軍が組織された。
友人が親が恋人が殺された、又は本人が焼け出された怒りに駆られた志願兵の士気は高い。けれど、どの国でもこの百年あまり、戦らしい戦をしていない。
爺さんの爺さんが徴兵された事があるらしい程度の知識など、無に等しい。
それでも国の高官や騎士などは、訓練や模擬戦の経験があるだけ良い。彼等をまとめ役に使えば、烏合の衆でも最低限の体裁は保てる…はずだった。
敵は魔王ただ一人。目標はブレない。
だが、味方はバラバラだった。やれ我が国の騎士の方が優秀だ、当方の軍師の言う事を聞け、金はどこが出す、武器の手配は…
巨大な塊となった軍の統率は取れず、繰り返される会議の期間に辺境の王都がまた一つ、焼け落ちた。
貴族が、新興国の代表が、歴史ある家系の騎士が指揮権を主張する間に、交易の要所が崩れた。
結論を待ちきれず離合した師団が魔王を追うが、人の足で辿り付く頃には町は焦土と化していた。
事ここに至り、各国はようやく協力を始める。自国の人口分布を、他国相手に初めて明らかにした。そこで確認出来たのは、確かに魔王は国を問わず人口の多い都市から順に焼いていたという事実。
そして、この情報を使えば次に魔王が現れそうな都市にも見当が付く、と思われた。が…全てが遅すぎた。
多国籍軍が動けずにいる間、魔王は勤勉に都市を滅ぼしていた。
進まぬ会議や紛糾する軍議に費やされる時間の中で、王都も首都も燃え落ちた。国によっては首都より栄えた地方都市も当然あるが、人口が多い都市の順に滅ぼしているのに、全ての首都が壊滅したのだ。
この事実を多国籍軍が認識すると、事態は混迷を極めた。大都市が消え、次に襲われるのが市町村単位となった時…人口に明確な順位を付けることが、誰にも出来なくなっていた。
彼の国の市より、我が国の町の方が規模が大きいのではないか。其の村は、開拓の移民が集まっているから正確な人口調査が出来ていない。
同じくらいの人口の市町村が、世界中に何箇所も存在している。だが、あれだけの力を持った魔王に、兵力を分散させて当たるわけにはいかない。
我々は人類の希望、最後の砦だ。万が一にも壊滅したら、地上に残るのは無力な民だけとなる。
だが現実に、同規模の町ならどちらを優先するのか、魔王の気紛れを読み取れる者はいない。ならば、と多国籍軍は非情に思える作戦を決める。
戦いに適した平野が近い、そこそこの規模の町に駐屯。
人口が同等の市や村が次々に焼かれ、作戦を知らぬ市民の糾弾を浴びせられても、彼等はじっと待ち続けた。
そしてようやく、彼等の頭上に黒い人影が現れた。
帰る首都も王都も無く、護るべき民も国土も灰と化した兵の士気は最高潮に達する。今こそ、一矢報いる時。
バラバラだった多国籍軍の意思が、一つになって魔王へ向かう。これほど多くの憎悪を、怨嗟を、激怒を浴びて尚…魔王の削げた頬には笑みが浮かんでいた。
眠りから覚めた時、自分がどこにいるのか分からなかった。自室ではない、そもそもここは遺跡か廃墟の中らしく思える。
仰向けに横たわる背中と手の平は、石の上に直接寝ている感触を伝えてくる。石、といっても表面は砂を固めたようにざらついて、切り出したままの緩やかな凹凸が残る板状のものだ。
見上げる天井や壁は、木製らしい。かつては真っ白に塗られていたのだろうが、年月にさらされヒビ割れ剥け落ち、黒ずんだ木肌が覗いている。
壁際は蜘蛛の巣が繊細なカーテンのように幾重にも垂れ下がり、青白く霞んで見えた。
「…」
ゆっくり上体だけ起き上がると、異様な状況であることはハッキリと確認できた。自分が寝ていた石板を中心に、床は円形に何も無い。
埃も、虫の屍骸も、崩れた屋根から落ちた瓦礫や土も…まるで巨大な椀を伏せて置いていたかのように、キッチリと区切られた外側にしか降り積もっていない。
月の光が照らす瓦礫の合間に、石で出来た小さな階段のようなものが見えた。三段ほどの、どこにも繋がっていない、あれは…祭壇?
