猫は知っている

満つる

猫は知っている



 長い斜面をまっすぐに貫く階段の脇、手入れされていないぼうぼうの草むらの中で、何かが急にガサガサと音を立てて動いた。びっくりして思わず足が止まる。少しばかり腰が引けたけど、そのまま動かずに音がした方をじっと見つめていると、微妙な間があって、それから少しして、

「にゃー、」

 小さい鳴き声がした。

 猫、か。

 ホッとして気が緩んだ。と思ったら、

「にゃああ」

 今度は明らかに猫ではない声。多分、人間。それもヒト科女子、もしくはヒト科幼いコドモ。

 ガサガサと音が大きくなって草むらが大きく揺れて、こっちに近づいてきて──、

 ガバッ、

 いきなり何かが立ち上がったから、「わわ」、つい声が漏れた。

 同時に向こう側からも

「ええっ」

 それまでにしていた音と動きと比べたら、決して小さくはない何かが声を発している。

 ヒト科女子、それも同じクラスの小川、だった。



「なんでおまえ、こんなところにいるんだよ」

 脅かすなよ、とはさすがに言わずにいる。こんなことくらいで驚いたなんて思われたくはない。

「それは山根くんだって同じでしょ?」

 口を尖らせてる割に声がちょっと震えて聞こえる。ってことは、こいつもそれなりに驚いてるんだろう。その割に目力が強い。まあ当然か。手の中にそんなのがいるんじゃ、な。そんなのを抱えているから、制服のあちこちに枯れ葉がついたままだ。スカートがめくれかけてる、太ももがチラ見えしててドキドキする、ヤバい。

「にゃー」

 一番最初に聞こえた鳴き声はこいつだろう。小川の手の中にいる、目がくりくりとした子猫。顔の大きさの割にピンと立った耳がデカイ。なんか半分泣いてるみたいなヘタレ顔。抱いてる小川も似たような顔してるのが姉妹みたいに見えなくもない、って言ったら怒るだろうか。

「おまえんちの?」

 あごで猫を指すと、黙って首を横に振っている。

「……朝、学校行く時に鳴いてるのを見つけちゃって。気になって覗きにきたら、まだここにいたから」

「じゃあ、野良か、迷子か」

 野良にしちゃ珍しい種類って感じがするけどな、言いながら手を伸ばしたら、小川の手の中でからだをすくめた。失礼なやつ。

「で、飼うの? おまえんちで」

 黙ったまま小川はもう一度、横に首を振った。

「んじゃ、どうするつもり?」

「……分かんない。生き物って飼ったことないから。うち、弟がアレルギーで、そういうの全部ダメだから」

 下を向いてぽつりぽつりと話す。猫が小川の顔を見上げて甘えるように、にゃー、と鳴いた。

「どっちにしろこのままってわけにはいかないから、下の公園まで行って座って話さないか?」

 促すと、にゃああ、と即座に返事が返ってきた。

 はい? と思って顔を見れば、小川の代わりに猫がこっちを見ている。はいはい、きみ、ほんとはこのひとの飼い猫ならぬ飼い主なんじゃないの? と声をかけたくなるような絶妙さだ。



 公園の端にあるベンチに並んで腰を下ろした。小川の手の中の猫は逃げる気配も見せず、大人しくオレを見ている。

「で、どうしたいわけ?」

 かばんからペットボトルを取り出して一口、飲んだ。スポドリ。これはさすがに猫にはやれないよなあ。それでも猫はこっちを見たままだ。悪いな。

「……迷子にしても、うちでは預かれないし」

「だったら一番手っ取り早いのは、動物病院に連れてくことかな」

 オレの言葉に小川は顔を上げて目を見開いた。

「迷子にしろ野良にしろ、外にいたんだから、一度診てもらった方がいいし、もしかしたら飼い主知ってるかもしれないし、野良なら引き取ってくれるひと探す方法だって知ってるはずだし」

