第5話 後悔、あるいは未練

 優とシアの想いマナが込められた白い西洋剣がマエダの首を捉えた。その瞬間、優の手に返って来た感触は、肉を切る感触ではなく、繊維の詰まったゴムの刃を当てたような。到底、斬ることが叶わないと思えるほど硬質な手応えだった。


 しかし、それでも。


 優の中にある、シアの力を借りれば、どんな障害でも切り開くことが出来るという信頼が揺らぐことは無い。


「ぁぁぁーーー!」


 万感の思いを込めて優は剣を押し込んでいく。その刃がマエダの首の皮を割き、肉を抉り、3分の1ほど食い込んだ時だった。


「……!? 退けぇっ、優!!!」

「ぐぅっ!?」


 完全に意識を取り戻したマエダが、優の身体に裏拳を当てた。


 魔法で強化されるのは身体の硬度だけだ。体重は、人間のそれと変わらない。トラックにはねられたと同等以上の衝撃を受け、優の身体が軽々と宙を舞う。10m近く地面と水平に吹き飛んだ優は、コンビニのガラスを突き破り、陳列棚にぶち当たったところでようやく止まった。


 通常なら、即死級の一撃。よくても骨折は必至だろう。しかし、優には、打撲程度の痛みしかない。


 ――これが、権能の力……!


 まだ余裕を持って戦えることを確認した優が目線を上げると、コンビニの外――階段前広場には、今まさにシアを捕食しようと口を大きく広げる巨大な闇猫の姿があった。


「……は?」


 瞬間、優の思考が一気に加速する。なぜ、どうして闇猫がここに居るのか。どこから現れたのか。不意の出来事に闇猫を見上げて固まるシアと、魔人アスハに虚を突かれた春野の姿が、優の中で重なる。


 シアとの距離は、10m以上離れている。今から駆けつけたとしても、1秒以上はかかる。あまりにも遠く、絶望的な距離。


 ――……また、なのか?


 またしても魔獣という理不尽に、大切なものを奪われるのか。恐怖と無力感ですくみそうになった足を、それでも優は、「シアを助ける」という使命感だけでどうにか動かす。今の優にとって絶望は、足を止める理由にはならない。


 ――頼む、間に合ってくれ!


 地面を蹴った優がコンビニを飛び出し、一直線にシアのもとへと駆け出す。あと1秒、あと0.5秒で良い。時間が止まらないか。あるいは、気まぐれで闇猫が口を閉じるのを遅らせてはくれないか。諦めたくない一心で、優が3歩目を踏み出した瞬間。


『ナァォ♪』


 闇猫の口元で、あっけなく血の花が咲いた。


「……くっ!」


 血で染まった現実から目を逸らすように、優は理想だけを追い求めて闇猫に駆ける。まだ、可能性はある。まだ、間に合う。自分に言い聞かせて走った優が闇猫のもとにたどり着いたのは、走り出してから2秒後。人を助けるには、あまりにも遅い到着だった。


 優の人生で、二度目だ。またしても目の前で、大切な命がついえる。


「あ゛ぁぁぁ………っ!」


 優が闇猫に振り下ろしたナイフに、


 怒りか、悲しみか、絶望か。ひょっとするとその全ての感情を込めて優は闇猫にナイフを振り下ろす。もうその無色透明なナイフに、白いマナはまとわれていない。その事実が、無慈悲なほどに、優に現実を突き付けてくる。


 対する闇猫は、大量のマナを取り込んだことによる身体の変化に抗っている最中で、優の攻撃への反応が少し遅れた。瞬時に身体を小さく縮め、優の攻撃をかわそうとする。そうして一応の対処行動を見せた一方で、遊び相手にもならない相手が、自身を傷つけられるとは微塵も思っていない闇猫。最悪、攻撃がかすめたとしても、怪我をすることは無いだろうと高をくくっていた。


 だからこそ、優の透明なナイフが鼻先をかすめた瞬間に走った強烈な痛みに、


『ナ゛!?』


 闇猫は数年ぶりとなる悲鳴を上げた。


「出せ……。シアさんを、吐き出せ」


 感情の見えない顔で言って、闇猫に刃を振り下ろす優。その姿に、久方ぶりの恐怖を覚える闇猫。目の前の人間は、自分の身体を切り裂くことができる。もしこのまま身体を小さくしていれば、一刀のもとに身体を両断されてしまう。


 瞬時に思考を巡らせた闇猫が、今度は身体を巨大化させた。おかげで、優のナイフによって闇猫が一刀両断されることは無かった。しかし、優が振るったナイフは深々と闇猫の前足を抉り、確かな傷を与えられることになったのだった。


 現状、強大なマナを取り込んだ直後の闇猫には、身体が変化してしまうリスクがある。自分の知らないマナに自分を侵食される本能的な恐怖は、闇猫にもあった。そのため――。


『ナォ』


 短く鳴いた闇猫は身を翻し、戦略的撤退を試みる。その意図を正確に見抜いた優には、もちろん、闇猫を逃がすつもりはない。激情に飲まれた今の優にとって闇猫は、十数年を生きる最強の魔獣でも何でもない。大事な人を2人も殺した、ただの魔獣であり、敵でしかない。それこそ、自分1人でも必ず殺すことができると思えてしまうくらいには、闇猫に対するあらゆる恐怖が失われていた。


