2.クリスティーナの日記

08年7月26日 《昨日は結婚記念日1周年。ロイドがあたしにフェラガモのパンプスをプレゼントした。箱を見た時には一瞬興奮したけど中身を見て内心で溜息が零れた。アウトレットの見切り品?このセンスの無さって一体?あたしが気に入るとでも思ったのか?将又このヴァラリボンだか何だか知らないけど、このパンプスがあたしに似合うとでも思ったのか?このセンスの無さには脱帽だ。作り笑いを浮かべるのに苦労した。先が思いやられる。だから、あたしは今日から日記を書く事にした。毎日は書かないだろうけど何かフラストレーションやストレスを感じた時に書く事にする。このパンプスは何れ質屋に入れるだろう。箱だけあれば彼には気付かれないと思う。だって彼はこんな高価なプレゼントをした自分を自賛し自己満足に浸っているだけだろうだから。あたしがこのパンプスを履いてなくても気にも留めてないと思うから…》


08年9月8日 《今日はロイドとフレンチレストランでディナーをした。彼はちょっと粗相をしたウエイターに横柄な態度で上から目線で激昂した。あたしから見ればそこまで言わなくてもと思った。もうこの世はお客様は神様だって時代は疾っくに終わっているのに。駆け出し弁護士の身分でもう特権階級意識か?はぁ~、またしても溜息が零れる。一体、何様だと思っているのだろう。お前も一回、人様に公衆の面前で扱き下ろされればその気持ちが解る日が来るだろう》


08年10月4日 《今日はロイドは休み。朝からゴルフとベースボールのチャンネルをあれこれ切り換えている。観るんならどっちかにしろよって感じでイラッとする。男って浮気性だから仕方ないのかな?あたしは一人で読書。世の夫婦もこんなものなのかな?付き合ってた時と結婚してからは何かあたしに接する態度が変わったような気がする。あたしはロイドの所有物じゃない》


08年12月25日 《ロイドの務める弁護士事務所のクリスマスパーティー。彼はまだ駆け出しの身分なので必死に上司に取り繕うとしている。プライドってのは持ち合わせていないのかな?仕事なんてのは実力で勝ち取れってーの。これが旦那かと思ったらげんなりする。パーティーに来てる人達の7割くらいは高慢で鼻持ちならない人だった。弁護士なんて人種は依頼人が悪人でも依頼人の利益を優先する奴らばかりだから何奴も此奴もクソったればかりなのかも知れない。中には善人もいるのだろうけど。ロイドもいざ悪人の弁護を引き受ける事になれば悪魔に魂を売り渡すとあたしは思う》


09年2月4日 《ロイドから仕事に専念したいから子供は今のところ作る気にはなれないと言われた。そして、用心に超した事はないからピルを服用して欲しいと一か月前から言われていた。一か月前は踏ん切りがつかなかったけど今は声を大にして言いたい。このクソヤローと…男って身勝手で卑怯。あたしは女性として否定されたような気分。彼を見る目がまた大きく変わったような気がする。ピルを服用しだして生理痛は緩和した》


09年4月2日 《ロイドがあたしを求めてくる。平均して週に3回、多い時には5回。子供はいらないけどセックスは別腹みたいなのが何かムカつく。昔と違って彼は独り善がりのセックスになっていっている。あたしはお座なり。あたしはお前の性奴隷じゃないつーの。男って自分だけ満足出来ればいいのかしら。これってフェアじゃ無い。此奴と寝るくらいなら一人Hの方が増しかも知んない。フラストレーションがめっちゃ溜まる》


09年6月6日 《今日はロイドのリクエストでオムライスを作った。ロイドが卵の半熟加減で小姑のように小言を言ってきた。それならお前が作れつーの。炊事、洗濯、掃除げんなりしてきた。あたしはお前の家政婦じゃないつーの》


09年7月4日 《今日は独立記念日。ロイドの両親がやって来た。良い妻を演じるのは疲れる。めっちゃ神経磨り減った。舅のあたしを見る目が卑猥でキモい。姑は神経質で嫌味を言うのでめっちゃムカつく。同居なんてする事になったら絶対離婚。それだけは勘弁して欲しい。寝たきりになっても介護も勘弁して欲しい。来年の独立記念日には来ませんように。毎年来るようならいっその事独立記念日を無くして欲しい》


