第2話 黒魔獣

 黒魔獣。それは、日本で確認されている魔獣の中でも危険度が高く、個別に名前を与えられている黒い魔獣のことを指す。


 からすの『赤目あかめ』。くじらの『E-1イーワン』。犬の『クロ』。そして、猫の『闇猫やみねこ』。黒鯨くろくじら/こくげいとも呼ばれるE-1を除くすべての魔獣が13年前から日本で確認されており、今なお生き続ける、最強で最恐の魔獣たちだった。


 そんな、日本でも有数の魔獣と相対する優のもとに駆け付けたのは、現役の特派員たちだった。


 多くが、優の通う国立訓練学校7つのいずれかの卒業生であり、日々戦場に身を置く者たち。彼らが駆け付けたことで戦況が覆される……ことは無かった。




 私鉄のなんば駅前。周囲を、百貨店を始めとする高い建物に囲われた「なんば広場」と呼ばれる巨大な歩行者空間。ここから少し行けば千日前商店街があったり、数年前までは優もよく行っていたオタクの町、日本橋にほんばしがあったりする、そんな場所で。


「がっ……」


 町を明るく照らす街灯の下に、また1つ死体が転がる。それは、優のもとへと真っ先に駆けつけた男性B級特派員の柴島くにじまはるかだった。


 動かなくなった彼に、5m近い巨躯を持つ闇猫がそっと前足の肉球を被せる。すると、肉がつぶれ、骨が砕けるような音がした。やがて闇猫が手をどけると、もうそこには血の跡しか残っていなかった。


 柴島くにじまが所属していたセルの特派員たち3人が、悔しそうに顔をゆがめる。


 マナの量は天人10人ほどとも言われ、本来であれば100人を超える大規模討伐任務を行なって対処する相手である闇猫。いくら場数を踏んだB級特派員たちと言っても、たった数人で敵うような相手ではない。もっと言えば、一般の特派員では時間稼ぎすらできないというのが正直なところだった。


「神代特派員! 避難の状況は!?」


 広場全体を見渡せるよう、街灯の上に立つ波島はじま英介えいすけが、背後で避難誘導を行なう優へと声をかける。正規の特派員たちが駆けつけた以上、仮の特派員でしかない優の仕事は避難誘導へと変わっていた。


「避難状況はどうなっていますか、神代特派員?」

「目視可能な周囲の人は建物内に退避完了しました!」

「了解です。私たちが闇猫を抑えるので、神代特派員は商店街の方に……くっ」


 優に指示を出す途中で、闇猫が街灯の上に居た波島を襲った。間一髪、回避した波島だったが、空中に身を躍らせることになる。足場のない空中に、逃げ場はない。


 闇猫が猫パンチと呼ぶにはあまりにも殺傷力の高い手で波島を襲う、直前。波島が黄色いマナで盾を〈創造〉する。直後、どこからか飛んできた青い〈魔弾〉が波島の持つ盾に命中した。


 衝撃で吹き飛ばされる波島だが、そのおかげで闇猫の猫パンチを避けることに成功する。波島の意図を瞬時に察したセルメンバーとの、一糸乱れぬ連携だった。これまでであれば、そこからまた態勢を整えて魔獣に相対することが出来た。


 しかし、いま波島たちが相手にしているのは、日本で最も多く特派員と戦っている魔獣だ。


 建物の壁に着地し、すぐさま段違いの足場を作って地上に帰還しようとする波島。だが、彼が作り出した足場にはもう既に、1匹の小さな黒猫が居る。大きさは、20㎝ほど。子猫とも呼べる大きさだ。


「猫……?」


 それが、波島の遺言となった。


 下から波島の動きを観察していた優の目には、猫はただ尻尾を揺らしてじゃれついたようにしか見えない。それでも、猫が波島の足に触れた瞬間、波島の足が破裂した。悲鳴を上げる時間もない。体勢を崩す波島の身体を駆け上がった子猫――闇猫は、波島の頭部を蹴って反転。


 波島と見つめ合うと、その身体の大きさを瞬時に5mほどに変えて、


『ナォ』


 巨大な口で一思いに、波島を丸飲みにしたのだった。


 空中で巨体から本来の猫の大きさに戻った黒猫は、空中で軽やかに身を躍らせ、優のすぐ隣に着地する。闇猫の金色の目と、優の目が合う。


『ナォォォ……♪』

「くっ……!」


 まるで挨拶でもするかのように鳴いた闇猫は、透明な武器を構えた優から視線を切る。そして、次なる遊び相手を求めて、先ほど青い〈魔弾〉を使用した特派員のもとへと駆け出したのだった。


 そんな闇猫を、優が追うことは無い。正確には、追おうとする意思に反して、身体が全く動かないのだ。


 ――どうしてだ……?