石板から足を下ろす。冷やりとした感触に目を向ければ、裸足ということに気が付いた。服は着ている、怪我などの痛みは感じない。だが、全身が強張っていて動きにくい。
両膝に手を置いて、ゆっくり立ち上がる。肘を外側へ張り出し、全身を伸ばす。思わず漏れる唸り声が、月光の中舞い上がるチリをふわりと揺らした。
祭壇らしき残骸へ向けて二、三歩進む。キレイな床はここまでだ、触れるほど近付くには、靴を履かなくては。
「…?」
ふと、根本的な疑問が過ぎる。私は…靴を履いていないことを不自然に思っているのに、この何も無い場所で寝ていたことは気にも留めず流している?
どうしてこんな所にいるのか、そもそも自分がどこの誰か、を真っ先に考えるべきではないのか?
改めて周りを見回す。乾いた白い石の床、塗料の剥げ落ちた壁と天井。瓦礫に埋もれた祭壇に乗せられていたらしい、花瓶の残骸と割れた皿。
かつては、白一色に塗られた清廉な場所だったはず。見上げる屋根の穴は、祭壇の上に設けられた明かり取りの窓が崩れたもので…
「!?」
脳裏に、『在りし日の建物』が鮮やかに映る。そう、ここは…
(っ…)
磨り潰されたような呻き声が鼓膜に響く。実際の声ではないが、この瞬間…声を発した相手について全ての記憶が蘇った。
差し伸べられる、しなやかな指先。艶やかな髪が日の光を弾く眩しさに目を細める私へ、花の咲くような笑みが向けられる。
滑らかな声が、柔らかな唇が紡ぐ己の名は、何よりも誇らしく思えたものだ。
「貴方の居る世界を護る為なら、私が鍵になります」
この世で最も美しく尊い彼女を、僅かな間でも忘れていた自分に憤りが湧き起こる。
(歴代の聖女の中でも、彼女は特に素晴らしい資質の持ち主だ)
(常なら二十年、才があると言われても五十年は持たぬというのに…)
(此の聖女様は、お前が存在する限り世界を護ってくださるという)
(ゆえに、お前はここで老いず死なず眠り続けるのだ)
(各地に建てられた
(世界を護る聖女様への祈りは、絶えることなど無い)
(元から聖女候補仕えの神官なのだ。この役目、受けてくれるな?)
(断るだと?愚かな。世界とお前一人の意思など比べるべくもない。…連れて行け)
あぁ、貴女は…私が眠らされていた間、ずっと耐え続けていたのか。終わりの見えない苦痛に押し潰され、それでも尚、世界を支えていたというのか。
もういい、と握る拳に力が籠もる。もう、貴女一人が苦しまなくていい。
今すぐ貴女の傍に行きたい。けれど、どこに居るのか分からない。あちらからの声は辛うじて届いているが、位置は不明だ。
場所を問い掛けても、返るのは幽かな吐息のみ。これですら、彼女には精一杯の叫びだろう。
ならば、まずは彼女の負担を減らすことから始めよう。
やる事が決まれば、後は動くだけ。迷いも悩みも、救えぬ悔恨も…炎に込めて叩き付けよう。
世界の重さを、減らさなければ。
降り始めた雨が、天と地を繋ぐ。万を越える人間が踏み荒らす土の匂いが、湿り気を帯びて濃度を増した。
国が違えば装備も異なる。それでも多くの者が金属の防具を身に付けているから、声を出さずとも辺りの空気は騒がしい。
陣の展開は完了している…はずだ。違うとしても、見回す周囲に移動の様子は感じ取れない。苛立った荒くれ男達に急げ素早く動けと怒鳴られるのは、もうゴメンだ。場所が違っていたとしても、知るもんか。
多国籍軍に徴兵された魔法職の青年は、似たようなローブの集団に紛れてこっそり溜息を吐き出した。
自分の魔法は攻撃用のものではない。住んでいた村では主に、狼や山賊対策の柵代わりを任されていた。飼育小屋や人家を外敵が破れないよう補強し、山崩れや川の氾濫を村の境で堰き止めるのが仕事。
つまり、防護や防壁が得意分野だ。修めているのは土系統の魔法で、物理防御ならちょっとした自信はある。
だからこそ、なんで俺はここにいる?と愚痴の一つも言いたくなる。相手は魔王だ。物理防御が何の役に立つ?