 ただし、それはあくまでも優の所感でしかない。現実として、ただの人間でしかない優が闇猫に打ち勝つのは、不可能だ。例え闇猫が不安定な状態だったとしても、優が単身で闇猫と戦闘するのは死と同義。そんなことにも気づかないくらい、優は視野しや狭窄きょうさくに陥ってしまっていた。


「逃がすか」


 小さく呟いた優が、再び足にマナを集中させる。


 ――春野。シアさん。2人の仇を、取る。


“守る”から“ただ殺す”へ。戦う目的を変えた優が足を踏み出す、直前で。


「ダメです!」


 後ろから優を羽交い絞めにする存在があった。


「くそっ、離せ!」

「絶対に、離しません! いま優さんを行かせたら、絶対に死んじゃいますっ!」

「良いんだ! また、守れなかった! 何一つ、守れなかった! こんな、力も何も無い俺が生きている意味なんて――」

「優さん!」


 ついに優は仰向けに押し倒される。後頭部を強かに打ちつけた優が、この時になってようやく、自身を押し倒して馬乗りになる人物へと目を向ける。そこには――。


「私は、大丈夫です。生きています。だから、落ち着いてください……!」


 涙を浮かべるシアの姿があった。


「シア、さん? なんで、生きて……。食べられたんじゃ……」

「食べられたのは、私じゃありません」

「そんなはずは……。だって血も、マナも……」


 優の目の前で弾けた血は、間違いなく致死量だった。しかも、優の武器からはシアのマナが消えていた。だからこそ優は、シアが戦闘不能……死んだと確信したのだが。


「血は、魔人さんのものです。〈物語〉の権能が途切れたのも、魔人さんが死んで戦闘が終了……幕引きしたからです」


 優の言葉1つ1つに、丁寧に事実を返していくシア。


「そん、な……」

「信じられませんか? で、でしたら……」


 優の手を取って、自分の頬に触れさせるシア。自棄になったことで、自分の想いに素直になった彼女だったが、さすがに自ら身体に触れさせる行為には恥じらいを覚える。それでも優を落ち着かせるために、羞恥心を押して、大胆な行動に打って出たのだった。


 そうしてシアの頬に触れる指先から伝わる熱と柔らかさ。そして、感情の高ぶりから白いマナを“お漏らし”するシアの様子に、優もようやくこの光景が幻ではないことを理解する。


「……良かった。シアさんが、無事で」


 感慨深く、心の底から漏れた優の言葉と笑顔に、シアもつられて頬を緩めるのだった。


 少しして立ち上がった2人は、魔人マエダが残した血だまりに目をやる。


「魔人さん、最期まで私を……」


 眉尻を下げたシアが静かに目を閉じ、先の光景をまぶたの裏に思い浮かべる。


 何もない場所から突如現れたように見えた闇猫。シアが気づいた時にはもう、自分は闇猫の口の中に居た。あとは闇猫が口を閉じるだけ。死を覚悟する時間もない、そんな刹那の間にただ1人。マエダだけは、常に自分の周りに漏出しているマナの異変を通じて闇猫の接近に気付き、先手を打つことが出来ていた。


 優を裏拳で無理やりどかし、シアに向けての道を確保。マエダが駆け出した瞬間に闇猫が巨大化し、シアを捕食する体勢に移った。


「シア!」


 マエダ自身も分からない理由で、シアを助けようと口と身体が動く。視界の端ではようやく優がコンビニから飛び出してきた。まるで、この世の終わりのような顔をして、それでも、懸命に足を動かしている。が、絶対に間に合わないだろうことはマエダにも分かった。


 ――はんっ、お前がシアを守る、だぁ? ガキのくせに、抜かすんじゃねぇ!


「守るって言うなら、俺ぐらい力をつけてから言いやがれ、青二才」


 伸ばしたマエダの腕がシアに届き、彼女の身体を押し出す。立ち替わるように、マエダが閉まり行く闇猫の口内に収まった。


 驚いた顔でマエダを見つめるシア。無意識にマエダに向けて伸ばされたシアの腕を、マエダが取ることは無い。どうして、と、涙をたたえた目で訴えかけるシア。その姿を見てようやく、マエダは自身の不可解な行動の理由を知る。


 ――そうか。シアはアイツに、似てたんだな……。


 魔人になる前。最も愛した人物の姿が、マエダの脳裏をよぎる。


 人々の理想の姿を体現した、完ぺきな容姿を持つシアとは似ても似つかない。どこまでも普通で、何なら少し不細工と呼ばれる女性だったかもしれない。それでも、は彼女の優しさと、たくましさと、それでいてどこか危うい雰囲気に、惹かれた。守ってあげたい、共に歩みたい……いや、歩むのだと、誓った。


 しかし、屈強な男の誓いは、魔獣という理不尽によって破り捨てられた。絶望し、魔人になってもなお残った、愛する人々を守りたいという強い願い。それは同時に、前田敏生としきという男が人間をやめる最期の時まで抱えていた、後悔でもあった。


 あの日果たせなかった誓いを、今度こそ果たす。


「生き残ってくれよ、……―――」


 マエダが愛する人物の名前を呼ぶ。同時に、全てを飲み込む闇猫の口がマエダの全てを噛み砕き、丸飲みにしたのだった。

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