「……山根くん、詳しいんだね」

「まあね、」とだけ返す。

「でも、病院に連れてったら、そこから先はもう会えないんだよね?」

「お。それはどうなんだろう。そうなのかな、やっぱり」

「……何か、離れがたくて。この子と」

 猫を見たまま、小声で話す小川。

「んー。気持ちは分からないでもない。おまえんちの飼い猫って言われてもすぐに納得してそうなくらい、なんかやけに懐いてるもんな」

「そう、思う?」

「ああ、」

 オレの相づちに小川は目を細めた。小川の胸の辺りで、子猫も気持ち良さげに目を細めている。ほんと姉妹かよ、って言いたくなる顔が縦に並んでて、オレからしても『離れがたい』って言葉がすんなりと腑に落ちた。

「……あーあ、仕方ねえな」

 ぽん、と膝を叩いて、立ち上がる。横で小川が、何? って顔になった。

「だったらさっさと行くぞ?」

「……動物病院?」

「違う」

「じゃあ、どこ?」

「いいから。まずはとりあえず相談するだけだから、」

 オレの半端な答えに、小川は不安げな顔で、それでもこくりと頷いた。猫も今度は鳴かずに小川の手の中からオレのことをじっと見つめている。



 ガタガタうるさい引き戸をいつもよりさらに乱暴に開けた。

「来たぞー」

 わざと声を張り上げると、奥から、

「うるさーいっ」

 どっちがだよ、って声が返ってきて、それから少し遅れて、足を引きずったカズミがゆっくりと現れた。

「あれ? リョウにガールフレンドなんていたんだっけ?」 

 それもこんな可愛い子たちがセットで。って、さすがによく見てる、すぐに気がついたな。

 小川は困ったような顔になって、オレとカズミを交互に見比べた。

「ああ、カズミはオレのばあちゃん」

「ばあちゃんって言うな、って何度言ったら分かるかな」

 言いながら、あごの下にげんこつをぐりぐりと押し当ててくる。格好だけで痛くはない。ただのスキンシップってやつだ。

「だってホントのことだろ」

 げんこつを上から掴んで、わざとぎゅっと両手で握ってやった。カズミが嬉しそうににやにや笑う。

「言い方。カズミと呼べと」

だなんてぜってー言わねーし」

 目を白黒させている小川の胸元で、子猫がにゃー、と鳴いた。

「珍しい子、飼ってるんだね」

 カズミが覗き込むと、小川がオウム返しした。

「珍しい、んですか?」

「ん、多分、だけど、古代エジプトからの、って言われてる種類なんじゃないかな」

 ちゃんと調べないと断定はできないけど。カズミの言葉に、小川の目がでかでかと見開かれた。

「だったら、野良、ってことはないんでしょうか?」

「え? ってことは、保護した子、なの?」

 今度はカズミがオレと小川を見比べる番だった。

「そ。だから、相談しに連れてきた」

 しれっと言うと、

「あー、もう。だったら、さっさとふたりとも中、上がってよ。そんな話、立ち話で済まないでしょう。そうでなくたって、足、痛いのにぃ」

 カズミがしびれを切らしたように声を上げた。



 ひと通り小川が話終えると、カズミはすぐに頷いた。

「そういうことなら、いいよ、うちで面倒見ようじゃない」

「え? だって、そんな……、いいんですか?」

 あまりの話の早さに、小川が呆気にとられている。

「いいも何も、だってそれが一番でしょ? この子にも、あなたにも、それから私にとっても」

 どういうこと? と小川の目がオレに問いかけてくる。

「あー。カズミ、割と最近、飼ってた犬、死んじまったばっかりでさ」

「犬?」

「そう。柴犬のはな、って女の子だったんだけどさ、まあ、もう年も年だったから、仕方ないっちゃ仕方なかったんだよな?」

 それとなくカズミを促すと、カズミはふぅ、と小さなため息を零した。

「はなはね、ほんとに可愛い子だったの。犬だから当然、毎日散歩にも行ってた訳だし、私、ひとり暮らしなもんだから、いなくなっちゃったらそりゃあもう寂しくてね。いわゆる『ロス』ってやつだよね。散歩しなくなったせいか、近頃は足も重くなる一方で。で、この前、バスに乗る時に、ちょうど向こうからバスが来るのが見えて。慌ててバス停まで走ったら、足、ひねっちゃったのよ。それでこんなことになっちゃって」

