フェラガモの箱
Jack Torrance
1.旅立った妻
五月晴れ。
誰しもがそう呼びたくなるような澄み切った青空に緩やかに戦ぐ風。
耳を澄ませば若葉の葉擦れの音とともに初夏の訪れを運んでくる。
街は緑に溢れ春の息吹きは増すばかりだった。
2020年5月24日。
その日は日曜日で穏やかな午後だった。
クリスティーナ プライスはその35年の生涯に終止符が打たれ眠るように天に旅立った。
言い換えれば彼女は安息日に安息の地に旅立ったという事だ。
クリスティーナが夫のロイドに最期に伝えた言葉。
「あなた、今までありがとう。あなたと過ごした13年はあたしにとって何ものにも代え難い掛け替えのない月日だったわ。あなたと初めてデートした日。あなたと観た映画。あなたがあたしの手を握ってくれて山登りした日。何もかもが走馬灯のように思い出されてならないわ。嬉しかった事。悲しかった事。喧嘩もしたね。でも、全てあたしの記憶に刻まれている。あたしの人生、何不自由の無い幸せな結婚生活だったわ。ちょっと早いけど先に行って待っているね。愛してるわ、あなた」
クリスティーナは窶れた顔に薄っすら笑みを浮かべ思いの丈を言い残し逝ってしまった。
彼女はディランが好きだった。
ディランのその声。
そして、彼が詞に託すメッセージ性。
5月24日は偶然にもディランの79回目のバースデーだった。
ロイドは彼女が好きだったディランの“風に吹かれて”を病室のベッドの上で亡骸となって横たわっている彼女の耳元で流してあげた。
クリスティーナは昨年の11月に急性骨髄性白血病と診断されて入院し治療に専念していたがその甲斐も虚しく帰らぬ人となってしまった。
ロイドはクリスティーナよりも5つ年上で5年前に独立して弁護士事務所を構えていた。
クリスティーナはそんなロイドを献身的に支えていた。
葬儀にはクリスティーナとロイドの親族、友人、知人と多くの人が参列していた。
棺の傍らで悲痛な面持ちで佇んで涙しているロイドに参列者は痛々しくて見ていられないといった様子だった。
皆がロイドに甲斐甲斐しく声を掛けていた。
「彼女は人にやさしくて思いやりのある女性だった。彼女がいなくなって寂しいよ」
「とても素敵な奥様でした。残念でなりません。お悔やみ申し上げます」
「彼女はとてもチャーミングだったわ。あまりにも早すぎて残念でならないわ」
「クリスティーナの訃報を聞いて君に何て声を掛けていいのか分らないよ。言葉にならない程のショックを受けて。彼女がまだそこにいそうで事実を受け止めきれないっていうのが本音だよ。ただただ冥福をお祈りするばかりだよ」
皆がクリスティーナの事を思ってくれている。
クリスティーナは多くの人に支えられていたんだなと有り難い気持ちで一杯になる。
そして自分を献身的に支えてくれたんだなという感情が高まりロイドはより一層悲しみに暮れた。
そして、残された自分の事を気遣ってくれている声を聞いていると早く皆に元気な姿をみせないとという気持ちになれた。
クリスティーナの棺は藤木の木立が見渡せる静かな墓地に埋葬された。
クリスティーナとロイドは結婚してから13年の月日を一緒に過ごしてきた。
子どもは授からなかった。
授からなかったというよりも子供を儲けようとしなかったというのが実際の二人の結婚生活だった。
クリスティーナの埋葬を済ませるとロイドは弁護士という職業上また多忙な日々に舞い戻り夜遅くまで仕事をしていた。
ふと一人になる時にクリスティーナの事を思い出し切なくなる事があった。
彼女が恋しい。
彼女の温もりがまだ掌に残っている。
君がいなくなって寂しいよ、クリスティーナ。
ロイドは表面上は気丈に振る舞っていたが心の中では自己憐憫に浸っていた。
周囲からは「まだ若いんだから早く彼女でも作って再婚したら」とロイドの身を案じる声も聞こえていた。
だが、ロイドはクリスティーナの事が忘れられなかった。
そして1年という月日が過ぎた。
ロイドはクリスティーナ亡き後も彼女の遺品はそのまま手付かずで残していた。
衣服や宝飾品、靴や彼女が使っていたマグや化粧品。
まだ彼女がそこにいるような感覚に浸れて処分する気にはなれなかった。
もう彼女がいなくなって1年。
ロイドも己の中にある蟠りを払拭したいと思っていた。
一つのけじめと区切りをつけようと彼女の遺品を整理する事にした。
彼女の家族や友人に形見分けとして持っていてもらえたら彼女も喜ぶだろう。
ロイドは休みの度に彼女の遺品整理を少しずつやるようになった。
その日の休日もロイドは朝からクリスティーナの遺品を片付けていた。
まだ然程整理が進捗していなかったクローゼットをこの日は片付けようとロイドはシャツの袖を腕捲りして望んでいた。
クリスティーナが好んで履いていたAGのデニム。
冬によく羽織っていたお気に入りのモンクレールのダウンジャケット。
春になるとエレガントに着熟していたプラダのスプリングコート。
出掛ける時によくからっていたマーガレット ハウエルのウォッシュ加工されたヴィンテージコットンのショルダーバッグ。
彼女の愛用していたクロエのシトラスの香りが残り香となってほんのり香っている。
ロイドは胸が締め付けられるような気分になった。
このダウンジャケットは確かディズニーランドに行った時に着てたな。
このスプリングコートはルイジアナに旅行に行った時にソフトクリームをこぼして染みが取れるかなって心配していたな。
クリスティーナとの思い出が先週の出来事だったように思い出される。
一つ一つの衣服を見てクリスティーナとの思い出を回想していたらクローゼットの一番奥のあまり目に付かない棚からフェラガモのパンプスの箱が出てきた。
その箱にはロイドにも見覚えがあった。
結婚1年目の記念日にクリスティーナに贈ったプレゼントだ。
当時の記憶が脳内にまざまざと蘇り楽しかった記憶とその記憶を彩ってくれたヒロインである彼女がもうこの世には存在しないという空虚感に襲われた。
このフェラガモのパンプスはスレンダーで美脚だったクリスティーナに映えるだろうなと思って贈ったプレゼントだった。
鮮やかなブルーバイオレットのパンプスが入っているだろうと思って箱を手に取り蓋を開けた。
パンプスが入っているものだと思って箱を開けたものの中にはノートが1冊入れられていた。
ノートの表紙には08年07月~19年11月と記されてあった。
家計簿にしては、この記入されている年月からして1冊で納まる筈はないだろう。
日記か何かかな?
整理を中断してロイドは、そのノートを手に取りリヴィングのソファーに掛けた。
ノートの表紙を繰った。
中身は、そのパンプスをプレゼントした翌日の日付から始まっていた。
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