第二幕・前編……「手折られる理想」

第1話 『闇猫』襲来

 100を超す命を刈り取る音は、しかし。優たちの耳には、たった1つの音に聞こえた。パンッと、やや水分を含んだ何かが、はじけるような。それだけの音だった。


 場所は、クリスマスイルミネーションが施された銀杏いちょう並木が続く、御堂筋みどうすじ。幅40mを超える巨大な交差点が束の間、時を止める。が、次の瞬間には、


「「ま、魔獣だーーー!!!」」


 そんな誰かの叫びを皮切りに、一瞬にして阿鼻あび叫喚きょうかんの地獄と化した。


 春野を抱え込むようにして倒れた優は、姿勢を低くしたまま周囲を確認する。と、背後を確認した優の視界が、巨大な黒猫の姿を捉える。まるで毛づくろいでもするかのように、手のひらを舐め、頭をこする巨大な黒猫の正体は、言うまでもなく、魔獣だった。


 黒猫。その文字を最初に見たとき、多くの一般人は可愛い猫を思い浮かべることだろう。あるいは、不吉の象徴としての、憎らしくも可愛らしい猫のことを。


 しかし、優たち特派員にとって、黒猫とは不吉などではない。死、そのものだ。


 13年前に確認された、最古の魔獣の1体。日本史上、最も多くの人を殺し、動物を殺し、魔獣を殺し。そして、最も多くの特派員を殺した魔獣。その名も――。


 ――闇猫やみねこ……!


 優は自分たち特派員が使う教科書でも語られるもっとも有名な魔獣の名前を、心の中で叫んだ。


「か、神代くん? いったい何が――」

「動くな、春野! ついでに絶対に目を開けるな!」


 起き上がろうとした春野を、優が押しとどめる。


 スプラッターが苦手だと語った春野が、今、優が見ている光景――人々の足だけが血を吹き出しながら立っている姿――を目にすれば、恐怖を通り越して発狂することは間違いない。


 いや、それ以前に、いま動いて闇猫に目を付けられようものなら、自分も春野も仲良く腹の中に収まる。そう優は考えていた。


 そうして彼は、春野を抑え込む姿勢のまま、息を殺して待つ。体感にして数分、数十分にも感じられた長い時間。しかし、実際は数秒でしかない。


『ニアァ……』


 一言鳴いた黒猫が優の視界から姿を消す。そして、次の瞬間には、対岸の交差点で悲鳴が上がる。またしても数えきれない命が、一瞬にして刈り取られた。


 ――危機が去った。


 そう考えて息を吐いてしまった己に、優は呆然とした。


 優は、特派員だ。いま自分がするべきだったことは、この身を犠牲にしてでも、時間を稼ぐことではなかったか。逃げること、生き延びることを真っ先に考えていた自分の弱さに吐き気を覚えて、優は口を押える。


 一方、優に覆いかぶさられる形で地面に寝転んでいたのは、春野だ。彼女が混乱したのは一瞬だった。聞こえてくる人々の悲鳴に特警としての使命感が燃える。


 優の言いつけを破ることに少しの罪悪感を覚えつつ、目を開けた春野が見たもの。それはたった今、血を吹き出して倒れていく、人々の下半身だった。


 ただ、なぜだろうか。現実に目の当たりにする悲惨な光景は、逆に、どこか現実離れしているように春野には感じられた。地面を赤黒く染める液体も、濃密な血の臭いも、トラウマを植え付けられたスプラッター映画で感じた恐怖には遠く及ばない。


 嫌に冷静な春野の視界が、目の前で口を押さえる優に向けられる。実際は自身への嫌悪感に吐き気を催していた優だったが、春野はそれを悲惨な光景によるものだと判断した。


「わたしは大丈夫です、神代くん」

「春野……」

「それよりも、わたし達にはやることがある。……違いますか?」


 優しい声と表情で言う春野の姿に、優は唇を噛む。


 スプラッターが苦手で、現に今、こうしてむごたらしい光景が広がっている。そんな光景を目にしてもなお、自身の使命を忘れない春野と自分を比べてしまったのだった。


 それでも、ここで卑屈にならないのが神代優という少年だ。すぐに思考を切り替えて、行動に移す。


「そうだな。まずは避難誘導か」


 起き上がろうとする春野に手を貸しながら、改めて周囲を確認する。


 闇猫は今、交差点に計4つある島の3つ目を襲っていた。ただし、襲撃から時間が経っているため、交差点に居る人々はまばらになりつつある。その代わりに、サイレンの音を鳴らして集まって来るのは警察と救急の人々だった。