09年7月15日 《今日はあたしのバースデー。期待はしてなかったけど中身を見るまでもなく内心で溜息が零れる。広大な砂漠で渦巻く砂塵に吹かれながら一人立ち尽くしているような心境とでも言おうか。プラダの冠を被っているつってもキーケースなんかいらねーつーの。もっと、あたしのテンションが上がる物買って来いつーの。だんだんプレゼントが貧相になっていっているような気がする。釣った魚には餌をやらない典型的な男の模範例だ》


09年7月26日 《昨日は結婚記念日。今年はドルチェ&ガッバーナのフレグランス。期待はしていなかったけどフレグランスならまだ良しとするかとコーンフレークのCMに出て来る少年のように屈託のない笑顔を作って有り難そうに受け取った。開封して試しに手首に馴染ませて香りを嗅いでみた。場末のパブのショウガールみたいな香りがした。すぐに手首を石鹸で洗っていつも使っているクロエのオーデコロンを馴染ませて一息ついた。まあ、誕生日と結婚記念日が同じ月なので纏めて一緒に祝ってプレゼントを一つにして安くあげるクズ男よりは増しだと思う事にしよう。誕生日とクリスマスが同じ日の子はつくづく可哀想だなと思う》


09年8月16日 《今日はロイドのバースデー。昨年はすっかり忘れていた。あたしって自分の記念日を忘れられたらめっちゃムカつくんだけど人の記念日には然程関心が無いっていうか。彼は冷静を装っていたけど内心は腹立たしそうにしていた。いつもクズみたいなプレゼントばかりされているので然程罪悪感は感じなかったけど(笑)なので今年はポール スミスの小紋柄のタイとダナキャランのハンカチをプレゼントした。あたしの見立てでは法廷でも高潔に見えて見栄えもバッチリなタイだと思う。彼と違って己のセンスに酔い痴れる。我ながら良き妻》


09年10月10日 《ロイドと大喧嘩した。原因は冷蔵庫の中に見つかり辛いように隠していたあたしのプリン ア ラ モードを無断で食べた事に起因。たとえ、食べてもいいかい?と聞かれても許しはしなかったけど…挙句の果てには自己肯定仕出して『そんなに食べられたくなかったのなら〈クリスティーナ絶対食うべからず〉って書いておけばいいじゃないか』と宣った。超イライラするんですけど…マジ、ムカつくんですけど…フルボッコにしてやりてー!ボクササイズにでも通おうかしら。今ならタイソンでもKO出来そうな気がする。鏡の前でファイティングポーズを取ってみた。意外と様になっていた》


09年12月25日 《今年のパーティーはロイドとあたしの友人を招いて我が家でした。あたしの友人は良い奴らばっかだけどロイドの友人にはクソヤローも混ざっている。類は友を呼ぶっていうあれか。まあ、ロイドの両親よりは増しかと思ってここはぐっと堪える。人には時には忍耐も必要だと己に言い聞かせる。アリス、ヘレナ、タバサ、エリカ、ミーナとプレゼントを交換した。みんな、あたしの趣味を理解しててめっちゃ気に入った。誰かさんとは大違い。やっぱ持つべきものは友だな。旦那は屑箱にポイってしたくなる時があるしね。超楽しかった。ヤッホー。来年はあたしの友人だけ招待してクリスマスを祝いたい。ロイドの家族だけは願い下げ》


10年1月7日 《最近、ロイドの小言が多い。食事や整理。あーしろだのこーしろだの。母親にそっくりでうんざり。あー、何か結婚ってめんどくせー!あたしのプライヴェートまで何かに付けていちゃもんを言ってくる。あたしはお前の家政婦でもメイドでもないつーんだよ。彼奴への愛が薄れていっているのに自分でも気付いてる。離婚も視野だな、これは》


10年2月25日 《ロイドとのセックスが苦痛に感じる》


10年4月4日 《街でカフェしてたら大学生の男の子に声を掛けられた。軟派みたいなチャラい感じじゃなくてかなり好印象なファーストインプレッションだった。あたしがジュディ バドニッツの『空中スキップ』を呼んでいた時だった。男の子が『その本おもしろいですよね』って話し掛けてきて『もし宜しかったら相席させてもらってもいいですか?』って聞いて来た。それで『空中スキップ』の話や好きな作家の話で盛り上がった。名はローレンス フィーニーって言っていた。さり気なく『今度、デートにお誘いしてもいいですか?』って聞いて来た。今度の日曜にデートに行く約束をさせられた。彼の迷い犬のような哀願するような眼差しに絆された。子役時代のマコーレ カルキンのような可愛い子でちょっとタイプかも。映画館で待ち合わせる事にした》