自分も魔法の初歩として、指先程度の火種は生み出せる。火力は無くとも、野外活動や炊事の役には立つ。攻撃魔法と言うには気が引けるが、どんなに小さくとも火は火だ。人間や獣の顔面に押し付ければ、十分なダメージを与えられる。
身を守るにはそれ以上必要ない。だが、魔王は大都市を焼き払う規模の魔法を扱うんだろ?
防御系統の一環として、
これまで生きてきた中で、魔法使いと戦った経験も無い。せいぜい、『悪落ちした
自分が戦争に駆り出されるなど、まして魔王の前に立つことになるとは、思いもしなかった。領主の要請で、どんなに小さな村からも志願兵という名の魔法職強制徴用が行われたのはもう、一ヶ月も前になるのか。
人類を滅ぼそうという魔王に、人間が立ち向かうのは自明のこと。強大な魔法を扱う相手に、魔法の知識がある者を総動員するのも正しいこと…なんだろうな。
だが、と溜息は止まらない。俺でなくとも良いじゃないか。
自発的に参加するような士気の高い奴や、攻撃魔法や強化魔法を修めた奴だけ連れて行け。家畜小屋を守るしか能の無い俺なんて、放っておいてくれよ。
「…」
雨粒が大きくなってきた。ローブが濡れると重くなってしまうから、こっそり衣服を含めた『
魔王と戦う前に魔力を消費するなど、咎められる行動だろう。だが、これだけの魔法使いが集まっているんだ。俺一人くらい何もしなくたって、結果に変わりあるまい。
こういう考えは、集団の外周に立っている鎧の兵士に対しては不敬かもしれない。この平原に集められた魔法使いは、十人程度の集団に分けられ規則正しく展開している。
俺達は魔法を扱う特性上、金属の鎧を身に付けられない。全身鎧装備で大型盾を外側に構える彼等は、文字通り魔法使いの『盾』だ。
魔王が炎魔法以外を使ったという話は聞かないが、俺だって得意系統以外でも火や水の初歩魔法くらいは使えるんだ。
魔王と呼ばれるほどの存在なら、全系統を極めていたって驚かない。そんな奴がここへ来てローブの集団を見たら、敵が魔法使いと気付くはず。
すぐに、魔法による攻撃は効果が薄いと判断するだろう。これだけの人数が集まって
となれば『
石つぶて自体は確かに魔法で生み出されている物だが、実体を得てしまえば地面から拾い上げる石と変わらない。ゆえに
だったら半々で…という案も当然出たらしいが、魔王の扱う炎魔法の威力を知れば『魔法職による防御は
…理屈は分かるよ。だけどさぁ、上層部ってのは馬鹿しかいないのか?
これだけの人数の魔法職を集めておいて、こっちの攻撃も物理一辺倒ってのはどうなんだよ。弓兵への
聞いたところ魔王は一人で行動しているし、盾や防具を身に付けている様子も無い。ならば通常の魔法使いと同様、物理攻撃には弱いはず?