 優は1人、膝から崩れ落ちる。


 柴島、波島、両名共に、優よりも多く実践経験を積み、鍛錬を重ね、市民を守ってきたヒーローだった。そんな彼らが、いともたやすく殺されていく。憧れていた存在が、目の前で次々に消えて行く。


 ――なんで……っ。


 正規の特派員が来れば、状況は変わると思っていた。少なくとも、時間を稼ぐ程度のことは出来る。そう優は思っていた。だというのに、現実はあまりにも無情だ。柴島、波島両名が生涯をかけて培ってきた正義が、あまりにも簡単に手折たおられる。


 膝を折る優から少し離れた場所で巨大な爆発が起きた。残された波島のセルメンバー、戸郷とごう伊草いぐさ阿久津あくつ巾木はばきB級特派員たちが、闇猫と奮戦しているのだ。


 しかし、数度の爆発音ののち、なんば広場には静けさが戻る。男性4人で結成された波島のセルが全滅するまで、時間にして3分もかからなかった。


「これが、黒魔獣……」


 これまで優が戦ってきた魔獣とは、一線を画する。いや、自分たちが戦ってきたのは本当に闇猫と同じ“魔獣”だったのかと、優は思わざるを得ない。それほどまでに黒魔獣『闇猫』は、優の知るこれまでを否定する存在だった。


『ナァォ♪』


 優の目の前に再び姿を見せた闇猫が、尻尾を揺らしてご機嫌に鳴く。命を賭けたやり取りも、圧倒的強者である闇猫には遊びと変わらない。そう言われているように感じて、


「はは、あはは……」


 優としては、もう、笑うしかなかった。


 逃げる、あるいは戦わなければならないことなど、優も分かっている。これまでもそうしてきたように、わずかに残る最善への道筋を考え、最後まで諦めずに足掻き続ける。そうありたいと優自身も思っているし、そうするべきだと理解している。


 それでも目の前で100を優に超える命が潰える光景を目にし、待ちに待った憧れの存在――正規の特派員たちが手も足も出ずに捕食された。


 人々を守るという目標を果たせなかったという無念。憧れたヒーローが儚く散っていく絶望。身体が、心が、優の思考に追いつかない。


『…………』


 時折首を傾げながらジッと優を見つめ、ゆっくりと優に歩み寄る闇猫。距離にして5mほど。身体の大きさを変えられる闇猫にとっては、必殺の間合い。それでも闇猫が身体を大きくしないのは、優を警戒すると同時に、期待しているからだ。


 要救助者がそこに居れば、そこには必ず、新しい遊び相手が来ることを闇猫は知っている。


 そして今回も、闇猫の試みは成功したと言える。


「神代くん!」


 駆けつけたのは、避難誘導をしていた春野だった。


 混乱する人々を建物へ、あるいは地下へと誘導した春野。次の言指示を仰ごうと広場に戻ってみればそこには誰もおらず、音もしない。


 もう戦いが終わったのか。注意深く辺りを見回してみれば、四肢を付いて動けずにいる優が見える。彼の目の前には小さな黒い猫が居たが、それをただの猫だと思うほど、春野は抜けていなかった。


「春野! 来るな!」

『ナォ♪』


 優の叫びと、闇猫の笑い声が重なる。


 またしても優の前から姿を消した闇猫――成猫せいびょうサイズ――が夜闇に紛れ、春野に肉薄する。つい先ほどまで照明の下に居た春野はまだ目が暗闇に慣れておらず、すぐに闇猫の姿を見失ってしまった。それゆえに、


「ぅっ!?」


 不意に傍らに現れた闇猫の手を銀杏いちょう色の警棒で防げたのは、特警として何度か修羅場を乗り越えてつちかった勘でしかなかった。


 右側面から迫る闇猫の凶手を細い警棒で受け止めた春野。踏ん張るのではなく、あえて吹き飛ばされることで衝撃を和らげることにする。ただし、その見た目にそぐわない圧倒的な魔獣の腕力は、春野がこれまでの人生で知るものではなかった。


 加えて、とっさのことだったため飛ばされる方向などに気を配ることは出来なかった春野の小さな身体が何度も地面を転がり、広場に置かれていた椅子やテーブルなどに衝突する。幸いなのは、それらが持ち運びしやすい、軽いアルミ製だったことだろう。衝突による春野へのダメージそのものは大きくなかった。


「うくっ……」


 アルミの椅子に囲まれて立ち上がった春野の隣には、体長30㎝ほどの黒い猫が尻尾を揺らしている。


「あ――」

『ンナァ』


 触れるだけで人間の身体を吹き飛ばす、あるいは口を作り出して瞬時に人を捕食する。そんな闇猫の手が春野の足に触れる、直前。


「ふっ」

『ナッ♪』


 優が闇猫に斬りかかったことで、どうにか闇猫の攻撃の手を止めさせることが出来たのだった。

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