「アレは……闇猫ですよね? 日本の要注意魔獣“黒魔獣くろまじゅう”の1体」


 優の手を借りて起き上がった春野が、対角線上にある島で尻尾を揺らしている巨大な黒猫を目視しながら優に尋ねる。


「ああ。4体居る黒魔獣のうち、黒猫に当たる魔獣だ。よく知ってるな、春野」

「ううん、学校で習うから」


 対魔獣専門家の特派員が対人模擬戦をテストとしていたように、対人魔法関連のスペシャリストである特警もまた、魔獣の知識を多少なりとも学ぶ。その中に、


『魔獣でありながら、圧倒的な自己を持ち、姿形を変えずに人々を襲う魔獣たち』


 という文言があったのだった。


 しかし、特警が訓練の過程で魔獣について学ぶのはごく一部だけだ。彼らはあくまでも、対人魔法関連事件のスペシャリストでしかない。


 春野からの問いかけに頷いた優は、ひとまず移動しながら春野と情報を共有する。


「あの素早さと、しなやかな動き。何よりも警戒しないといけないのは、身体の大きさを瞬時に変えられることだ」

「大きさ?」

「それだけ、って思うだろ? だが、それが何よりも厄介なんだ。……動くぞ!」


 優と春野。2人して注意深く観察していたはずの闇猫が、またしても姿を消す。


 実際は、闇猫は身体の大きさ瞬時に小さくして、持ち前の素早さで駆け回っているだけに過ぎない。しかし、闇に溶け込む黒い毛並みと俊敏な動きに、どうしても人の目は追いつけない。目を慣らそうにも、気付けばその人は殺されている。


 その点、2度、3度と黒猫の動きを見ることが出来ていて、なおかつ、常人離れした動体視力を持つ優は、かろうじて目でその動きを追うことが出来ていた。


「正面、まだ襲ってない島だ!」

「う、うん!」


 黒猫の動きから狙いを察して、急いで駆け出す。緊急事態と言うことで、魔法の使用はこの場にいる全員に認められている。よって、優も春野も、市民を守るために出し惜しみせずに魔法を使っていく。


 しかし、魔獣の、それも史上最も人を殺している魔獣の身体能力に追いつけるほどではない。


「くっ……、間に合わない!」


 優の視界の先でまた、いくつもの命が消えた。


 ――さすがに俺たちだけだと無理だ!


 大規模討伐任務が組まれるほどの相手を、まだ見習いでしかない自分1人でどうにかできるとは優も考えていない。警察が動いているということは、特派員・エージェント達にも応援要請が入っているはずだ。


 しかも難波・心斎橋には多くのエージェント事務所がある。有事の際には、文字通り一瞬で駆けつけられるはずだ。


 ――なのに、なんで誰も来ない!?


 そんな優の疑問は、遠く、別の場所で上がった悲鳴によって判明する。


「神代くん! 別の場所で、魔人の集団が市民を襲っているみたいです!」


 仲間から緊急の連絡を受けた春野が、心斎橋にある商店街のアーケード内で人を襲う魔人の存在を優に伝える。


 優たちは知るよしもないことだが、闇猫の襲撃は、魔人たちによる計画の一環だった。


「何がどうなってるんだ!?」


 安全なはずの内地に突如発生した最悪の魔獣と魔人の集団に、優の混乱は加速する。その間にも闇猫から逃げ遅れた人々が、次々に“死体”になっていく。


 人が多い方へ、多い方へ移動し、縦横無尽に人を襲う闇猫。それを追いかける優と春野の追いかけっこは、闇猫が不意に足を止めたことによって終わりを告げた。


 私鉄の「なんば駅」前。かつては御堂筋の終点としてバスやタクシーの乗り場とロータリーが迷路のように入り組み、にぎわっていた場所だ。しかし今は区画整備によって『なんば広場』と呼ばれる、見晴らしの良い巨大な歩行者空間に変わっている。


 今日はクリスマス。家族連れや恋人たちが憩いの場として利用していたはずだが……。


「お願いだから、早く! 早く中に入って! うちには娘が……」

「押すな! こっちにも小さい子供が居るんだ!」

「んなこといいから、はよ奥行けや!」


 騒ぎを聞きつけた人々が、我先に地下街や建物の中へと逃げ込もうとし、巨大な集団を形成している。混乱で感情が高ぶった人々がマナを漏出させ、町が色とりどりに染まる。中にはそうして漏れ出た大量のマナに三半規管を乱され、倒れる者まで居た。


 これまでであれば、それら人々のマナの輝きは闇猫によって一瞬にして刈り取られていたのだが、


『……ナォ?』


 動きを止めて耳をピクピク、鼻をヒクヒクさせた体高5mほどの黒猫が人々を襲うことはない。


「どう、したんだろ……?」

「分からない。が、春野は避難誘導をしていてくれ。このままじゃ魔獣以外での死人が出る」

「わ、分かりました。……皆さーん、特警でーす!」


 魔獣に関する事件と言うことで、文化祭の時とは逆。特派員である優の指示に春野が従う。


 春野が混乱する人々をなだめ、避難誘導を始めたことを確認しながら、優は慎重に闇猫の動きに目を配る。


 ――何かを警戒しているのか? それとも、闇猫の気を引くものがあるのか……。


 ただし、恐らくその両方は同じだという結論を優は導く。


 魔人と違い、魔獣は知性が低い。黄猿・赤猿のような例外も居るものの、闇猫は“野生”を強く残している魔獣であることを優は知っている。闇猫にとって人間はねずみ。おもちゃであり、食事でしかない。


 そんな闇猫が警戒しなければならない相手。あるいは、興味を持つ存在は共に“マナが多い存在”と言うことだ。それはつまり、現在、近くに天人、魔力持ちが居るということ。そして、


「B級特派員、柴島くにじま、到着です!」


 優が待ちに待った応援、しかも魔力持ちだと予想される男性が、優の隣に現れたのだった。

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