希望に縋ると視野が狭まるっていうけど、そりゃないよ。
こちらの矢種と魔力切れまで悠々と見下ろして、この平原を地獄のように焼き尽くす無尽蔵の魔力を有しているかもしれないじゃないか。
でなければ、初手が『
「…っ」
生まれ育った町で、俺は臆病者と指差され笑われていた。人一倍心配性で、考え過ぎる傾向があるのは自覚している。だが、魔法職を得て今の村に移住し、皆に頼られる生活には満足している。
慎重だ、思慮深い、先を読める知恵者…と褒めてくれる村人には感謝している。強制徴兵に対しても、村長を始め皆は我が事のように怒ってくれた。
帰りたい、とローブの下で
フードを叩く雨が煩い。魔法の皮膜に弾かれた水滴が散る中、憧憬を打ち砕く角笛が響き渡った。
魔王が来た。
ついにその時が、来てしまった。
「撃てぇ!」
氷塊が、弓矢が、石つぶてが痩躯目掛けて飛ぶ。的はたった一人、命中率が半分ほどだとしても…これだけの物量があればダメージを与えられるはずだ。
誰もが願った。当たれ、殺せと。
血走る目を見開いて睨む先、空に浮く禍々しい影のような黒い男は…血飛沫を上げた。
「…やった?」
「あれ、効いてるんじゃないか?」
氷が、矢が、石が当たる度、影のような痩躯が揺れる。宙に浮いている男の裸足の爪先から、粘る液体が滴り落ちるのが見えた。
戸惑う騒めきが、潮のように広がる。程なくそれは喜色を含み、地を揺らすような歓呼に変わる。
「殺れるぞ!」
「勝てる!いけるぞ!」
平野を埋め尽くすどよめきの中、青年は這い上がる不安に眉根を寄せた。
なぜ、魔王は無抵抗に攻撃を受けているのか?見たところ、角も尻尾も翼も無い普通の痩せた男だが、あれだけの都市を焼き尽くす魔法を使えるのに、防御や障壁は扱えないのか?
そんなはずはない。たとえ直接の防御魔法が使えないとしても、得意の炎を身体の前面に分厚く掲げるだけで氷や弓矢は防げる。火系統が扱えるなら風との相性も良いはずだから、突風を身体に纏わせるだけで飛来物はかわせるだろうに。
「っ…」
不意に確信めいた直感が閃き、青年は
「トドメを刺せ!」
「一気に行けぇ!」
ダメだ、と叫ぶ声は大群のうねりに掻き消される。戸惑いは、一呼吸もしない間に恐怖に塗り潰された。
「
杖の先で地面を突くと、足下の地面が落とし穴でもあったかのように窪む。抉られた土はそのまま円柱状の壁となり、周囲に立ち上がった。
「
浅い井戸の底に落ちたような状態のまま、魔法で土壁を補強する。頭上には相変わらず垂れ込めた灰色の雲が見えるが、雨粒は弾かれて入ってこない。
青年は祈った。これがただの勘違いであってくれ、と。臆病風に吹かれた男が、先走って恥をかくだけなら、笑い話で済む。
だが、と囁く脳裏の声に、
それは、防御に割り振るべき魔力も全て、攻撃に込めているからではないのか?
「!?」
頭上が白く光り、同時に凄まじい轟音が衝撃と共に全身を揺さぶった。反射的に閉じた瞼が真っ赤に染まる。
キン、と硬質な張り詰めた音が辺りを満たす。恐る恐る目を開くが、目の前は土壁があるだけだ。
見上げると、頭上は変わらず重苦しい灰色の雲が蠢いている。しかし、雨は止んでいた。
先程の音は、何らかの魔法だろう。だが、一体何の?あれが魔王の放った魔法だとしても、上空に
白い光に轟音、地響き。何かの爆発だとしたら、魔王へ向けて異国の新型兵器でも射出したのか?