 座った椅子の先で、カズミはわざとらしく足をぶらぶらと振って見せた。

「で、あんまり凹んでたからか、また何か飼うといいって皆に言われてるんだけど、そんな簡単にはなの代わりなんて見つけられないし、そんなことしたくもないし。どっちにしろ足もこんなだから、仮に今、犬が家に来たとしても、散歩にも連れていけないし。だけど猫なら散歩する必要もないでしょ。それにこの子を飼えば、もれなく若いひとがふたりもついてくるみたいだから、足が治るまでの間、色々と困りごとがあったとしても頼れそうでいいじゃない」

 カズミがにやにや笑いながら言うもんだから、こっちもつい口を滑らせちまう。

「なんで『ふたり』なんだか」

 言ってから、ああバカ、ってすぐに頭を抱えたくなった。せっかくの機会をみすみす自分から捨ててどうするんだよ、って話。

 と思ったら、「それってこれから先も来ていい、ってことですか?」と小川が目を輝かせた。

「いいに決まってるじゃない。って言うか、ぜひ来てよ。足がこんなだからって言うより、何よりこの子、ほんとあなたに懐いてるもの。保護したばっかりの子とはとても思えない」

「……ありがとうございます」

 ぺこりと頭を下げる小川に合わせるように、にゃあああ、と大きな声で猫が鳴く。

「ほんと、絶対に分かってるよね、この子」

 カズミがにまにましながら猫の顔を覗き込む。にっ、と猫が短く鳴き返す。

「ああ、もちろん、迷子って可能性もゼロではないから、あちこちに声はかけるけどね。それでもしも飼い主が現れたら、その時は当然、うちでは飼えなくなる訳だけど」

「ああ、はい。それはもちろん分かっています」

 再度、深々と頭を下げる小川に、カズミは慌てたように手を振った。

「そういう水臭いのナシだから。いつでもふつうに遊びに来てくれればいいから」

「……ほんとにいいんですか?」

「もちろん。こいつと一緒じゃなくたって、ひとりで来てくれて全然構わない」

 そう言ってオレの顔をちらっと見るカズミの目が、いたずらっ子みたいに光っているのをもちろんオレは見逃すはずもない。ほんとヤなやつ。

「いいけど、カズミって結構人使い荒いからな。それだけは覚悟してた方がいいぞ?」

「ヤダなあ。私、女の子にはそんなことしないよ。するならリョウにだけだから」

「ババア、ムカつく」

「ばあちゃんだって禁句なのに、ババアなんてもはや罰金モノ」

「こんなに献身的に学校帰りにヘルプに来てやってる孫に、お小遣い渡すどころか罰金とか言い出す方があり得なくなくね?」

「はいはい」

 それ以上言うならこっちも、って含みを持たした目でカズミがオレのこと見たもんだから、オレはそこで口をつぐんだ。そんなオレたちのことなど目に入らないのか、小川は嬉しそうに子猫を撫でている。