10年4月13日 《ロイドにはヘレナと会うと言って映画館でローレンスと映画館の前で会った。彼はギンガムチェックのYシャツにライトグレーのジャケット。カーキ色のカーゴパンツに迷彩柄のコンバースのハイカット。服のセンスはロイドより格段に上。彼が手を繋いできたのでちょっとドキッっとした。『アリス イン ワンダーランド』を一緒に観た。ジョニー デップは何を演じさせても様になる。めっちゃおもしろかった。その後、デニーズで食事をした。彼が今日は僕が誘ったんだから奢らせてくれと言うので高いとこは行かない様にしようと気を遣った。映画代も彼が出してくれた。彼って可愛いけど男らしさもあって人間的にもロイドの数段上を歩いてる。ホテルに誘われるかと思ったけどローレンスは女性の取り扱いも心得ている。これもポイントアップ。ロイドとは月と鼈。ロイドは大きく水をあけられる。一応、勝負下着を身に付けていたが今日はお披露目無し。彼と連絡先を交換した。この為に別のメールアカウントを取得していた。連絡はメールでするようにして電話は使用しない。通話履歴なんか残ってもバレた時めんどくさいし。スマフォのロックは絶対に放置する時は掛けるようにする。既婚者とは伝えているけどローレンスは『それでも構わない。君無しじゃ僕は生きていけない』とまで言ってくれた。何処まで嘘か真か分らないけど女ってこんな言葉にめっちゃ弱いのよね。彼に夢中になるかも?》


10年4月25日 《昨日、ローレンスからメールがあった。明日は動物園に行く約束をした。子供の時以来で何かテンション上がる。彼と一緒だからというだけでテンションはスカッドミサイルのように急上昇。これがロイドとだったらバンジージャンプのように急降下。明日がめっちゃ楽しみ?》


10年4月26日 《ローレンスと動物園に行った。コアラやリスがめっちゃ可愛かった。食事の後に互いの同意でホテルに行った。彼がやさしくあたしをリードしてくれて包み込んでくれた。ロイドとは大違い。久々にオーガズムに達した。めっちゃピュアになれたし彼とのセックスは良かった》


10年5月6日 《今日はローレンスと会った。昨晩の急遽のメール。ロイドは仕事の件で依頼人と会っていたので不在だった。いてもトイレでこそっと待ち合わせの約束はするけどね。デパートで服を見たり本を見たりカフェしたりした。あたしがジミーチュウのロゴがプリントされたロンTを見ていたら彼が『プレゼントするよ』って言ってくれた。セールで40%オフになってたけど、それでも150ドルくらいしたから、あたしは『いいよ、高いから』って言って断ったんだけど買ってくれた。めっちゃ嬉しかった。あたしもお返しにマーク ジェイコブスのポロシャツをプレゼントした。280ドルもしたので彼は遠慮して『気を遣って僕には買わなくてもいいよ、クリスティーナ』と言った。あたしは『いいの、気にしないで』とウインクを投げてプレゼントしてあげた。どうせロイドが稼いできたお金なんだからと思って値段も然程気にしなかったし。罪悪感なんて微塵も感じない。ロイドには過労死するくらい働いてもらって稼いできて欲しい。あたしって『プラダを着た悪魔』じゃなくてジミーチュウを来た悪魔になるんだわ。ロイドが『その服どうしたの?』って聞いてきても『ネット通販で買った』とだけ言えばいいや。買い物の後ホテルにチェックイン。今日はローレンスとデートしてめっちゃ若返ったような気がする。彼との密会はアヴァンチュールで危うい感じがしてそのスリルが堪らない》


10年5月23日 《今日は朝からローレンスとデート。本屋でエイミー ベンダーの『燃えるスカートの少女』を買った。彼から『クリスティーナって服の趣味といい本の趣味といいセンス良いよね』って言われた。素直に嬉しかった。その後オリーブ ガーデンでランチ。あたしはシーフードのクリームパスタ。彼は海老が入ったジェノベーゼを食べていた。そして昼からホテルにチェックイン。初めて彼にフェラしてあげた。彼は恥ずかしそうだったけど反応がいじらしくて可愛かった。ロイドのなんて銜えたくない。ローレンスとロイドのを比べたら45口径と22口径くらい違うからね。今のあたしだったらロイドの粗チンは噛み千切っちゃうかも…》