…それにしても、静かだ。一度の轟音の後、周りから一切物音が絶えていた。魔王を倒したのなら上がるはずの歓声も、戦闘の続行を示す魔法詠唱も聞こえない。
第一、集団の中で一人だけ土壁を作って閉じ籠っている魔法使いがいるのだから、叱責や怒号が聞こえてもおかしくないのに。
(
もう一度、同じ土壁を構築出来るだけの魔力が残存しているのを確かめ、
井戸のように筒状に立ち上がっていた土が、ぼろりと外側へ崩れ落ちる。胸元まで一気に開けた視界には、累々と倒れ伏した屍が散乱する様子が映った。
「…っ!」
動くものは何一つ無かった。見渡す限り、ローブも鎧も等しく折り重なるように倒れている。全身鎧に傷は見当たらないが、隙間から薄く煙が立ち昇っていた。
(なんだ、これ)
呟いた言葉が、ぅわんと耳鳴りとなって響く。焦げた臭気と、濃い水の匂いが鼻をくすぐる。
ついさっきまで隣に立っていたローブの男は、地面の水溜りに半ば顔を沈めるように倒れていた。
その両腕は何かに掴みかかるように曲げられ、顔も極端な驚きに歪められたまま事切れている。分厚いローブは雨にじっとり濡れているのに、ボロボロに破れて焦げていた。
あの轟音が魔王の一撃だとして…それは間違いではないだろうが、たった一撃で万を越える歩兵を同時に倒す魔法など、存在するのか?
(●▲)
低音の耳鳴りが、背後で揺れる。振り返ると、目の前に…痩躯の男が浮いていた。
「!?」
魔王だ。黒い短髪に黒い服、青褪めた肌の痩せた男は、顔や手に鮮やかな血の飛沫を残したまま俺を見下ろしていた。
白味の多い酷薄な目つき。削げた頬に薄い唇は引き結ばれているが、苦痛は浮かべていない。
それはそのはず、服の一部は破れているが、肌に傷は見えない。彼は聖職者でもないのに
「▲」
薄い唇が動いて、また耳鳴りが響く。魔王が何か喋っている…が、俺の耳に意味のある音が伝わらない。
「分かりません」
と言ったつもりが、自分の声も歪んで響く。これは…俺の耳がおかしくなっているらしい。頭を振って耳を叩いていると、すっと目の前に骨ばった指を広げた手の平が突き付けられた。
この距離なら、低位の
「●」
蝿の唸りのような音が響いた後、さぁっと涼風が両耳を吹き抜けた。そして、唐突に世界の音が戻って来た。
「あ…」
目を開くと、辺りは幽かな騒めきに満ちていた。呻き声ではない、けれど低い呟きのようなうねりが、あちこちから立ち昇っている。
生き残った人がいるのか?だが、確かめる術は無い。俺の視線は、目の前に浮かぶ魔王に固定されてしまっていた。
「聞こえますか」
低音の声は、怖ろしいというより心地良く響く。
「はい、あの…俺、いきなり耳がおかしくなって…?」
「落雷の音をまともに聞いたから、耳の膜が破れたんでしょう」
答えがあるとは思わなかった。素直に驚いてしまうが、聞いた単語は更なる疑問を口に乗せてしまう。
「落雷?でも、
風系の攻撃魔法は大きく分けて二つ。風そのものを使う『疾風』『竜巻』系統と、雷系統だ。
雷は攻撃として優れている。速く、金属で防げず、熱と打撃、貫通ダメージも付加できる。だが、これも炎と同様に
「問題ありません。…落としたのは
「外側?なのに皆が倒れて…って、雨か!濡れた地面を伝ってのダメージは、頭上の
思わず興奮する俺に、男の表情が変わる。細めた目は変わらず睨みつけるような険を浮かべているが、下がった口の端は不快というより僅かな好奇心の顕れに見えた。
「…聞きたいことがあります」
「え…なん、ですか?」
答えられることであってくれ、と脳裏で叫ぶ。どうやら生きる目もあるらしい、と気付いてしまうと、動揺が湧き起こる。
引いていた血の気が戻って来る感覚に、握り締める
「…鍵の聖女の居場所を知っていますか?」
「聖女、って
その通り、と頷く顔を呆然と見上げてしまう。それは子供の頃、ばあちゃんが語ってくれたおとぎ話だ。
むかーしむかし世界を救った伝説の聖女様を、今、魔王が探している?これは本当に、現実に起こっている事なのだろうか?