「よかった。これでずっと会えるね」と言いながら。


 カズミの家をふたりで出た時には外はもうすっかり日が暮れていた。

「リョウ、ちゃんと家まで送ってくのよ」

 カズミの言葉に、小川が慌てて手を振った。

「大丈夫です。近いので」

「いいから、それくらいさせてやってよ」

「ああ、コンビニにも寄りたいし、だから送る。近くにあったろ」

「うん、じゃあ、」

 小声で小川が頷く。

「じゃあ、小川さん、またね」

 約束、そう言って、カズミは手の中の子猫を小川の頬に寄せた。小川も子猫もくすぐったそうな顔になっている。にゃあ、と子猫が鳴く。

「にゃー、」

 小川が子猫に返した。

「ほら、行くぞ?」

 名残惜しそうな小川を促すと、ん、とオレに頷いてから、カズミに向かって「よろしくお願いします」、改めて丁寧なお辞儀をした。

「そういうの、いいから、」

 カズミが照れ臭そうに足に目を落とす。

「足、こんなだから、しばらくは家で大人しくしてるし、治っても夕方のこの時間はほぼ必ず家にいるから、だから遠慮なんてしないで、学校帰りでもいつでも寄ってよね」

 って、学校帰りに寄ったら先生に怒られるのかな? なんて今更なことを言って首を傾げてるから、

「だったらよっぽどオレの方が怒られるだろ。制服のまんま家とは方向違いな所にほぼ毎日来てるんだから」

 って言ってやった。そしたら言うに事欠いて、「あら、リョウはいいのよ。私の面倒見るのは当たり前だし、それにほら、ね?」だと。オレは黙って肩をすくめた。



「山根くん、なんでこっちに毎日来てるんだろうって思ってたら、おばあさんのためだったんだね」

 優しいんだね、と微笑むから、オレは慌てて顔をぶんぶん大きく振った。

「いやいやいや、お小遣いもらえたらラッキーくらいは当然考えてたし」

 それだけじゃない、小川の姿がちらっと見られるだけでも良かったんだ、とは口が裂けても言えない。

「それくらいは皆、ふつうに考えるよ」

 ふふふ、と小川が笑う。笑った顔がやっぱり可愛いなクソ、と改めて思った。こんな近くで笑顔が見られて、ああ役得じゃねーか。猫とばあちゃんに感謝、だ。

「猫のこと、ほんとありがとう。あの子を飼えないのは残念だけど、いつでも会えるって思うだけで嬉しい」

 それにカズミさん、だっけ、楽しいおばあさんだよね。思い出し笑いをしている小川を見ていたら、つい、本当のことを言いたくなるけど、そこはぐっとガマン。

「まあさ、変わってるけど、生き物飼うのあいつ得意だから、猫も昔、飼ってたから、そこんとこは心配しなくていいよ。それにほんとにあいつには遠慮なんて要らないから、」

 だからいつでも好きな時に行けよな、って言葉は敢えて言わずに飲み込んだ。

「うん、ありがと。多分、私、毎日行くと思うから、これからお付き合いのほどよろしくね」

 そう言って小川がオレを見上げた。思わずオレは心の中でガッツポーズをした。もちろん、そんなことおくびにも出さない。

「ああ、こちらこそよろしくな。でも、寄り道って思われるとアレなんで、学校ではこのことは内緒ってことで」

 あくまでもさり気なく聞こえるように言った、つもり。

「分かってる」

 小川の返事もさらりとしたものだった。


 ✻


 ふたりが帰ったあと。子猫はにゃああああ、と大きく伸びをした。

「お疲れ様、子猫ちゃん」

 カズミが可笑しそうに笑った。

「恋のキューピッド役も大変よねえ」

 あなた、あの可愛い彼女のために現れたんでしょ? そう言ってカズミが子猫の顔を覗き込むと、子猫は面倒臭そうに、に、と短く鳴いた。

「とにかく、これからは毎日、忙しくなるわね」

「に、」

「そう言えば、名前、まだつけてなかったけど」

「に、」

「ま、いいか。明日になったらどうせまたふたりとも来るんだろうし、」

「に、」

「あの子たち、ふたりともお互いに全然気が付いてないんだもの。笑っちゃうわよね」

「に、」

 彼女、リョウがこっちに来てるのを知ってたみたいだし、リョウはリョウで彼女の家までちゃんと知ってるみたいだし。やーね、ほんとに。

 くくく、とカズミが笑う横で、子猫はからだを丸くした。仕事は全部、終わったと言わんばかりに。そろそろ寝る時間だと言いたげに。

「生き物がいる、って面白いわね、やっぱり」

 カズミはそう言うと、猫の背をそっと撫ぜた。子猫は黙ったまま目を閉じている。子猫が何を思っているか、それは誰にも分からない。










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