10年6月5日 《今日はセックスのみが目的であたしからローレンスを誘った。昼間からのアヴァンチュールは何か背中がゾクゾクする。彼が果てそうになったので『中に出してもいいよ』って言ってあげた。彼は一瞬たじろいたけど『ピル飲んでるから』って言ったらちょっと嬉しそうな表情になった。2回戦まで行った。やっぱ若いって素晴らしい。あっちの方も元気がいい!ロイドなんて中折れしちゃう時もあるし》


10年7月15日 《今日はあたしのバースデー。前から欲しかったディーゼルのプレスレットをロイドがプレゼントしてくれた。意外とあたしの事なんて気に掛けてないみたいな感じなんだと思ってたけどそうじゃなかったんだ。何だか罪悪感に苛まされた。暫くこのノートにロイドの事を書くのを止めようと思う。何だか自分の人間性にも問題があるような気がしてきた…》


10年7月26日 《今日は結婚記念日。ロイドはこの前のバースデーはあたしの欲しかったディーゼルのブレスレットをくれた。今日はステーキハウスのジェス&ジムに連れて行ってくれた。めっちゃ美味しかった。そして夜景が綺麗な展望台へ。ロイドが車に戻ると『これ、クリスティーナ、いつも俺の事支えてくれてありがとう。これからもよろしくお願いします。愛してるよ』と言いながらティファニーのオープンハートのネックレスをプレゼントしてくれた。何か知んないけど自然と涙が溢れてきた。良い結婚記念日になった》


10年8月2日 《一週間悩んだ結果に答えを出した。昨晩、メールでちょっと話したい事があるからってローレンスにメールしてカフェで会った。『あたしは主人の事を愛してるからやっぱりあなたとはこのままの関係では付き合えない。ごめんなさい。彼は傷心しきった表情で『クリスティーナ、君がそう思うのなら僕は無理強いはしないよ。君と会った日から4ヶ月間、本当に楽しかったよ。ありがとう』と言ってくれた。あたしはあたしを何て身勝手な女なんだろうと自己嫌悪した。暫くこのノートは書かないようにする》


19年10月29日 《久々にこのノートを開いた。過去の自分と向き合うという意味合いも兼ねて。若かったし馬鹿だったなぁ~って思う事が多々ある。何だか最近すぐ疲れる。関節も痛いし鼻血もよく出る。倦怠感と不安に襲われる。あたしは何か大病を患っているような気がする。明日、病院に行って診察を受ける》


19年10月30日 《今日、病院に行った。採血した。白血病の疑い有りと診断され精密検査を受けた。結果は10日後に聞きに行く》


19年10月31日 《今日はハロウィン。別にこれといって何もしないけど。取り敢えず身体がだるい。全てはもうすぐ解る》


19年11月9日 《診断が出た。あたしの病名は急性骨髄性白血病。ロイドに伝えたら『望みを捨てずに一緒に頑張ろう。俺が側にいるから』と言ってくれた。明日、入院する事になった。もう、この家に帰って来れるかどうかは運次第。あたしは死んでも不貞の罪できっと地獄の業火で焼き尽くされるんだろうな。だから、こんな病気にもなるんだ。神様はこんなあたしには免罪符を与えてはくれないだろう。本当ならばこのノートを燃やすべきなのだろう。あたしの為にもロイドの為にも。でも、それをしたらあたしは偽りの人生を送ったような気がしてならない。あたしは虫の知らせが聞こえる。もし、このノートをロイドが目にした時の衝撃は計り知れないだろうと思う。ロイド、ごめんなさい。こんなあたしで。そして、ありがとう》


クリスティーナの日記の最後はこう締め括られていた。


ロイドの心中には春の若葉をやさしく揺らすそよ風と秋の落ち葉を舞上げる寒風が同時に吹き抜けていくかのような何とも名状し難い複雑な心境に捕らわれた。


クリスティーナが好きだった“風に吹かれて”のメロディが脳内に響き渡る。


ロイドは己に問う。


この箱の蓋を開けるべきだったのだろうか?


人は時には知らずにおいた方が良い事もある。


俺はパンドラの箱を開けてしまったんだ。


一陣の風がロイドの胸中に吹き抜けていく。


プライド、家族、信頼、愛情といった柵を竜巻に根こそぎ持って行かれた心境だった。


そして、ロイドの心中は荒漠とした広野となった。


ディランは歌っている。


応えは風の中にあると…

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フェラガモの箱 Jack Torrance @John-D

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