「知らないのなら…」
興冷め、と言いたげな光が眇めた瞳に浮かぶ。機嫌を損ねた、と恐れる場面かもしれないが、答えられる安堵が気分を落ち着けていた。
「いや、知ってます。というか、鍵の聖女様のお話を聞いたことのある子供なら、誰でも知ってると思いますけど…」
眉根が寄り、削げた頬がひくりと震える。
「場所は」
「えぇと、世界を締める鍵穴は、風歌う鳥の門をくぐり抜けた古い山の、清き湖にある…と伝わっています。その古い山ってのは
おとぎ話の内容が真実かどうか、などと考えたこともない。だが、
湖を描いた絵画や、聖女伝説を題材にした古典演劇でも、地名は大抵そのまま使われている。
今はすっかり落ち目の
こんな戦場に立っている俺が、すらすらと場所を口に出来る程度に暗記してしまっているのだから。
「ケストレール湖…成程。ありがとうございます」
まさか礼を言われるとは思わず、あぁいえどうも、なんて間抜けな合いの手を返してしまう。
顎を上げて今にも飛び立ちそうな魔王へ、咄嗟に声を掛けたのは緊張感が失せていたからだろう。
「あの!もう、町や村を焼くのは終わり…ですか?」
じろり、と白目を添えた視線が流される。削げた頬に笑みが浮かび、唇が歯を剥きながら薄く開いた。
「自力で生活している規模の村を、いちいち探してまで焼くつもりはありません。私が滅ぼすのは、一方的に搾取する者と…
今の俺は兵士だ、と理解するなり
「無傷で立っているだけのことはありますね」
内心、安堵の息を吐く。自給自足で細々と暮らすような農村は焼かない、と魔王本人が言ってくれた。貴族や
「…唯一の生き残りと見込んで、頼みたいことがあります」
「唯一?」
改めて辺りを見回すと、気味の悪い静寂が満ちていた。吹き抜ける風の音以外、何も無い。先程まで聞こえていた幽かな騒めきは、服や肉の燃える音だったと気付いてしまい…込み上げる吐き気を無理矢理飲み下す。
ここには、死と魔王と俺しかいない。何だこの状況、と可笑しみさえ感じてきた。
「生きて帰れるなら、その…やりますけど」
「…帰る場所はありますか」
魔王の問い掛けは意外なほど穏やかで、優しいとすら言えそうな声音に聞こえた。
「ええ、はい。多分。俺の居た村は、赤ん坊と今にも死にそうな年寄りを入れても、六十人いるかいないかってくらい小さなもんですから。家畜の方が多いような田舎だし、大きな町は近くに無いんで…燃えてないかと」
「結構」
大きく頷く様子は、『良かった』とでも言いたげだった。彼は、大都市の多くの人間を無慈悲に殺戮した『魔王』なのに…
「あの、そもそも…なんでこんな事を?」
彼のした事は、全世界の人が知っている。しかし動機は、おそらく誰も知らない。
今までは、魔王だからの一言で納得していた。魔王が人を殺すのは当然だ、と。だが、目の前にいるこの男は、どうにも『魔王』に思えない。
一人の人間、それも深い苦悩に身を焼く男だ。手足を縛られ、己の内から噴き上がる炎に包まれるイメージは、まるで殉教の聖人画のようで…
いや、待て。どうして俺は、魔王に聖人を重ねているんだ?この男は、している事と本人の印象がまるで違う。
呆然と見上げる先で、魔王の所業を行う男は底光る三白眼で俺を見返した。
「世界が歪んでいるので」
世界が、歪んでいる?それを正す為に、大勢の人を焼いた?
ならば、世界の歪みの原因は人…なのか?
「…」
何か言おうと口を開いたが、言葉は何一つ出てこない。俺も、人だ。だが、それを言うなら、目の前の男だって人のはず。
人が歪めた世界なら、人が正すもの?だとしても、どうして…彼がやらねばならなかったんだ?
「質問は終わりましたか?…私の頼みごとを、告げても?」
聞きたいことなら幾らでもある。答えてくれるだろうとも思っている。だが、今になって濃密な死の気配が気力を萎えさせた。水と人の焼ける匂いが充満するこの平野に立っていると、足元から徐々に力が抜けていく気がする。
無言で頷く俺の後頭部へ、視線が物理的な重さがあるかのように圧し掛かった。
「作戦本部まで私を案内してください」
見上げたのは否定ではなく、何故?が先に立つから。だが、質問は終わりと言われていたので無言のまま口をつぐんでいると、削げた頬に笑みが上った。
「消す対象がそこに大勢いるので。貴族や支配階級の家に生まれたのは本人の選択ではありませんが、これだけの兵を壊滅させた責任は取るべきだ。そう思いませんか?」
『見晴らしの良い平原』に、『雨』の中、『陣を敷いて動かず』魔王迎撃を命じたのは指揮官だ。なるほど、作戦の責任は決定を下した上層部にある。
何せ、結果は惨敗だ。全世界から徴収した中級以下の魔法職人が、この一戦でほぼ壊滅した。それなのに、前線から離れた本部には、まだ多くの騎士と上級魔法職人が残っている。
貴族のお抱え、専属の警護人として。それは魔王討伐より重要なことなのか?
「…分かりました。本部があるのは領主の城です。城といっても、かつての砦を改装した避暑地とか何とか…よく知りませんが、場所は分かります」
「では、一つ用事を済ませたらすぐに発ちます。少し休んでいてください」
すっ、と目の前を二本の足が上へ向かって通過する。
空を飛べたら、とは魔法職を得た者なら誰しも思うことかもしれないが…無理、と悟ったあの日ですら、こんな気分にはならなかった。
「…」
不吉な黒い鳥のように、両腕を広げた影は一直線に飛んで行く。向かう先に何があるか気付いてしまい、膝から力が抜け落ちた。
そうか、今はあそこが、世界で一番人口の多い町なんだ。
ちゃんとした宿舎は指揮官や鎧の兵士達が占拠してしまい、俺たち魔法職は一般の家に分散し無理矢理泊まらされていた。
迷惑そうな町の人達も、吠え掛かってきた犬も。自分たちの生活が脅かされたんだから当然の反応だ。
朝まで俺たちは全員あそこに居たのに、今はもう皆死んでいる。あと幾つか、呼吸をしている間に…あの町の人達も全員、消えてしまうのか。
「うっ…」
今朝、出された芋と野菜の切れ端を煮込んだスープの塩気が喉に蘇る。それをぶっきらぼうに突き出すおかみさんの太い腕。迷惑だ、と口より雄弁に顔に浮かべていた親父さんの噛んでいた煙草の匂い。
きれいでしょ、と庭の花を摘んで犬の首輪に巻いていた小さな娘さんの声が脳裏を過ぎった時、堪えきれず土穴の底に胃液を吐き出していた。
死んでいる。今、きっとあの家族は全員、焼けている。犬も、隣の家の人達も、あの町にあるものは家も店も街路樹も、歴史も記憶も全部何もかもが燃えている。
海の向こうの、知らない国のどこかの町じゃない。今朝までそこにいて、話をした、知っている人達が、死んでいるんだ。
「ぉうげぇ…っ」
吐いているのは後悔か。悲憤か、慙愧の念か。両手を付いた穴の底の土を握り締めながら、それでも頭の一部は冷静だった。
あぁ、魔王はかくも平等だ。貴族と平民、魔法職人の上級と下級も問わず、善人と悪人の区別もしない。大人も子供も、人も犬も…
そう、あれは『死』をもたらす者。ならば
成程、俺では魔王を止められない。何故なら、俺は選んでしまう。知っている人、優しくしてくれた人、無邪気な子供や犬なんかは生きてほしいと願ってしまう。
だが、彼は。人の身で人を滅ぼす覚悟を決めた男は、違う。あれはもう、人の形をしている死だ。俺に、ただの人間に、それを止める力など無い。
俺は小さな村で家畜小屋を護るしか能の無い魔法使い。たった一人を殺す覚悟も持てやしない、小心者で臆病な男だ。
「…ごめん…」
いつの間にか頬を流れ落ちる涙が、土に染みていく。誰に対して謝っているのかも分からぬまま、嗚咽を吐き出す。
静寂に満ちた平原を、すすり泣きの声が風に混じり…累々と重なる屍の上を吹き抜けていった。
この日、支配階級の貴族や将軍といった特権階級は全滅した。各地から徴兵された魔法職と一般兵はもちろん、騎士や上級魔法職人までもが死に絶えた。
それが意味するのは、魔法文化の途絶。
およそこの世で、軍事から生活まで魔法の恩恵を受けていない分野は無いといって良いだろう。武器の代替のみならず、建築土木から運搬、調理、農業漁業に至るまで、魔法は多岐に渡り関わっている。
軍事に特化した上級魔法職人より、むしろ中級以下の魔法使いが一般人の生活に密着した魔法文化を担ってきた。
だが、この日を以って全てが消えた。石材や丸太を揃えて切り出す方法も、野山を整地する方法も、川の流れを変えたり流量を増減する方法も失われた。
大量の物資を一度に運ぶことも、物を腐らせず保存することも、害虫を避けることも出来なくなった。
治癒も解毒も施されず、灯り一つ得るのでさえ必死に石を打ち付けねばならない。
もちろん、今はまだ幼年ながら魔法の才を得ている者はいる。これから産まれる者の中にだって、かつての上級職を凌ぐ才能の持ち主もいるだろう。
だが、教えられる者がいない。人は、また一から手探りで知識を得なければならない。大都市の
数ヶ月の間に、人は数も文明も失った。今では肉体で為し得る範囲の労働を繰り返すだけの生活が、各地の小さな集落で細々と続くだけとなった。
元からそういう暮らしをしていた農村に、表立った変化は見られない。徴収された魔法職の抜けた穴を埋めるのに必死で、皆が目の前の生活に追われていた。
それでも、井戸は冷たい水を湛え、雨は適度に地を潤すだろう。天は暑すぎず寒すぎることもなく日の光を恵み、地震いも山の火も言い伝えでしかない。
遠い地でたくさんの人が死んだとしても、今まで通り昨日と同じ今日を生きるだけ。
この百年、ずっとそうして来た。
それが奇跡の賜物だとは、誰一人として思っていなかった。
ゆえに彼等とて例外なく、『一方的に搾取する者』である。
畑を耕す男は、例年この時期に降り始める雨の気配が無いことに首を捻った。
家畜を追う娘は、見渡す牧草が次の年に生えなくなるなど、夢にも思わない。
誰も知らない。世界を締めていた鍵穴から、『鍵』が抜かれた事を。
誰も知らない。聖女と魔王の過去と
誰も知らない。壊れゆく世界の、これからを…
終
鍵の聖女 柾 桔梗 @neko_9
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